Marcello*Kukule




シモーネ・グリモールのお茶会



 暖炉の炎が赤々と燃えている。




 シモーネ・グリモールという三十代半ばの地方貴族は変わった男であった。

 ククールが知る王族や貴族、裕福な商人たちは決して道徳的に優れているわけではなかったが、

 シモーネ・グリモールと比べれば彼らは理解に容易い人間らしい人間であり、

 返して云えばシモーネ・グリモールは理解に苦しむ、そういう一人の貴族の男だった。




 彼は元々マイエラ修道院の熱心な信者として知られており、聖堂騎士団の支持者でもあった。

 必然的に聖堂騎士団の騎士団長との繋がりは深く、

 そういった経緯でククールがシモーネ・グリモールの元へ祈祷に赴くことになったことは、

 容易に察しがついたし、また事実でもあるのだろう。

 騎士団長自身もこの関係を、

 彼にしては珍しくシモーネ・グリモール個人の魅力に因るところが大きいこと認めていた。

 通常ならばその個人と個人に属するあらゆるものを包括的に、否、

 個人に属するあらゆるものを有益か無益かで判断する彼の騎士団長が、

 「シモーネ・グリモールは面白い男だ」

 と云うのだから、ククールは人というものに対してあまり持たない興味をそそられ、

 「じゃあその顔、拝みに行って来ますよ」

 と、どうせククール自身には拒否権もない祈祷を了承した。

 「女神を拝んでもらわねば困る」

 とマルチェロがいつものように皮肉めいた笑みを浮かべるその背後で、暖炉の炎が赤々と燃えている。




 シモーネ・グリモールは変わった男であった。

 面白いという表現よりは、ククールにとっては変わった男というほうがよく馴染んだ。

 まだ結婚もせず、代々続いてきた土地管理をあっさりと捨て、新たに商売事業を起こした男。

 熱心なマイエラ修道院の信者の皮を被った無神論者。

 金遣いは荒いのではなく大胆で、そこに決して有益がなくとも、

 「投資したほうが面白いから」とあっさり云ってのける理由で莫大な財を投じる商売人の裏鑑。

 彼は祈祷という名目で週に一度やって来るククールにバルコニーのテーブルを勧め、

 必ず紅茶と菓子を振舞った。

 毎週、それが数ヶ月晴天に恵まれたある日に、

 「雨の日はどうするんですか」となにげなくククールが問うたら、

 「傘を差せばいいんじゃないかな」と笑って答えた。

 そういう偏屈家で酔狂な男だった。

 嫌いではなかった。その横顔が寧ろ好きだった。

 整えられた黒い髪と、穏やかな眸が不意に伏せられる様子は、少しだけ兄を思い起こさせた。

 と云っても、それは現実の兄ではなく、もしも自分がいなければ、という仮定した兄だったが。

 紅茶と菓子がなくなる頃にはいつももう陽は落ち掛け、

 壮大な夕暮れがバルコニーの眺望に広がっていた。

 赤々と太陽が燃えている。

 その夕暮れに向かい帰って行くククールに、シモーネ・グリモールは「またおいで」と必ず云った。

 ククールはまた来てもいいが祈祷金は上乗せするよとバルコニーを振り仰いで答える。

 すると彼は「しっかりしてるねえ。君の兄上にそっくりだ」と笑って、

 バルコニーに両腕を預け、ククールにいつも手を振っていた。とても穏やかな笑みだった。




 彼とは飽きるほどに話をした。

 祈祷も祈祷に暗に含まれるあれこれも、一度たりともしなかった。

 シモーネ・グリモールは女神に祈る時間があれば悪魔を喚び出そうとする男であったし、

 同衾の相手は男性との経験はあるらしいが、どちらかと云えば美女を好んだ。

 それではいったいどうして自分が祈祷に遣されたのか不思議に思っていたが、

 「最初は話の種に寝るつもりだったんだけどね。

 君とは寝るよりも話していたほうが面白いよ。寝るだけなら女でいいさ」

 そんな話題さえも上る程であった。

 ククールはどちらかと云えば相槌を打つ側であったが、

 シモーネ・グリモールの皮肉の効いた話に耳を傾けるのはちっとも苦痛ではなかった。

 貴族の乱痴気騒ぎ、王室内紛争、上手い商売のやり方、世界の不思議に伝説、

 神学と教会についてのニヒリズム。

 そしてマルチェロのこと。

 ククールは熱心に耳を傾けたものだった。




 だがシモーネ・グリモールが決して穏やかで変わり者というだけの男ではないことを

 ククールの天性の才は嗅ぎ付けていた。

 そのことをいつものようにバルコニーのテーブルで紅茶を啜りながら云うと、

