同居
久しぶりにキスをしたいんだけどな。
などと云ったら、今この俺の横で黙々と書き物をしているマルチェロは何と云うだろうか。
いや、何も云わないかも知れない。
机ではなく床の上、幾分か姿勢を崩した格好でいるとはいえ、
この人の何かに向かう意志の強さまでは崩せない。
そのようなことを考えていると、不意に羊皮紙に落ちていたマルチェロの目がこちらを捉えた。
僅かに狼狽する。
「なんだよ」
するとマルチェロは口許を意地悪げに微笑ませた。
「久しぶりにキスをしてやろうか」
ぎくり、と心臓が鳴る。だが俺にだって矜持くらいはある。
「すぐにそうやって人の心を読むの、やめろよな」
そう云うと、マルチェロはわざとらしく「ほう」と顎に手をやった。俺の、顎だ。
「これは驚いた。私はべつにお前の心を読んだわけではないのだがね?」
私とこうしたかったのか?と近付くマルチェロの目が問うている。
アンタこそ俺とこうしたかったんじゃないのか?
身長の関係で少し上目遣いの眸で俺はマルチェロにそう問うた。
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同居
ククールの右手薬指からするりと指輪を抜いたマルチェロは、それをそのまま光に翳した。
石だ。それも安い。
「昨日バザールで買ったんだ」
ククールはマルチェロが腰掛けた椅子の背凭れを抱きかかえるようにして体を寄せてきた。
「声かけた娘がなかなかの美人でさ。お近付きのしるし?再会を願って?そんなところ」
揃いの指輪をその娘に遣ったと云う。
「女に遣るにしては安価なものだな」
マルチェロは指輪をククールの指には戻さず、執務机に置いた。
ククールは思ったとおり「返せ」の一言もない。思い入れがないのだろう、指輪にも、その娘にも。
「そりゃお兄様がケチなせいだろ」
「これはこれは心外だ。二十歳を超えた弟に小遣いをやっているというのに」
ククールが可笑しげに笑った。その微かな息がマルチェロの耳を擽る。
「ま、本物の石を贈るほどの仲じゃないってことだよ」
そう云ってククールは指輪を取られた意趣返しとでも云うように、
マルチェロの肩越しに彼が手にしていた書簡を奪った。
マルチェロが何も云わなかったところを見ると、ククールが見ても良いものらしい。ざっと目を通す。
「ふぅん」
西の大陸の有力者からの便りだった。マルチェロに足を運んで欲しいとある。
ククールがこのような内容の便りを目にするのはもう数度目だった。
「このお客サンも、余程アンタに会いたいらしいな。大した上客でもないくせに」
「だが彼の人脈を捨てるには勿体無い。
遠く離れた地より、少し政略の知恵を貸すくらいなら悪くはあるまい」
マルチェロは再びククールの手から書簡を取った。そのまま机に放る。
「行かないんだ」
「この私がわざわざ出向いていかねばならぬような者ではない」
それに、とマルチェロは付け加える。
「私はここにいれば良いのだ」
私は≠ノ本物の≠付けねば分からないほどの頭ではないだろう?
マルチェロは口許を上げた。
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同居
ああこの人には情緒だとか繊細さだとか、
とかくそういうものを欠いた心が詰まっているのだとククールは思う。
心がないわけじゃあないんだ。
睫はマルチェロから寄せられた顔に触れそうなほどだった。だが最後の距離を彼は詰めない。
心がないわけじゃあないんだろうけど。
「強引だな」
ククールはわざとぶっきらぼうに呟いた。
カウチに胡坐を掻いたまま、つい先程まで捲っていた聖伝を膝の上に乗せたまま。
マルチェロにいたってはほんの数秒前まで小難しいタイトルを掲げた本に耽っていたくせに。
「俺、こう見えても雰囲気を重視するから、調子出ねえかもしれねーぜ」
ククールは唇の端を上げた。眸を細める。
するとマルチェロもまた同じように表情を作った。
「私がするのだから、お前は大人しくしていればいい」
「そういうところが強引なんだよなあ」
「嫌か?」
ずるい、とククールは思った。こんなキスをされて嫌だと云えるはずがない。
「いやじゃない」
そういうククールの舌がうごめく。マルチェロはその赤を奪った。
「調子が出ないのではなかったのか?」
上手く憮然とした顔が作れているかだけが心配だった。
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同居
外からの帰り、ややあてつけ気味に「さみぃなあ」と居間の扉を開いてやった。
どさんと買い物袋をテーブルに置く。
そのせいでそこに無造作に広げられてあった栞がいくつも挟まれた書物や重ねられた紙が震えた。
そこで漸くマルチェロが顔を上げる。
「そのご自慢の高い鼻はそれほど赤くはなってはいないが?」
「そこまではまだ寒くないさ」
そう云ってククールは墓穴を掘った。それほど頭は悪くはないからすぐに掘らされたことに気付いた。
マルチェロはもう書き物をしている。
「外はまだそれほど寒くはないのだな」
などとも云う。
ひどい、とククールは思った。
まだ鼻の頭が赤くなってしまう季節ではないが、それでも出かけるには億劫で、
外に出れば時折肌をちくちく痛める風が吹いているのだ。
なのにそんな言い方ってひどいんじゃねーの?
