Marcello*Kukule




カンタレラ



 エンリコ・バッサーニ、普段はアスカンタ王国北西のフェルキン領主と呼ばれる男の別邸に、

 マイエラ修道院に本拠地を置く聖堂騎士団団長と一人の騎士が訪れたのは、夜も更けた頃だった。

 その旨を長くバッサーニ家に仕える者から耳打ちされ、

 エンリコは少々思い通りには動かなくなってきた体を椅子から上げた。




 エンリコ・バッサーニという男は老練な政治家であった。

 古くから東大陸の商業を担うフェルキンはその商い故に富み、

 それ故にアスカンタは勿論のこと、多くの領地・国と通じる外交力は欠かせないものだった。

 今まさに最盛期を迎えようとしているフェルキンの影には商人たちは云うまでもなく、

 教会とさえ太いパイプラインを持つと云われるエンリコの存在があることは後世の歴史家が示す通り。

 エンリコは二人を通した客室へと急ぐことなく向かった。

 老人は穏やかな顔をしていた。優れた政治家であり領主の顔である。

 窓から入る月光がエンリコの行く道を浮かび上がらせ、影を作る。彼の身の丈以上に影を長く、長く。




 扉を開くと、青い騎士団長服に身を包んだ偉丈夫は正面の窓の前に立っていた。

 もう一人の騎士は手持ち無沙汰そうに部屋の左手、寝台とは反対の壁に凭れ掛かっている。

 聖堂騎士団の騎士服色とは異なる、赤い騎士服を纏った若い男だった。

 しかし若いのは赤い騎士だけではない。

 エンリコは自分の足元まで伸びた男の影を辿り、聖堂騎士団が誇る若き統率者マルチェロを見やった。

 マルチェロは穏やかな微笑を浮かべていたが、それはエンリコの微笑と良く似ていた。

 そう、あの人の上に立つ者独特の尊大さを失わない笑み。

 エンリコがまず椅子に腰掛け、マルチェロに席を勧める。

 騎士団長が完璧な礼儀と優雅さを織り交ぜ席に付くと、赤の騎士はその背後に静かに佇んだ。

 勿論この訪問はあってはならないものであるから、

 騎士団長が従えて来たこの騎士はマルチェロの信頼が厚いのか、口が堅いのか、

 それとも斬り捨てても問題がない者なのか、そのどれかだろうとエンリコは考える。

 エンリコが視線をやると、赤の騎士は涼しげな目許に僅かに微笑を浮かべた。

 月の泉を思わせる薄青い眸が揺れ、それは「やあどうも」程度の軽い挨拶らしかった。

 「葡萄酒でも如何かな?」

 エンリコはマルチェロに切り出した。

 何処にも記録されない密談である。鬱陶しい挨拶を聞くのもするのもエンリコは省いた。

 騎士団長もそれを心得ているのだろう、脚を組ながら頂きましょうと応える。

 「フェルキンの葡萄酒は格別と聞きます」

 エンリコの指示で葡萄酒が二人分運ばれた。

 「アスカンタ王家にも献上されている品でな」

 エンリコが瓶を取り、グラスに赤い液体を注ぐ頃には、

 葡萄酒を運んで来たバッサーニ家の者は部屋を退出しており、廊下に気配もなかった。

 グラスに三分の一ほど注ぎ、エンリコはマルチェロにグラスを勧めた。

 「さあ、どうぞ。騎士団長殿。香りを愉しむも、味を愉しむも良いでしょう」

 マルチェロの剣を握るためだろう節の強い指がグラスへと伸びる。

 彼がグラスに触れる姿は何処かわざとらしくもあったが、

 それをこの男の醸し出す威圧的な穏やかさが許していた。

 グラスが彼の胸辺りまで上がる。

 そこでエンリコはさすがに顔には出さなかったが、心臓の鼓動を跳ねさせた。

 蛇だ。

 白い蛇が騎士団長の逞しい体に絡みついている。

 甘い声が更に絡まった。

 「団長殿、お一人で狡いですよ」

 マルチェロの左肩にはあの赤い騎士の顔。

 彼の見事な銀髪が騎士団長の青い衣と黒い髪を飾る。

 絡みついた白い手が青の上を軽やかに滑り、マルチェロの持つグラスへと伸びた。

 騎士の左手はグラスを持つ団長の右手の節を意味ありげになぞり、

 右手は同じく騎士団長が首から下げた装飾品を弄るのに忙しい。

 金の装飾品が鎖と擦れ合う音が僅かに響く。

 「申し訳ありません」

 マルチェロは別段驚いた風もなく、寧ろこれが当然のことだと云わんばかりの顔でそう云った。

 その左手が赤い騎士の頬を撫でる。

 「これへの躾には手を焼いております」

 頬を隠していた銀髪がマルチェロの五指から零れ、溢れた。

 騎士団長の手から赤い騎士の手へと流れるようにグラスが移る。
 
 騎士は葡萄酒を前にし、舌なめずりをしたように見えた。

 そうして一気に飲み下す。

 騎士団長の左手が騎士の頬から顎、顎から喉を撫でてゆく。

 まるで騎士が今口にした葡萄酒を追いかけいるかのようだった。