 「そりゃ君の兄上と僕は仲良しだからね。

 ただの良い人とは仲良くなる必要なんてないと解っているんだろう、彼も。

 良い人なんてもんは、こっちが仲良くしようなんて思わなくとも、勝手に寄って来て、

 いろいろと良くしてくれるもんだよ」

 そうけらけらと笑ったシモーネ・グリモールを見て、また兄を重ねる。

 きっと言葉は違えど、あの兄が云いそうなことだった。

 「ククール、ククール」

 呼びかけられて顔を上げる。

 「君のそれ、天性のもんなんて思っちゃいけないよ」

 真意を図りかねてククールは答えに窮する。

 シモーネ・グリモールは続けた。

 「そういうものを持たなければならなかった君は可哀想な子なんだよ」

 覚えておきなさい、と云った顔もまたあの日の兄を思い起こさせるものだからだろうか、

 酷く胸が締め付けられた。




 その日は珍しく朝から雨が降っていた。

 シモーネ・グリモールの所へ毎週通うようになってもうすぐ全ての季節が廻ろうとしている頃のこと。

 初めての雨は肌寒さを誘った。

 修道院を出る前にその旨を報告しに訪れた騎士団長の部屋には、

 赤々と暖炉の炎が灯っていたことを思い出しながら屋敷へ赴くと、

 いつものようにククールを出迎えたシモーネ・グリモールは傘を二本持っていた。

 「まさかホントに傘を片手にお茶するんですか?バルコニーで」

 傘を受け取りながら呆れ半分のククールに、シモーネ・グリモールは不思議そうな顔をした。

 「そうだよ。だって雨が降っているじゃないか。傘を差すのが当然だろう」

 「…ま、いいんですけどね。変わってるよな、アンタ」

 雨の中のバルコニー。

 温かい紅茶の湯気がよく見えた。

 「そうかい?」

 「うん。そうだよ。マルチェロ団長は面白い男だ、と云ってましたが」

 「マルチェロも面白い男だよ。傍で見ている分にはね」

 シモーネ・グリモールはティーカップを置いて、ククールを見据えた。

 その視線にククールが気付く。

 ククールが何かと問う前に、シモーネ・グリモールはいつもの調子で話し始めた。

 「ククール。今日でお別れだ」

 いつもの穏やかな微笑。

 ククールは柳眉を寄せた。
 
 「お別れ…?」

 シモーネ・グリモールは続ける。

 「私としてはいつまでもこうして君とお茶をしていたかったんだけどねえ。

 どうやら君の兄上がご立腹のようだ」

 「マルチェロが…!?」

 ククールは思わず傘を取り落とした。

 バルコニーに転がる傘。

 ククールの髪や衣服をみるみる濃くしていく雨粒。

 「彼とは、まあ君も知っている通り、仲良くいろいろな悪戯をしていたのはいいが、

 どうやら僕が面白半分で彼の大事な悪戯ルートを奪ったのが悪かったようでね」

 聖堂騎士団がもうすぐこの屋敷へ自分を捕らえにやって来る、

 とシモーネ・グリモールはククールが落とした傘を拾い上げながら云った。

 まるで他人事のような響きに差し出された傘を受け取るのも忘れる。

 「いったいどういうことだよ!さっぱりわかんねえよ!」

 「うん、そうだねえ。彼が奪われるのが大嫌いと解っていて、ちょっとからかったらこの様さ」

 それに、とシモーネ・グリモールはククールに差し出した傘を下げた。

 ククールが一向にその傘を受け取る様子がないからだ。

 「まあ僕の読み違い、というところかな。

 確かにそろそろ僕との関係も潮時ではあったと思うけれどね。

 奪ったことはきっかけに過ぎないだろうが、まさかこんなに早くマルチェロが動くとは。

 余程僕が気に入らなくなったようだ」

 ククールは項垂れた。

 「…二人の悪事がばれる前に、アンタだけを切るって云うのかよ」

 罪を全てシモーネ・グリモールに被せて。

 その手で断罪するというのか、あの人は。

 「安心おし、ククール」

 シモーネ・グリモールは席から立ち上がり、ククールに傘を差しかけた。

 「安心?あいつが容赦するとは思えない。何を安心しろって云うんだよ」

 しかしシモーネ・グリモールは首を振った。

 「マルチェロが、君の兄が、僕と同じ罪を教会に問われないことをだよ」

 ククールがシモーネ・グリモールを振り仰ぐ。

 シモーネ・グリモールはいつもククールを見送ってきた穏やかな笑みだった。

 「僕を捕らえる罪状にマルチェロが関わったものはないはずだ。断言できる。

 彼がわざわざ自らの立場を危うくする罪状で僕を捕らえるとは思えない。

 だから僕は彼との悪戯は誰にも云わない。