とククールが口を尖らせてみようかと思ったそのとき、
マルチェロが傍においていたカップをククールのほうへと押して寄越した。
それはココアだった。まだ湯気をゆらゆらと立てている。
ククールはそっと両手でカップを取った
「なにこれ。くれんの?ささやかお気遣い?」
両手で取ったのは冷たくなっていた手を温めるためだ。
マルチェロは書き物の手を休めることなく、栞を挟んでいた書物のページを捲る。
「その冷たい手でべたべたと触られてはたまらんからな」
「飲むために勧めたんじゃねえのかよ」
またやられた。また掌の上だ。
「この自己ちゅーめ」
ククールはふぅふぅとココアを冷まして勝手に飲んでやることにした。
あとで兄が好む紅茶を淹れてやろうかなどと考えたのは、
ココアを好むのは兄ではなくククールのほうだったからだ。
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同居
「あにき」
「うん?」
「先に謝るから、ゆるしてくれよな」
ククールはキスをしてくれていた兄の両頬を両手で包み、そっと下腹部へと導いた。
ふ、という兄の微かな笑みが熱をじくりと刺激する。
「早いな」
ぺろりとやってやるとククールはその指をマルチェロの髪へと差し込んできた。
「もっと、か?」
「うん、もっと…」
すぐに「あっ」と弾けた。
「早いな」
マルチェロはもう一度言ってやる。
ククールはむすっと拗ねた。
「アンタのキスが長いのが悪いんだ」
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二人旅
「あ」
ブーツの金具が外れた。仕方なくククールはその場に屈む。
狭くなった視界には踏まれて堅く色浅くなった土、冬枯れの草、金具が外れたブーツ、
それを直す自分の手。
そして立ち止まったマルチェロの足。
金具をいじる手が少し拙くなった。
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同居
いつもとは、正確には出かける前とは違うリボンで髪を束ねて帰ると、
マルチェロは目敏く気付いたらしい。
「女の子たちが、こっちのほうがかぁいいって云うからさぁ」
やや舌足らず。
思考ははっきりしている、けれど酒の入った体が裏切る。
「もらってきちゃった」
だれのものなのか分からない返す当てのないリボン。昔なら名前くらいは聞いていただろう。
「ああ俺って、今きっと満たされちゃってんのよなぁ」
そこからなにがどうなったのか、兄貴のベッドで兄貴にふにゃり体全部あげちゃっていた。
マルチェロが鼻先を俺の首筋に寄せてくる。
そして嗚呼、口で器用にリボンをするりと解いて、落としやがった。
俺は気持ち良さとおかしさで喉をそらして笑ってやったね。
「いつもはそんなことしないくせにぃ」
なんてかぁいい人なんだ。
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同居
マルチェロと暮らし始めて45日目。
相変わらずこの人は俺以外には饒舌で、
俺だけには寡黙と云うよりも話すことなどないから喋らないという姿勢をとっていた。
なんという合理的考え方。
「ひどくアンタらしいよ」などと云っても、
それに対して何らかの応えをすることに益がないという計算を働かせるマルチェロは、
喋らないし、応えない。
ま、事実わざわざ喋ることなんてないんだけどさ。
他愛ないこと、他愛ないこと、と最初の二週間は考えて、諦めた。
三週間目の始まりの日には昔話を話しかけて、あまりに不景気なので口を噤んだ。
仕方がないので最近は話さないか、話せば皮肉か、そんなところだ。
だがそれにもだんだんと飽きてきた45日目。
また会話のない静かな夕食。
食器のかちゃかちゃという音だけが異様に大きい。ああ煩いなあ。
おまけに俺が作ったコーンスープが異常にまずい。ああひどいできだ。
緩慢にそれを口に運ぶ。
そうしてマルチェロのことをずっと盗み見ていた。
マルチェロはいつもと変わらず食事を進めている。
「アンタってさ、味覚音痴?」
結局スープを食べ終わったマルチェロに、俺はスープ皿をぐるぐるとスプーンでかき回しながら問うた。
「こんなにまずく作ったってのに」
まずい、とか一言くらい言ってくれてもいいんじゃねーの?
するとマルチェロは不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
「なんだ、わざとか」
ああくそ、兄貴。
なんだ。とはこっちの台詞。
「なんだ」
気、遣ってくれてたんだ。
46日目には、また他愛のないことでも話してみよう。
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同居
悪戯心も手伝って、窓辺の長椅子で昼寝をする兄貴にちょっとだけキスをしてやった。
寄りかかっちゃあ重いだろうから腰を曲げて、
髪が掛かっちゃあくすぐったいだろうからきちんとそこんところは配慮して、
こんなにもしてるってのによくできた弟とは褒めてはくれない。
ほら今もまた眠りから覚めた目で、よくも起こしたな何を勝手にしているのだ、と責めてくる。
そんなに怒るなよ機嫌悪いねとその目を覗き込んでいると、マルチェロの掌が俺の後頭部に添えられる。
温かいのはきっとたぶんまだ眠いからなのだろう。
そのわりにゃあ力は強い。ぐぐっと押さえ込まれて、キスを二度された。
あのね、そんなにぐぐっとしてくれたら痛いんだけども。
そんでさ、そんなことしなくてももっとこっち来いとか云ってくれたらいいんだよ。
あと、不意打ちはちょっとずるい。
俺もずるかったけど、アンタがするともっとずるい。
「負けず嫌いなのだよ」
そんなこと云っちゃ、おれ、今から三度キスしちまうよ。
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同居
あまりに物憂げな表情の横顔で逆にした椅子に座しているものだから、
ふとその長い髪を指に絡めて耳まで梳いてみる。
すると彼は「くすぐったいなあ」と仕方なさそうに笑い、
それから「どうしたのって聞いてくれてるの」とこちらを見上げて小首を傾げた。
「なんでもねえよ」
と彼は言う。
「俺の今の憂鬱はね、もうすぐ雨が降りそうだ、そういう程度のものなのさ」
それはまた随分と温いことだ。
「しあわせなんだよ、おれは」
また一度髪を梳いてやりたくなって、そうすると、「あにきも温くなったもんだ」と言った。
そうしてまた「もっかい、して」と彼はことさらゆっくりと呟いた。
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