僕らはみんな生きている
パンドラは常々その気配を感じていた。
城内の回廊を歩くとき、ハープを奏でるとき、自室にいるとき。
姿は見えないが必ずいるのだ、潜んでいるのだ、奴が。
パンドラは暗い回廊で足を止めた。
いる。
パンドラはその凍り付くような声で囁いた。
「ゼーロス。ゴキラダホイホイの数を増やすよう、手配しなさい」
サガは常々その気配を感じていた。
何人たりともサガの許しがなければ通ることの出来ない双児宮にいるのだ、奴が。
ひたひたサガが歩く、その近くに奴は潜んでいる。
「そこだ!」
サガは振り返った。
が、しかし奴の姿は既にそこにはなっかった。
「カノコロリを買ってくるか…」
相変わらず気配はあるというのに、奴の姿は見えない。
「ゼーロス、まだ奴を捕獲できぬのか」
パンドラの問いに、ゼーロスが答えて云った。
「申し訳ありません、パンドラさま。しかし相手はすばしっこいのです。
発見次第捕獲、または始末しようとしているのですが…ケケケ」
「早く始末するのだ。あれのせいで夜も眠れぬ…!」
「最近あれに悩まされていると聴いたが…?」
シュラの問いにサガはああと頷いた。
「衛生上好ましくないだろう?始末したいのだが…なかなか姿を見せん」
サガは溜息を吐いた。
「姿さえ現したなら、光速で一撃なのだが 」
「奴の行動時間は主に深夜だ…遭遇しにくくはあるな」
「うむ、そのために捕獲器と団子を仕掛けている」
「まあ何故かこうして話題にすると姿を現したりするのだが」
「その時はギャラクシアン・エクスプロージョンだ」
「…少し派手すぎないか?」
「私の技はだいたい派手なのだ」
「いや…だから、光速拳で潰せば…」
シュラが云うと、サガは肩をすくめた。
「シュラよ…奴をその手で、エクスカリバーで切りたいと思うか?」
シュラは黙るしかなかった。
その夜、パンドラはゼーロスに再度奴を捕獲、または始末するように命じて床に就いた。
豪奢な寝台に横になる。
そして蝋燭の明かりを消そうと、サイドテーブルに身を乗り出して気付いた。
テーブルの木目にこんな大きな黒い染みのようなものはあったかと。
「んんん…?」
顔を近付けてよく見る。
途端、パンドラの白い顔が更に白くなった。
くちびるがわなつくが、しかし躰は硬直したように動かない。
奴だ、頭の中ではそればかりが回る。
「ゴ…ゴ…ゴ…!」
パンドラが紡ぐその声に気付いたのか、それは二本の触角をぴくりと震わした。
そして、それが一瞬振り返るのと、パンドラが叫ぶには同時であった。
「出たー!」
ゼーロスが飛んでくる前に、そいつは焦ったようにカサカサと逃げ出した。
風呂から上がったサガは、ついに脱衣場でそれを発見した。
「出せ…!ここから出せ…!」
という声が聞こえてくる高さ2メートル・長さは3メートルもある捕獲器を覗くと、
そこには体長188センチメートル・二足歩行の巨大なゴキブリ、その名もゴキカノ(珍種)が
粘液に脚を囚われ暴れていた。
「うむ。新発売の“ゴキカノ・スニオンホイホイ”は効果覿面であったな」
「俺専用!?そのようなもの発売して企業に利益はあるのか!」
「少なくとも私には有益なものであった。こうしてゴキカノを捕らえられたことだしな」
サガは尚も暴れては更に躰を囚われるゴキカノを見て笑う。
暴れれば暴れるほど粘液が絡み付くということに気付かないのだろうか。知能は低いらしい。
「出せ!俺が何をしたというのだ!?」
「強いて云うなら存在が嫌だ」
「酷っ」
「が、しかし」
サガはゴキカノを改めて眺めた。
「なんだ…?」
「お前は私が思っていたゴキブリとは違うらしい」
サガは粘液まみれで躰を捩っては囚われるゴキカノが気に入ったらしい。
「決めた。お前を飼おう」
「は!?」
「お前を飼うと云ったのだ。安心しろ、衣食住くらいは保証する」
