Marcello*Kukule




深海のレヴィアタン



 「珍しく団長殿直々のご命令かと思ったら、このような任務とはね」

 広間の壁際に整然と並べられた椅子の背後に控えるククールは、

 それに足を組んで腰掛ける男に聞こえる独り言を漏らした。

 ククールの視界を横切るのは貴族の正装に身を包んだ煌びやかな紳士たち、

 四季折々の花の色を纏った華やかな淑女たち。

 ある者は流れる調べに踊り、ある者は和やかに談笑を交わす。

 宴の甘やかな香りは現実をやわらかに包み込み、

 ワルツに翻る花々の裾はふと全てを見失わせるのに充分だった。

 「こういう場にはお前のような者の方が好まれる」

 マルチェロはグラスに注がれた葡萄酒に思い出したように接吻けながら云った。

 それに応えて開きかけたくちびるは、しかし横手から現れた人物に結ばれた。

 マルチェロも組んでいた足を解き、立ち上がる。

 不快を与えない程度に早く、しかし威厳を失わないくらいにはゆっくりと。

 マルチェロに右手を差し出してきた男をククールは知っていた。

 古くから何代にも渡りこの国の王家に仕えてきた名家の家長にして、今宵の宴の主でもある男。

 現在彼自身は国の重職に就いているが、確か彼の弟が貴族の慣例に従い教会入りを果たしている。

 マルチェロとのそういう繋がりもその辺りから来ているのだろうとククールは適当に当たりをつけていた。

 彼は五十代に差し掛かったと記憶しているが、肉体的衰えはそれほど見られず、

 寧ろ歳を重ねることによりその皺に魅力を持たせることの出来る男だった。

 「やあ、どうも。マルチェロ団長殿」

 和やかな口調と共に差し出された右手に応じ、

 グラスをククールに持たせ、マルチェロもまたその手を握り返した。

 さすがに今夜は皮の手袋をしていない。

 「今宵はこのような宴にお招き下さり、有難うございます」

 マルチェロが眼許に絶妙のタイミングで笑みを浮かべると、

 伯は彼の背後に控えていたまだ十代だろう若者の背を押した。

 「そう、団長殿にもご紹介しておきたいと思いましてね。息子です」

 父親の紹介に応じて子息もまたマルチェロに手を差し出す。

 「どうぞ御見知り置きを、団長殿」

 と初々しく且つ貴族特有の物腰で握手を求めてきた手をマルチェロが握ったところで、

 伯は手近の椅子に腰掛けながら、早速息子に席を外すように促した。

 マルチェロもまた椅子に戻り、グラスを渡すククールに席を外すよう云った。

 和やかに話し始めた彼等の会話があまり和やかでないことくらい、ククールには良く解っていた。




 「お若いのに聖堂騎士団の騎士の称号をお持ちだなんて、素晴らしいですね」

 などと自分と同じか、年下の少年に云われククールは苦笑した。

 図らずも同時に広間に放り出された格好のククールと伯の子息は、

 とりあえず席を外すという距離を父親と団長から置くために歩みを進める。

 「私は恥ずかしながらあまり剣は得意でなくて」

 そう顔を少し赤らめた頬は年相応のそれだった。

 気を取り直してククールが云う。

 「しかし貴方はご長男なのでしょう。ご長男ならば剣よりも政治なのでは?」

 「勿論、それは。私もこの家の一員として、名を守り抜く覚悟です」

 それはたいしたもんだ、と危うくいつもの調子に戻りかけククールは口を噤んだ。

 それを退屈な話題のせいだと思ったのか、子息は素早く話題を変える。

 「騎士殿は踊りは?」

 子息が見やった視線の先には月夜に溢れ零れる色彩。

 その揺らめく世界にククールは首を振った。

 「騎士団員になる以前は修道士として過ごしていたので、あまり。

 どうぞ私のことはお気になさらず、踊ってきてください」

