Athena*Gemini




やわらかい棘



 海に沈み行く夕日を羨望の眸に映す者ひとり。

 時折酷く羨ましいと思う。あの陽はこの海へと身を沈めることが出来るのだから。

 カノンの掌から砂粒が零れて、この砂さえもまた海へと沈むのだろう。

 嗚呼、海が呼んでいる。海が呼んでいるのだ。

 否、海を呼んでいるのはカノン自身なのかもしれない。

 望郷の想いは募って苦しいほどに哀しく、寂しい。

 たとえばあの陽と共にこの海へ沈めたら。

 海に浚われてしまおうか、柔らかい眩暈がカノンを包む。

 「カノン」

 けれど眩暈よりもやわらかい棘がカノンの踏み出し掛けた心を縫い止めた。

 「アテナ」

 「カノン」

 振り返ったカノンに女神は微笑み掛ける。

 「今日の海は穏やかですね」

 カノンの横を擦り抜け波打ち際に寄って女神。

 「カノン」

 振り返る。

 「貴方が望むなら、貴方は海へお行きなさい」

 なんということだろう。カノンは気付く。

 一瞬でも海を懐かしく恋しく想うなど、この許しの女神への裏切りに他ならない。

 「ご覧なさい、カノン」

 女神は朱の空を見上げ、

 「地上からは空が見えます」

 そして、

 「海も見えるのですよ」

 海を見つめた。

 「裏切りではありません、カノン。

 私は地上も空も海も愛しく想うのですから、貴方が海を望んでも、私は貴方を愛しく想う」

 否、否、否。

 「いいえ、アテナ」

 カノンは首を振った。

 「私の命は貴女のものです。貴女の傍を離れるなどあってはならない」

 それ故に不安が胸を揺さぶる。

 貴女を何より想うはずなのに、その想いが寄せる波に浚われそうになる。

 女神がカノンを愛するように、海もまたカノンを愛しているのだから。

 それでも、

 「私は貴方の傍で在りたいのです」

 過去を洗い流し、今を受け止め、未来を許してくれた、唯一の神。アテナ!

 真の望みはただひとつ。

 時折揺さぶられるのは波が哀しい調べを謳うから。

 「カノン」

 呼ばれて視線を返せば、女神は足を海へと踏み入れていた。

 カノンも慌てて女神を追う。

 深く深くへと進むその女神の細い腕を取って、

 「アテナ、いったい何を」

 「ほら、大丈夫でしょう」

 女神は微笑んだ。

 カノンは目を見開く。

 「カノン。貴方が私の傍を望むなら、私の手を離してはいけません」

 カノンの手を白い手が包む。

 「貴方が私の手を取る限り、私もまた貴方の手を取りましょう」

 たとえ海が謳っても、

 「耳を塞がず、私の手を握りなさい。そうすれば貴方は海には浚われない」

 そうしてもしも海を望んだとの時は、

 「この手を離してお行きなさい」

 女神の慈愛はやわらかい棘。

 命ある限り、死が訪れたとしても、この棘は永遠にカノンを捕らえ続ける。






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