「最低限すぎだ。俺は孤高のロンリーウルフなのだ、誰にも飼われん」
「孤高とロンリーは同意義だ。しかもお前はゴキブリだろう。
さて、飼うと決まった以上は衛生面に気を付けねばな」
「だから俺は誰にも飼われんと云っておるだろうが!聞けよ、人の話!」
「まずは風呂だな」
そういうとサガはゴキカノを無理矢理スニオンホイホイから剥がし始めた。
「ぎゃー!痛いっ!痛いというのが聞こえんのか…!」
それに、とゴキカノは付け足した。
「躰を石鹸とか洗剤とかで洗われたら死んでしまうぞ!俺!」
「しぶとさだけが売りだろう」
「いやだ…!やめ…あ…それだけは…!」
あの夜、奴に遭遇して以来パンドラの命は少し変わった。
「奴を必ず捕獲すること。殺してはならない」
「始末してはならないと…?」
ゼーロスが確認すると、パンドラは頷いた。
「それは何故ですか…?」
問われて、パンドラは氷のような双眸に静かに火を灯した。
「あのとき奴と眼が合ったのだ…あれは実にいたぶり甲斐のある眼だった」
「なるほど…そういうことならば、このゼーロス、必ずや奴を捕獲して参りましょう。イヒヒヒ」
サガとゴキカノの奇妙な生活は続いていた。
共に暮らし始めて、サガは余計にゴキカノが気に入ったようだった。
「感度良好、声も良し。適度な反抗とたまの従順さが良い」
そう云って可愛がりすぎるほどゴキカノを可愛がるサガだったが、躾には厳しかった。
「ゴキカノ!皿から直接喰ってはいかんと何度云ったら解るのだ!
きちんとナイフとフォーク、スプーンを使いなさい」
「そんなこと云ってもゴキブリなのだぞ、俺は!?」
「ゴキカノ!後片づけを手伝いなさい」
「だから洗剤はダメだと云っているだろう!」
「ゴキカノ!どうして部屋を散らかすのだ!」
「だって俺はゴキブリだから、汚い方が好きなのだ!」
「嘆かわしい、実に嘆かわしいぞ、ゴキカノ。何故そんな子に育ってしまったのだ!?」
「育つもなにも…これは先天性だ!」
「物分かりの悪い子にはお仕置きだ」
「ひっ…!鞭は勘弁してくれ…!あぅ…!」
「パンドラさま!パンドラさま!」
ゼーロスの声にパンドラはハープを奏でる手をとめた。
「やりました!捕獲しました!イーヒャヒャヒャヒャヒャ、ヒャハァッ!」
アドレナリン大放出ゼーロスが手にしたゴキラダホイホイにパンドラは手を伸ばした。
「どれ…」
通常サイズのそれの中を覗くと、そこにはあの日見た体長5センチメートルのゴキラダ(珍種)が
大人しく捕まっていた。
パンドラは思わず口許を綻ばせた。
「よくやった、ゼーロス」
「あ、いえ、間抜けなことに、ゴキラダは自らそこに入ったのです、ケケケ」
「なに?それは本当か、ゴキラダ」
パンドラが問うと、ゴキラダはゴキブリとは思えないほど礼儀正しく頷いた。
「何故だ…?」
「そ…それは…あの…」
急にどもるゴキラダ。
「まあ良い。ゼーロス、檻を。最近いたぶるものがなくて退屈していたのだ。これから毎日が楽しみだ」
「うふふふふふふふふふふふ」
捕獲されて以来、ゴキラダは毎日のようにパンドラにお仕置きされていた。
パンドラ自ら手を下す日もあれば、カブトムシと対決させられたりもした。
またカブトムシのようにいろいろなものを引っ張らされたりもした。
曰く、
「形が似ているのだから、お前にもできる」
無茶苦茶な理論であったが、出来なかったら電撃お仕置きであった。
ゴキラダが痛みを耐えて、しかしついに呻くとパンドラは愉しげに笑むのだ。
そして、ゼーロスも笑っていた。
「ふぅ…今宵も愉しかった」
ぱたりと倒れたゴキラダを摘んで、パンドラは微笑む。
「よし、明日はその眉毛を抜いてやろう。ゴキラダ、明日も私の元へ来るように」
「は…必ずや…」
ゴキラダがなんとか答えると、
パンドラは満足したのかピンッとゴキラダをその辺に投げて出て行ってしまった。
ビシィ!