 その言葉に踊りの輪へと入って行く少年の背を見送りながら、

 ククールは手近のグラステーブルから葡萄酒を取り上げた。

 自分が踊れるとしたら安酒場の乱痴気騒ぎのダンスだろう。

 肌が零れるような衣装を纏ったやわらかい女たちとの調子外れダンス。

 騎士団に入団するものは例外を除き貴族の三男などであるから、

 大抵の騎士団員ならばこのような踊りもなんなくこなすのだろう。

 そういえば、とふと思う。マルチェロは踊れるのかな。

 十ほどまでは貴族の庶子ではあるが長男として育てられたマルチェロだ。踊れても不思議はない。

 ククールはほろ苦い葡萄酒を喉の奥へと流し込み、壁へ背を預けた。




 朝陽が眩しく差し込む館の廊下を団長にと宛がわれた部屋へ向かいながら、

 ククールはその団長の人使いの荒さについての文句を独りごちていた。

 寝不足と疲労のためか枕に縋りつくようにして眠っていたククールを文字通り蹴り起こし、

 寝起きの顔をみっともないと罵り、挙句多々の雑用を命令する始末。

 寝不足も疲労も、汗やら涙やらでみっともない顔も、いったい誰のせいだと思っているのか。

 だいたいマルチェロ自身、ククールをベッドから蹴り落とし命令を矢継ぎ早に下していた時点で、

 まだベッドの上でおまけに裸だったじゃないか。

 自然と歩みの音は大きさを増すが、上質の絨毯がその拡散を防ぐ。

 けれど。

 彼にしては珍しく機嫌が宜しいようだった。

 ククールは手袋を嵌めたままの手、その指先で昨夜彼が喰い付いてきた首筋を撫でる。

 背筋にまるで残り香のような痺れが走った。

 彼はいつも荒々しく、獣のように牙を剥く。

 彼と肌を合わせることはククールにとって情事などという生易しいものではなかった。

 そう、まるで捕食されているようなそれ。

 ただ彼が見せる牙の鋭さも、黙々と捕食に耽るその様も、

 引き千切った肉を呑み下すその喉許さえもククールは好きだった。

 そうした彼の荒々しさは彼の闇に燃える美しい魂の領域のようで酷く官能的だった。

 ククールの手が戸惑うように首の傷を慰めるように撫でる。

 そう、昨日の彼は珍しく捕食を愉しんでいるかのようだった。

 獲物を弄びながら舐めあげ、舌で転がし、咀嚼する。

 時に牙を少し立て、流れた血を啜り酔っていた。

 捕食をエネルギー補給としか考えていないような彼がそういうことに時間を掛けるとは、

 やはり機嫌が良かったに違いない。
 
 ククールは首筋から離した手でつい数十分前に潜った扉をノックした。




 マルチェロは丁度手袋を嵌めているところだった。

 既に騎士団長服を纏い、腰にはサーベルを提げている。

 「首尾は?」

 視線を全く寄越さずに問うたマルチェロに、ククールは壁に凭れ掛かりながら答えた。

 「いいんじゃないんですかね」

 そこで漸くひと睨み。それを受け流してククール、

 「聖堂騎士団員は予定通り配置に就きました。いつでも突入可能。

 食堂ならば笛ひとつ、礼拝堂ならば笛ふたつ、伯の私室ならばみっつで、えーと…」

 ククールが云い澱むと、しかしマルチェロは「いや」と遮った。

 「なるべく突入は避けたい」

 「あ、そ。まあそれならいいんだけど。

 んで、昨日のお客さんたちはほとんど昨夜遅くに帰っているらしく、

 今この屋敷にいるのは伯の一家と近親者、あとは女中やら庭師、少数の護衛兵くらいかな」

 「そうか。ならば問題ないな」

 顎に手を当てたマルチェロの口許に捕食者の笑みが浮かぶ。

 今にも牙を剥きそうなそれにククールは、「なあ」と声を掛けた。

 「伯を捕らえるなら、どうせなら宴の前にやりゃ良かったんじゃないですか」

 どうせ喰われる獲物を遊ばせて愉しんでるの?