 赤い騎士の喉がこくりと上下した。騎士団長の手が騎士を離れる。

 それを承知していたかのように騎士もまたグラスを団長の右手へと返し、姿勢を正した。

 「ご馳走様。美味しかったですよ、とてもね」

 騎士の冬色をした青い眸がまた微笑を浮かべる。

 そこでエンリコは気付いた。

 毒見だ。

 この騎士は毒見をして見せたのだ、エンリコの目の前で、これでもかとわざとらしく。

 マルチェロを見やれば、彼は変わらず微笑を浮かべていた。

 エンリコは自らの聡さを今ばかりは呪った。

 毒見だなどと気付いて、いや思ってしまったことこそ、この目の前の男の罠だった。

 「どうされました、エンリコ殿」

 まさか毒見をしたのだろうとは云えない。

 そういう意志があったのかと問われれば、黙るしかないからだ。

 毒見と想起した時点で、この男に毒を盛る意味がエンリコにとってあったことを自ら示したのだ。

 勿論毒など盛ってはいない。

 騎士は形の良いくちびるを引き結んだまま佇んでいるではないか。

 だが確かにエンリコの心中にはこの男の急速な教会内での成長を危惧するものがあった。

 そう、その底知れぬ闇を糧に天へ昇ろうとする蛇をエンリコは怖れていた。

 そして今まさに茶番劇をもって彼は暗黙のメッセージを伝えて来た。

 この密談は命のやり取りである、と。

 エンリコは自らに葡萄酒を注ぎ、また騎士団長へも注いだ。

 いつの間にか干上がっていた喉の渇きを癒す。

 今度こそ葡萄酒に口を付け、騎士団長は顔を上げた。

 「嗚呼、実に美味い。

 しかし今や東の大陸でも指折りの商業領に成長したフェルキンの地盤としては、

  些か繊細過ぎやしませんかな」

 彼の云うことは正しかった。

 フェルキンは商業で栄える領地だ。

 フェルキンで醸造する葡萄酒だけでは肥大化したフェルキンとその民を養うことは出来ない。

 つまり、フェルキンには交易が必要なのだ。

 他国で買い付けた品を更に他国へと売る、この循環こそがフェルキンに莫大な富をもたらしていた。

 そして張り巡らされた商業ルートの安全を確約しているのは、

 この地方一帯の警備を一手に担う聖堂騎士団、目の前の男が率いる騎士団だった。

 「何が目的だ、マルチェロ」

 エンリコは声を低くした。

 葡萄酒を傾ける男が何かしらの目的を持っていることは解っていた。

 解っていてこの密談に応じたのだ。

 エンリコに最初の道を選ぶ権利は一切与えられていなかった。

 ただエンリコ・バッサーニという男はそこからより良い道を選ぶ、現実を見れる男でもあった。

 道を呈示せよというエンリコの求めに、

 マルチェロは満足したように初めて微笑を止め、力強い笑みを前面に押し出した。

 牙を垣間見せたと云っても良い。

 「我が聖堂騎士団を聖地ゴルド及び法王の住まうサヴェッラに配備したい」

 バカな。

 エンリコは今度こそ叫びこそしなかったが、ついに声に出して云った。

 「ゴルドもサヴェッラも代々王の血縁者ほどの貴族たちが衛兵を務める地だ。

 いくら三大聖地マイエラ修道院を警護する聖堂騎士団であったとしても、

 そんなことを当の近衛貴族兵たちが許すはずがない」

 首を振るエンリコにマルチェロが制止の意で片手を挙げる。

 「エンリコ殿」

 騎士団長の口調は変わらず穏やかなものであった。

 ただその眸の光りがエンリコを捉えて放さない。

 「フェルキン領の同名都市フェルキンは大司祭がおられる」

 そう、大司祭を抱えるほどにまでフェルキンは成長していた。

 それは盛んな商業がフェルキンを押し上げた結果であった。

 尚マルチェロの低く幅の広い声が続ける。

 「今度ゴルドとサヴェッラについての警備について、教会内で話し合われる機会がきっとあることでしょう。

 是非その場ではフェルキン大司祭殿の正しいお考えを、投じてもらいたいものです」

 「…確かにフェルキン大司祭の意見ともなれば、

 教会側もそして貴族たちも、フェルキンの恩恵に預かる者は無視できぬだろう」

 エンリコはマルチェロを見据えた。

 「だが返せば、フェルキンもまたその貴族たちとの交易があるからこそ、成っている。

 彼らを裏切ればフェルキンの立場は危うくなる。

 お前は私が近衛兵側の貴族と連絡を密にしていることを知って、

 わざわざ私の元へその話を持ってきたのか。

 私がお前を謀り、大司教を言い包めず、近衛を務める貴族たちに密告するとは思わぬのか」

 エンリコは静かに淡々とそう告げた。

 冷静さを欠いてはならぬ、この男の闇に渦巻くの炎の渦に呑まれてはならない。

 マルチェロは笑った。思いませんよ、と。