サガの調教用鞭が今日もうなる。
「ゴキカノ。生ゴミを漁るなと、私が何度云ったらお前は理解してくれるのだ…?」
サガは神のように微笑んだ。
それでいて容赦なく鞭を振るうのだから怖ろしい。
「習性だから仕方ないだろう!?」
ゴキカノは叫ぶが、痛みのためか、目尻に涙を浮かべていた。
「サガ…俺はお前と暮らし始めてから、お前が気にいらぬところは直してきた」
廊下は走らない。
壁に張り付かない。
いきなり飛ばない。
「だが、サガ。俺達はもう限界なのだ…!」
はらはらとゴキカノは涙を零す。
「ゴキカノ…」
「俺は所詮ゴキブリ。叶わぬ恋だったのだ…!」
「なんと…お前はペットの立場を忘れ、私に恋をしていたのか…!」
「さよならだ、サガ!」
カサカサカサ!
「ゴキカノ…!待て…!ゴキカノ…!」
年に一度の世界ゴキブリシンポジウム。
ゴキラダは親友のゴキカノの姿を見つけて呼び止めた。
「久しぶりだな、ゴキカノ」
体長が違い過ぎるので、ゴキラダはゴキカノの肩まで飛んで着地する。
「どうした、浮かない顔をして」
「いや、なんでもない。それよりゴキラダ、お前は最近どうしていたのだ?
めっきり姿を見せなくなったから心配していたのだ」
「俺か…俺はある人に飼われているのだ」
「飼われて…!?」
「ふ…笑いたくば、笑え、ゴキカノ」
「いや…笑えん」
笑わない、ではなく、ゴキカノは笑えなかった。
「俺は何気なくその人の城に入ったのだが、もちろん住み着く気などなかった。
その人は美しい人で、俺は芸術など解らぬが、その人のハープの音も美しかった」
だがその人は毎日まるで人形のように過ごしていたという。
「何をしていてもあの人はつまらなそうだった」
「ちょっと待て。いつもと云うことは、ゴキラダ、お前はその人をストーキングしていたのか?」
「失礼な。俺はパンドラさまが心配だっただけで…!」
「ほう、パンドラというのか」
「そ…それでだ!俺は木目に扮したりして見守っていたのだ!」
「ほうほう」
「だがある日、パンドラさまが俺を必要としてくれていると聴き、
俺は自らゴキラダホイホイに入ったのだ」
「それで…何故そんなにもボロボロなのだ?愛玩具なのだろう、お前は」
ゴキカノの云う通り、ゴキラダの姿は無惨なものであった。
「うむ…パンドラさまは少しサドでいらっしゃるのだ」
「それで少し…」
「昨日は毛抜きを持たされて、人間サイズのものだったので重かったのだが、
4本脚を使って眉毛を抜けと云われてな…大変だった」
「抜いたのか?」
「己よりも大きい毛抜きで眉毛を抜けるはずないだろう」
「で、お仕置きか」
「お仕置きだ」
「よくそんな生活に耐えれるな」
ゴキカノが呆れてそう云うと、しかしゴキラダは眼を細めた。
「パンドラさまが愉しいと感じてくださるなら、それで良いのだ」
「そうか…」
「そうだ。ところで、ゴキカノ、お前も最近行方を眩ましていたようだが」
「俺か…。俺は…ゴキラダ…お前のようにはなれなかった」
「俺のように…?お前も飼われていたのか?」
「ああ。ついついスニオンと付くものには入らなければと躰が勝手に…!」
「よくわからん…」
「俺はお前と違い、飼われるのは不本意でしかなかった。
無理難題ばかりを云う奴で、俺たちの習性を理解しようともしない」
「まあゴキブリを飼おうと思うだけで、そいつはすごい気がするが」
