Kukule
一歩、二歩、三歩と数えて、彼は七歩ほど離れたところに立っている。
俺に背を向け立っている。神さまと対峙するように立っている。
そのように見えるのは彼が女神像と向かい合っているせいだ。
七歩くらいの距離、一秒もあれば越えていける。
だがそんなたった七歩が、たった一秒の距離が、十年掛けても俺には詰めれない、届かない。
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Kukule
酷い言葉なら何でも良かった。
この存在を貶めてくれる言葉ならどんなものでもかまわなかった。
ククールは虐げられることを快とする人間ではなかったが、マルチェロに酷く貶められるそのときだけ、
マルチェロを苦しめ苛む“良き血”を持つ罪から逃れられるような、そんな気がするのだ。
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Kukule
神さま。
この胸にある想いを遂げてしまうのと、この想いをあなたにさえ隠して墓まで持ってゆくのと、
いったいどちらが罪深いのでしょう。
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Kukule
「俺は何度となくこの俺自身の出自を後悔したが、
ここでアンタと出逢ったことは、これが善いことだったのかと幾度迷いが生じても、
結論として後悔したことなんて一度もない」
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Marcello*Kukule
「世迷言だな」
と彼は手の甲に頬を預けたまま、ふんと鼻でククールを笑った。
その長躯は寝台に沈められている。
招かれた屋敷に滞在する聖堂騎士が今はククール一人だからだろうか、
マルチェロは平素に比べれば気を緩めているようにも見受けられた。
ククールはひそやかに辺りを照らす灯りが飾られた壁に背を預ける。
「世迷言、ですか」
なに、他愛のない話。かりそめの世界をまるで見てきたように話しただけ。
たとえば二人の髪の色、眸の色、姿形がまるで兄弟のように似ていたならば、
「世迷言だ」
マルチェロは深く繰り返した。
ククールも深く何かを確かめるように繰り返す。
「たまにね、迷ってしまいたくもなるんですよ」
ふたりを隔てるものの、その深くに。
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Marcello*Kukule
夜半頃から降り出した雨は、一夜明け、昼が近くなっても変わらず修道院を閉ざしていた。
中庭にある噴水の水面をククールは見つめる。
空はそれほど暗くはない。ただ石造りの天井が重い。
壁に背を預けたククールの眸は修道院の影を映したかのような青だった。
「昔さ、何かの哲学書で読んだことがあるんですよ」
礼拝堂から騎士団宿舎へと歩むマルチェロにククールは云った。
「人は他人の中に自分を見つけるとき、その人を愛したり、憎んだり、するんだってさ」
やや俯いた視界にマルチェロの軍靴が入る。ククールは意識して顔を上げた。
「ああ、ここにある書物全てに目を通し、記憶してる団長殿なら、もちろんご存知のことだったかな?
そうだったなら、とんだ失礼を」
マルチェロの横顔。均整の取れた身体。それを包むマイエラの青。腰に帯びた剣。
それらは全てククールの視界から去るものだ。
このまま何かの意地のように雨の降る中庭を眺めていれば。
「こんなにも苦しい。息が詰まるくらいだ。
それだけしか俺とアンタの間には落ちていないっていうのにさ」
それでも、どうしても、離れ合えないのは、
「俺の中にアンタが、アンタの中に俺が、いるからなんだろうな」
ククールの眸がマルチェロを追いかけた。
もしもククールがこうしてマルチェロを追わず、あの噴水ばかりを眺めていたなら、
兄はいったいどうするのだろうか。
離れられないのではない。
俺たちは離れ合えないんだ。
ククールは振り返りもしない兄の背を見詰めて、そのようなことを考える。
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Marcello*Kukule
まるで薄闇に入るためのような修道院の回廊で軽快ステップ。
暗に明を、静に動を、与えるようなその足運びに加えて不安定リズムの鼻唄を。
だがそれは唐突に途切れた。
不意に影から手が、腕が伸びてきたのだ。抵抗する間もなく背後から首を締め上げられる。
同時にわき腹につんとした痛み。ククールはぞっとした。刺殺される。
もがこうとしたが、それさえも許そうとはしない手にねじ伏せられる。
ククールの喉から苦悶の声が漏れた、そのときだった。