 その問いにマルチェロは鼻で笑った。

 「昨夜のあれは毎年恒例の会だ。

 それをわざわざ潰して出席者の要らん恨みを買うことは愚策だと思わんかね?」

 「ああ、なるほど」

 つまり昨日の宴は毎年恒例のみんなで集まって悪いお話をする場ってわけだ。

 ククールは納得とばかり頷いた。
 
 「さて、伯は今どこに?」

 マルチェロが動き出す。

 ククールは扉を開け放った。

 「食堂。朝飯食い終わったら、礼拝堂でお祈りするんだとさ」

 「ほう、それは信心深いことだ。何処かの誰かも是非見習ってもらいたいものだな」

 その言葉にククールは鼻で笑って返した。

 「そっくりそのまま団長殿に返しますよ。

 どうせ時間の無駄だとか云って、伯が祈るの待ってあげないんでしょ」

 マルチェロが扉を潜る。

 そうして背後に付き従うククールを少し振り返り、口元を歪め笑った。

 「私はその何処かの誰かがお前だと云った覚えはないが?」

 ククールに手持ちのカードはなかった。




 礼拝堂は個人の邸宅に設えられたものであるから、それほど大規模なものではなかったが、

 却ってそのため神の座の崇高さと静謐が醸し出されていた。

 奥に向かって並べられた数脚の質素な長椅子、最奥には十字架と女神像。

 聖書を頂く杯。

 そして祭壇に立つ青。

 伯は彼を見て訝しげに眉根を寄せた。

 「これはマルチェロ団長殿、朝の祈りとは思えませんが」

 伯の視線が素早く礼拝堂の扉に回ったククールに向けられるが、マルチェロの声に再び祭壇へと戻る。

 マルチェロは笑みに結んでいたくちびるを解いた。

 「祈って差し上げても宜しいですよ。あなたがお望みならば」

 手袋を嵌めた指が聖書の頁を撫でる。

 そうして徐にそれを手に取り開いたが、彼の視線は伯へと向けられていた。

 祈りが礼拝堂に広がる。




 「もしもあなたの敵が飢えるなら彼に食わせ、渇くなら彼に飲ませよ」




 その声は魂の声だ。

 彼の最も暗い海の底から出で、だからこそ惹き込まれる闇への誘い。




 「悪に負けてはいけない」




 伯の顔が苦に歪む。

 マルチェロの顔が笑みに歪む。




 「善をもって悪に勝ちなさい」




 聖書は閉じられた。

 マルチェロが口許に笑みさえ浮かべて云う。

 「伯。聖職売買の禁を犯した罪で、

 あなたを捕らえるようにと国と法王庁連名の任を我が聖堂騎士団が拝命しました」

 伯の眼が見開いた。

 ククールからそれは見えはしなかったが、伯の肩が震えているのは解った。怒りで、だ。

 「マルチェロ、貴様」

 「騒ぎ立てにならないことをお勧めしますよ、伯」

 マルチェロの視線の合図でククールは伯に寄った。力強い両腕を取り背後へと回し束ねる。

 「は!同罪の貴様がこの私を捕らえるとは、まったく笑える」

 伯は抵抗する気はないようだったが、声を荒げた。

 「そうだ、マルチェロよ。貴様も同罪ではないか!