「だが、俺は…そんな奴を愛してしまったのだ…!」
「ゴキカノ…」
「だが人間とゴキブリ、壁が高すぎた」
「……」
「お前のようにあいつが幸せならそれでいいなどと俺には思えん。
俺があいつ愛する分だけ、俺のことも愛して欲しかった」
ゴキラダが何も云えず黙っていると、突然会場内がざわついた。
二匹は顔を見合わせる。
「いったい何が…」
とゴキカノが口にしたとき、その声はゴキカノにはっきりと聞こえた。
「ゴキカノ!何処だ、ゴキカノ…!」
サガだ。
サガがゴキブリしかいない会場でゴキカノを呼んでいた。
「お前を呼んでいるぞ…」
ゴキラダが云うが、しかしゴキカノは顔を背けた。
「洗剤には耐えられるが、もうただのペットでいることには耐えられぬのだ…!」
瞬間、ゴキラダの1本の脚がびたっとゴキカノの頬を打った。
「な…!?」
「ゴキカノよ、後悔するぞ」
「…!」
ゴキカノは目を見開き、まだゴキカノを呼ぶサガを見て、ゴキラダを見た。
「ゴキラダよ…。己と異なるものを愛するのは難しいな」
「ああ」
「己と異なるものから愛されようとするのは、もっと難しいな」
「そうだな」
「だがそれは非常に難しいだけで、決して不可能なことではない」
困難と不可能は違う。
決定的に違う。
ゴキカノはゴキラダを地面に降ろした。
ゴキブリたちの間を縫って、恐る恐る、しかし一歩一歩サガに近付いていく。
ゴキラダはその後ろ姿をしばし見ていたが、そっと姿を消した。少しばかり女王様気性のあの人のもとへ。
ゴキカノを見つけるのは容易ではなかった。
辺りにはゴキブリ、ゴキブリ、ゴキブリ、
ゴキカノサイズのものもいれば、更に巨大なゴキブリまでいた。
サガとてゴキブリが好きなわけではない。
「ええい!邪魔だ!どけ!異次元に送るぞ!」
ゴキブリを掻き分けて進んだその先に、やはりゴキブリを掻き分けて来たのだろうゴキカノがいた。
「サガ…」
「ゴキカノ…探したぞ…」
サガが云うが、ゴキカノはまだ戸惑っているようだった。
「…迎えに…来てくれたのか…?」
「ああ。そうだ。帰るぞ、ゴキカノ。私は風呂に入りたい」
「俺は…!俺はゴキブリなのだ…人間ではない」
「知っている」
「廊下を走ったり、壁に張り付いたり、いきなり飛んでしまうかもしれない」
「ああ」
「ナイフとフォークの使い方は下手だし、洗剤は苦手だし、部屋も散らかす」
「ああ」
「その上…生ゴミを漁ってしまう…そんな俺でも、お前と一緒に帰っていいのだろうか?」
「ゴキカノ」
サガはゴキカノをその胸に抱いて云った。
「迎えに来たと云っているだろう」
「ああ…ああ…そうだったな…」
ゴキカノはサガの背に腕を回して、少しだけ泣いた。
サガとゴキカノは再び共に暮らし始めた。
「って!ペット待遇と全く変わってないではないか!鞭はいやだ…!」
「ゴキカノよ、これも一種の愛情表現なのだ」
ピシィ!
「ってえ!こんな表現は嫌だ…!」
「ああ、そうだ。新カノコロリも試してみようか。強力殺カノ剤なのだが」
「やめろ。本気で死ぬ」
だがサガは口許に笑みを浮かべて、こう云った。
「死ぬほど気持ち良いぞ、新カノコロリは」
「は…あっ…くぅ…あああん!…はぁはぁ…新カノコロリって…お前のことか!」
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