 マルチェロのためでも、君のためでもない、僕がそれ以上の罪に問われないためにね。

 自ら罪を増やすほど僕は殊勝な人間じゃないよ。

 だから安心おし、ククール。マルチェロが教会に捕らえられる罪なんて最初から存在しない。

 さすがはマルチェロだ、そこまで解っていて僕を切る側にあっさりと回って見せた」

 ククールは何も云えなかった。何処かで安堵している自分がいるからだ。

 シモーネ・グリモールに対しての情がこの程度だった自分が嫌になる。

 さあ立って、とシモーネ・グリモールは云った。

 「もうお帰り、ククール。ここに君がいては厄介なことになる。マルチェロにとってね」

 視線がテーブルの上を彷徨う。

 冷めてしまったのか湯気のゆらめきが消えた紅茶、雨に濡れた菓子。

 椅子に腰掛けたままの自分の膝、脚、そして震える拳。

 「君が残っていたとしてもあのマルチェロのこと、何らかの理由をでっち上げるだろうけど。

 僕は君に感謝しているんだ、一年間実に楽しかった。だから素直に帰してあげる。

 マルチェロのためじゃない、君のために、君をマルチェロに返してあげるよ」

 「…マルチェロは、あいつは解っているんだろうな」

 ククールは呟いて、のろのろと立ち上がった。

 「アンタが俺を帰してくれること、そんなアンタを見捨てて俺が帰ることさえ」

 シモーネ・グリモールはもうククールに傘を勧めなかった。

 ククールも傘を拾わなかった。

 傘が返せないことを、

 シモーネ・グリモールの傘を差して帰ることをあの騎士団長が許すはずがないことを、

 ククールもシモーネ・グリモールもよく解っていたからだ。

 その帰り、ククールはバルコニーを振り仰げなかったけれど、

 シモーネ・グリモールという一人の変わった男はいつものようにククールを見送っていたに違いない。

 そんな確信が雨雲のようにククールに重く垂れ込めていた。




 騎士団長室の扉をやや乱暴に開けて、ククールははたと気付いた。

 こちらを何か滑稽な玩具のピエロでも見るような目付きで見ている騎士団長の背後、

 暖炉の中で赤々と燃えている炎。

 何を燃やしているのか、ククールは唐突に理解した。

 シモーネ・グリモールという人間を燃やしているのだ。

 シモーネ・グリモールの存在を示す紙切れが暖炉の中で赤々と燃えている。

 「そうやって、アンタは人を紙切れ一枚で破り捨て、燃やしていくのか」

 胃から込み上げる思いを呻いて吐き出す。

 マルチェロは執務机に両肘をつき、その掌の上に顎を乗せたまま、くちびるを吊り上げた。

 それが答えであったし、それ以上マルチェロが何も答えはしないことくらい、

 ククールには解りすぎるくらい解っていた。

 「ククール」

 黙り込むククールの名をマルチェロが呼ぶ。

 雨音は窓ひとつない騎士団長室には届かない。

 「ククール」

 炎が弾けた。マルチェロはそれをククールの返事とした。

 「随分と濡れているな」

 今や衣服は重く湿り、濃さを増した銀糸からは引っ切り無しに雨粒が伝い落ちている。

 ククールは答えない。

 マルチェロはゆっくりと言葉を紡いだ。

 「風邪を引くぞ」

 息が詰まった。

 刹那にククールはケープを翻す。

 そして「失礼します」の一言を叩きつけるようにして残し団長室を後にした。

 見張りが驚いたような、不快げな顔をしていたが、そんなことにはかまわなかった。

 廊下を早足で抜けながら、ククールは「くそったれ」と毒突く。

 また許してしまった。

 あんな一言で、またあの人を許してしまった。

 くちびるを噛締め、そのままククールは修道院を飛び出した。




 キイキイと音を立て揺れる扉から、見張り番がおずおずと顔を出す。

 「今ククールが…」

 連れ戻しますか、とその男が問うたので、マルチェロは口許に見ては取れない僅かな笑みを浮かべた。

 「いや、かまわん。放っておけ。

 あれはここしか帰るところがないのではなく、望んでここへ帰って来るのだから」

 それは確信的だった。

 マルチェロの元へククールは戻って来る。

 ククール自身がそれを誰よりも望んでいるからだ。

 マルチェロは組んでいた腕を解き、立ち上がった。

 「さて、サヴェッラへの引渡し手続きに取り掛かろうか」




 暖炉の炎が赤々と燃えている。






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