 我が家の力を侮らぬ方が良いぞ、マルチェロ。

 この国は勿論のこと、法王庁にまで重職者を輩出している我が…」

 そこでマルチェロは牙を剥いた。彼独特の狡猾な笑みが浮かぶ。

 「それは、あなたの弟君のことですかな?」

 その言葉に伯の顔色が変わった。

 「彼の御仁も聖職売買に関わったようで、昨夜遅くに捕らえられましたが、どうやら御存知なかったようだ。

 同じ牢獄の中ではあなたの解放に尽力できますまい」

 みるみる伯の顔から血の気が失われる。

 それでも伯は訴えた。

 「では!貴様の罪も洗い浚い吐いてくれよう!そうすればお前も終わりだ。

 私が捕らえられる証拠があるならば、それはお前も同罪である証拠だからな!」

 それはまるで神に一心不乱に祈る敬虔な信者の姿のようにククールは思えた。

 だが神は救わない。

 哀れみをもって民を見下ろし、ただ口許に微笑を浮かべるのみ。

 ほらね、とククールは祭壇のマルチェロを見やった。

 マルチェロが実に愉しげに、今にも伯の滑稽さに声を立てて笑いそうになっている。

 「いったい誰に訴えると?」

 神は誰も救わない。

 祈ろうが届かない。
 
 今度こそ伯は言葉を失った。

 眼の前に立つ者への底知れない恐怖から震えているのが、ククールには解った。

 「あなたの訴えに耳を貸す者は、少なくとも私を捕らえる令を出せる者にはおりませんが?」
 
 「き…さま、そうか…、そこまで根回しをしていたのだな…。国と法王庁の審問会の奴等と結んだか…」

 そのまま伯は崩れ落ちた。

 マルチェロが聖書を杯に戻し、ゆるりと祭壇を降りる。静まった礼拝堂に彼の足音だけが響いた。

 「伯。これは私からの最大の賛辞と取って頂きたい」

 マルチェロの手が膝を付いた伯の肩に掛かる。

 「連中より貴方のほうが賢かった。それだけのこと」

 女神像には朝陽が惜しみなく零れていた。





 「まったく、団長殿に掛かっては聖書の文言さえも嫌味でしかないようで」

 伯を館前に控えていた騎士団員たちに引き渡した後、

 マルチェロは事後処理にあたるため、ククールを従え館の廊下を進んでいた。

 「なにがだ?」

 「なにが、だって?善をもって悪に勝ちなさい、って箇所ですよ。

 勝ち目ないのに、あの伯の薄っぺらいその場限り突然目覚めた善なんてさ。

 それはそうと、この家はどうなるんですかね?」

 ククールの頭に過っていたのは、昨夜少しだけ話した無邪気な少年の顔。

 家を守りたいなどと云っていたが。

 マルチェロはああとつまらなそうに口を開いた。

 「最悪取り潰しだろうが、まあそこまではいかんだろう。

 それよりも操りやすい者に継がせた方が今後何かと有益ではある。

 伯と血縁深き者は財産没収の上、修道院などへ送られるのが妥当だな。

 あの息子がもう少し大きく、あのような目をしていなければ当主に据えても良かったが」

 「ということは、あの子息も修道院送りか」

 そこで沈黙が落ちた。

 二人にとってあまりこの話題は適切ではなかったのかもしれない。

 ククールは話題を変えた。

 「ところで団長殿。俺達に朝食が振舞われる前に伯を捕まえちゃったおかげで、腹が減ったんですが」

 せめて朝飯を食ってから捕まえりゃ良かったんだと、

 ククールはいつもの調子でぶつぶつと文句を聞こえるように云ってやった。

 前を行くマルチェロは鉄面皮。

 「その間に逃げられては困る。云っただろう、彼は頭が良いのだと」

 「頭が悪くてすみませんね。たまには味わって食えばいいのに」

 獲物を。

 一発で仕留めて喰らうだけなんてククールとしては愉しさに欠ける。

 するとマルチェロは不意に立ち止まり、振り返った。

 「喰っているだろう?じっくり味わいながら」

 その翠が細まり、尊大にククールを見下ろす。ククールの背にあの痺れが走った。

 そうして顎を取られ、息が交わるほどに掴み上げられる。

 「マル…チェロ…っ」

 「だが偶には抵抗くらいしてもらわんと、喰らい尽くす気も失せる。

 まあお前が私に喰らって欲しいと横たわっている間は喰い尽くす気はないがね。

 少なくともお前の血肉に引き寄せられる奴等を喰うのが先だ」

 「はん。俺としても…っ、喰い尽くされちゃ困るんでね。丁度いいさ」

 云った瞬間、ククールは背を壁に強かに打ちつけていた。

 どうやらマルチェロに放り出されたらしい。

 この扱いの粗雑さだけは改めて欲しいと思いながら、

 もう遠ざかり始めているマルチエロの背を追おうとしてククールは背後に鈍く光るものを見て、

 咄嗟に全身で振り返った。

 血が逆巻く。

 「兄貴…!」

 腰のレイピアに手を掛けながら、背にしたマルチェロを呼ぶ。

 但しその青は剣を見よう見真似で構えた伯の子息だけを捉えていた。

 怒りに燃える双眸を持つ少年。彼は剣を重さに、そして想いに震わしながら叫んだ。

 「父は確かに聖職売買に関わっていた。

 だが、それはあなたも同じではありませんか、マルチェロ団長!」

 彼は悪に負けまいとしている。

 「やめろ…!剣を下ろせ!」

 ククールは怒鳴った。

 善をもって悪に勝とうとしている少年に。

 だがその彼の持つ善はまだ無邪気過ぎる!