 「フェルキンの品を求めるのは、王の血族から成る少数の大貴族だけではない。

 聖堂騎士団はその者の実力を買うとは云え、まだ貴族の二男・三男が多くを占める。

 その彼等の生家がどれほどあるかご存知ですかな?」

 何より、とマルチェロは肘掛に立てた手に頬を乗せた。尊大とさえ思えるこの態度。

 椅子に深く腰掛けたマルチェロは更に囁く。

 「貴方は老練な政治家であり、優れた外交官であり、そしてこのフェルキンの領主。

 フェルキンの基盤中の基盤、商業のルートを自らの手で握り潰すとは思えない」

 エンリコは黙った。

 フェルキンの商業ルートを握り潰すのはエンリコではない。

 そのルートを魔物や夜盗・荒くれ者たちから守る神に仕えし聖堂騎士団の団長なのだ。

 ただあの剣を握る手を止められる唯一の言葉がエンリコには残されていた。

 最善の選択とは?

 エンリコの額に脂汗が滲み出す。

 「ご安心下さい、領主殿」

 ここに来て領主と呼ぶかとエンリコは苦々しい思いで舌打ちをした。

 マルチェロの眼が良く躾された、けれど決して本能を忘れない獣のように細まる。

 ある種、それは官能的でさえあった。

 「フェルキンは益々栄えることでしょう。

 フェルキンさえ選択を誤らなければ、法王が口にされる葡萄酒は全てフェルキン産のものとなる」

 睦言のように耳に届く声。

 揺さぶりだ、とエンリコは気付いていた。

 聖堂騎士団ゴルド・サヴェッラ配置に賛同しているものは他にもいる。

 教会の高位に、貴族の中に密かに存在し、時を待っているのだ。時代が大きくうねろうとしている。

 汗が流れ落ちた。

 マルチェロは葡萄酒グラスを僅かに高く掲げる。

 「ご決断を」

 エンリコは最善にして唯一残された道を選ぶしかなかった。

 違う道はあったのかもしれない。

 だがこの密談は最初から騎士団長の盤上での戦いだった。

 あの毒見の時点で、エンリコは既に負けていたのだ。

 あれ以来一言も声を発していない騎士を見やれば、

 彼の目は「お気の毒さま」と対岸の火事を見るように云っていた。

 エンリコの腹は決まった。否、決められていた。

 「フェルキン大司祭殿には、法王さまにフェルキン産の葡萄酒を勧めるように云っておこう」

 エンリコはそれだけを口にした。

 マルチェロにしてもそれだけで充分だった。

 密談は終わった。

 エンリコは席を立ち、そのまま扉へと向かう。

 だが不意に気に掛かることがあり、立ち止まり振り返った。

 若い騎士が再び背後から騎士団長のグラスに手を掛けているところであった。

 「二つほど、質問良いかな?」

 エンリコは領主の顔を捨て、一人の好奇心旺盛な老人の目を細めた。

 なんなりと、とマルチェロは騎士の手を邪魔そうに振り払いながら応える。

 「もしも私が本当に葡萄酒に毒を盛っていたとしても、その騎士殿に毒見させたのかな?」

 その問いに、マルチェロはつまらないことを聞くといった顔を一瞬だけしたが、

 すぐに口許を上げて笑み、頷いた。

 「無論です」

 全ての意がその一言に集約されていた。

 迷いひとつ見せない騎士団長の答えに、エンリコは件の騎士に視線をやった。

 赤い騎士は騎士団長の背後から澄ました眼をしてエンリコを見下ろしていたが、

 エンリコは僅かにその泉に波紋を見た。

 マルチェロの言葉を受け入れも出来ず、かと云って否定するだけの強さも持たないこの騎士は、

 それでも毒を呑むのだろうと、死ぬと知っていて呑むのだろうと、エンリコは思った。

 呑み下し、床に倒れ、痙攣し、死に至るまで、この子は受容と拒絶に迷い続け息絶えるのだろうと思った。

 若い騎士は瞼を閉じる。

 そうして再び覗いた眼は静かにエンリコの視線を奥深くまで受け入れ、

 けれど決してそこにあるものだけには触れさせない気高さをもって拒絶した。

 「もうひとつ」

 誇り高き騎士団長とその傍に控える美しい騎士の姿は、悪魔が描いた絵画の一場面のようだった。

 騎士団長の指が騎士の顎を撫で、騎士が身を委ねる様に眸をうっとり伏せる。

 エンリコはかまわず問うた。

 「何故わざわざ我がフェルキンに?」

 なにもこのような危険を犯さずとも、聖堂騎士団配置に賛同する者はいただろう」

 その問いにマルチェロは騎士の銀髪を味わうように梳きながら、

 「フェルキンの葡萄酒が二度と味わえなくなるのは惜しいのでね」

 まるで深窓の姫君にするかの如く葡萄酒グラスに接吻けて見せた。






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