「お前は隙だらけでいけない」
ふと体に自由が与えられた。
ふらりと二・三歩前のめりになりそうになるのをこらえて振り返る。マルチェロだった。
「これはこれは団長殿。いったいどういうおつもりですかね。悪ふざけはアンタの一番嫌うものでしょう」
「忠告だ」
マルチェロは鞘におさめた短剣でもう片方の掌を軽く打つ。
「修道院内といえども、いつ何時なにが起こるか分からない。ここはそういうところだ」
「俺になにかしそうなのはアンタのくせに」
ククールはわざとふざけて見せた。マルチェロはそのような態度に満足したように回廊を去る。
ククールはやれやれと修道院の天井を仰いだ。暗い。
「ここはアンタにとって家じゃあないんだな」
隙を見せちゃいけない家なんてないよなあとククールは再び軽快ステップ。
暗に明を、静に動を、冷たい青に熱の赤を、与えるように。
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Marcello*Kukule
「お前の心は脆く、弱い」
とマルチェロはククールの急所を射抜いた。
肉が切れ、血が噴出すようなことはなかったが、ククールの唇は今にも切れて血が滲みそうだった。
或いは心臓が発作に見舞われたように早く打ち、胃の辺りは穿たれたように苦しかった。
そのようなククールの姿を見て、マルチェロは艶然とする。
「痛むか」
だがククールはただ黙する。それがこの場における唯一の麻酔なのだ、この痛みに抗う唯一の。
「酒を断て。賭博に耽るな。女を捨てろ。ああ、失礼。お前の場合は女たち、かね?」
それがお前の心を脆く弱いままにさせるのだとマルチェロは云った。
酒で過去を記憶の遠くへと押しやり、賭博で押しやったことさえ一時忘れ、
女で過去が在るべきところを埋める。
「だが私の前に引き出され、酒も賭博も女も取り上げられればこの体たらく。
どれだけ平素泰然としていたとしても、それは全て偽りだ」
弱いものは剣にはならん。駒にさえならない。マルチェロはそう云った。それは最後通告にも等しい。
「出て行け、と仰りたいのですか」
ククールは唇をついに解いた。それは翻ってまたククールの胸を突く。
だが言葉を搾り出した。
「出来かねます」
「何を出来かねるのだね」
「ここを出て行くことも、彼女らを捨てることも、出来かねます」
それはマルチェロを射抜いた。
「酒と賭博はまだしも、彼女たちは捨てろと云われて簡単に捨てられるものじゃあない」
彼女らは心ある人だ。
それもマルチェロを射抜いた
マルチェロは肘を椅子につき、その笑みを珍しく愉快げなものに変える。
「あの男の血を引いているというのに、お前だけは何もかもを捨てられぬのだな」
心ある人を捨てる。
マルチェロがそのような言葉程度で、そのような過去の一端程度で、崩れるような人でないことが、
過去の体現者たるククールがここに在れる助けとなっていることが哀しかった。
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Marcello*Kukule
「時々呼吸の仕方を忘れるんだ」
ククールは牢の奥でぐったりと頭を垂れていた。
「それと同じだよ。時々理不尽なアンタを恨んで恨んで大嫌いで仕方なくなる」
頬はまだ幾分か腫れている。
「でも呼吸を忘れてしまったら、死んでしまうだろう?」
ククールは笑う。彼には自嘲めいたそれが良く似合った。
「それと同じさ。
アンタを慕う心を忘れてしまったら、この肉体だけを残してククールという存在は死んでしまうんだ」
皮肉げなところは殊更鏡を覗き込んでいるようだった。
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Marcello*Kukule
この人が無心になることなどないのだとククールは思う。
騎士団長室の青いベッド。公私を隔てるはずの衝立。放り出した長い二本の足。
その間に腰をおろした自分はまるで女のように兄の肩に頬を預けていた。
兄は一見無心にククールの髪を梳いている。
「なあ、まだしないんですか」
ククールは半ば諦めを滲ませながら問うた。マルチェロはああと云う。
彼はククールが思いつきもしないことをあれこれパズルのように組み合わせては壊し、
また組み合わせているのだろう。
しなくてもいい、とククールは思う。
ククールの中にいるときまでそんな難解なパズルをされては傷つく。
ククールは目を閉じた。あとは無心に髪を梳かれる。
何も考えないほうがきっとずっと幸せなのだ。
だがそうは生きられないこの人の正直さを苦しくも愛しく思う。
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