 「どけ!」

 少年の足が絨毯を蹴った。

 「くそ…っ」

 闇雲に剣を構え突進してくる彼とマルチェロの直線状に、しかしククールは迷い一つなく入った。

 ふたりの体が交錯する。

 刹那、耳障りな音と共に鋭利な刃が宙を舞い、廊下を滑った。

 ククールの手には抜き放たれたレイピア。

 少年の手には刃が三分の二ほど折られた剣。

 唇を噛み締める少年に、ククールはレイピアをその鼻先に突き付けたまま云った。

 「団長に剣を向ける者を聖堂騎士団員として見過ごすわけにはいかねえんだ」

 ククールもまた唇を噛み締めていた。

 再び静寂が廊下に戻る。

 その沈黙を破ったのは少年でもククールでもなく、マルチェロだった。

 「それで終わりか」

 マルチェロは無残に転がった刃を見下ろし、徐に右手の手袋を取った。

 そうして迷うことなく素手で両刃のそれを握り、拾い上げる。

 「それで終わりか、と訊いているのだ」

 皮膚が裂け、マルチェロの血が刃に伝う。

 「あ…あ…」

 一歩、また一歩と近寄るマルチェロに少年は僅かに後ずさり、ついには尻餅をついた。

 すかさずククールの切っ先が鼻先をを追う。

 「剣は折れた」

 マルチェロがククールに並び、越す。

 「だが何故折れた刃を取らない?その折れた剣を構えない?」

 腰を抜かしたままの少年に、マルチエロは片膝を付いた。

 そして血に濡れた刃を少年の脚の間に降り下ろす。

 ざんっと絨毯を貫き、それは廊下に突き刺さった。

 「その程度の驕った正義でこの私を裁けると思うな」

 ククールのレイピアが僅かに震えた。




 「行くぞ」

 マルチェロは立ち上がった。

 もう全ての興味が失せたのか少年に目を向けることもなく、ケープを翻す。

 しかしククールはレイピアを下ろさなかった。否、下ろせなかった。

 突き刺さった刃とマルチェロの背に怯える少年の鼻先にレイピアを突き付けたまま、

 殺すことも、かと云って生かすことも出来なかった。

 少年はかつてのマルチェロであり、今のククールなのだ。

 殺せるはずもないあの日のマルチェロ。

 でもレイピアを突き付けずにはいられない、刃を握り血を流す勇気もない少年に重なる自分。

 ククールが動かないのを見て、マルチェロが苛立たしげに怒鳴った。

 「聖堂騎士団員ククール!」

 そこで漸く呪縛が解ける。

 ククールは未だ震える少年に背を向け、レイピアを収めてマルチェロに従った。




 なんて甘っちょろいんだろ。

 黙々とマルチェロの背を追いながらククールは奥歯を噛みしめる。

 結局何もかもに背を向けて、ただただ届かない後姿に必死に追い縋るだけ。

 そんな自分をバカだねと嘲てみても、何がどうなるわけでもない。

 寧ろ自分自身の滑稽さを自ら笑って足元が崩れていくようだ。

 くそっ、くそっ、くそっ。ククールは呪いのように繰り返す。

 苛立たしいまでの八方塞。

 けれどもう一度振り払われるのが怖くて、手を伸ばそうともしないこの現状。

 届くはずないじゃないか。ククールは両手に拳を握った。

 伸ばそうともしない手が届くはずもない。

 そしてこの人の、兄の、マルチェロの、海は深すぎる。

 失望と憎悪の海はあまりにも深すぎて、ククールには届かない。届かないのだ。

 このままでは、永遠に。




 マルチェロの傷口からは未だ止まらぬ赤い血がじくじくと流れ出ている。






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