第七師団 Log




孤独を助ける


 水滴が洗面器に落ちる。どちらももう温い。

 それくらいは阿伏兎も時間をかけて、神威の爪を洗って、整えてやっている。

 その神威はというと、ひどく夜兎らしい。

 傘を携えて戦場に行くが、その手で戦うことをとても好む。その手で骨を砕き、筋を断ち、肉を裂くのだ。

 だからこうして船に戻れば誰のものとは知れない血を洗い、爪を整えてやらなければならない。

 水は温い上、赤黒いものが混じっている。

 向かいの神威は退屈らしい。そういう顔をして自分と阿伏兎の手元を見ている。

 「いつもながら丁寧だなァ」

 ちょうど指と爪の間の血を指の腹で拭ってやっているところだった。

 「誰に仕込まれたんだか」

 神威がそんなことを言う。

 阿伏兎は「どこぞの団長だろう」とぼやいて、隣の指を取った。

 異星人の血の臭いがする。しかし、それが阿伏兎を苛立たせるわけではない。気は長い方だ。

 ただこの夜兎らしい夜兎には夜兎の血の香りがふさわしいとは思う。混じり気はない方がいい。

 「団長ね。…ああ、あの」

 神威はわざとらしく最後を濁した。阿伏兎はまたぼやく。

 「…あのってなんだ」

 一から手順を踏んで指で指を擦る。

 必ずしも阿伏兎がしてやらなければならないことではない。

 阿伏兎がしてやらなければ、神威はきっと自分で指を洗い爪くらい整えるだろう。

 詰まるところ、全てがそうだ。

 戦略も、折衝も、補給も、神威は本来ひとりでやってのけることができるはずなのだ。

 「あの、は、あの、さ」

 けらけらと神威が笑う。阿伏兎は取り合うのが面倒になった。ただその指までは放り出さない。

 阿伏兎がやってやらなくともよいことは、

 阿伏兎がやってやることで、ほんの少し神威の孤独を助けている。




ながい愛


 「阿伏兎に抱かれる夢を見た」

 と神威が言うので、阿伏兎は首を傾げる。こきり、と鳴った。つい今まで書き物をしていたせいだろう。

 神威ほどではないが、阿伏兎も夜兎だ。体は戦場を好んでいる。

 「また突拍子もない話だな」

 阿伏兎は神威を抱き上げたことがない。

 神威という夜兎を知ったのは少なくとも彼が赤ん坊のころではないからだ。

 「そうかな」

 今度は神威が首を傾げる。

 神威は鉄棒の要領で、掛けていた手摺りをぐるりと回った。

 吹き抜けの構造をしたドックである。見下ろした先の師団員は手の平くらいの大きさにしか見えない。

 次の航海に向けて準備は着々と進んでいる。

 「俺には想像できんね」

 それに、と考える。

 わざわざ口にはしないが、夜兎の風習に倣い、親殺しまでやってのけようとした神威だ。

 両親に抱き上げられる姿すら阿伏兎には想像もつかない。

 「俺は有りだと思うけどなァ」

 「…俺ァ、アンタの親の年齢まではいってないぜ」

 「そう知ってるからこそ、そういうのも有りだと言っているんだよ」

 そこで阿伏兎は十五、六年前の神威の回想をぴたりと止めた。問い返す。

 「なんだって?」

 「まだ旺盛だろ、阿伏兎。って言ってるんだけど?」

 この間の港では朝に帰ってきたしね〜、とまで言うので、漸く合点した。

 はじめから珍しく丸っきり噛み合っていなかったのだ。

 神威は性交のことを言っていた。

 (想像しろって方が無茶だろ)

 思わず阿伏兎は手で目を覆った。

 しかし、寄せられた気配に目を開ければ、意外なほど傍に神威の顔がある。

 見慣れた面倒事を起こすときの顔だ。

 「興味があれば、言うといいよ」

 神威が「俺は有りだと思うけどなァ」と言っていたことを、たった今のことであるのに、思い返す。

 「阿伏兎となら、してもいい」

 神威はそれだけ言うと、鉄柵をドッグ側に降りた。

 今度は飛石の要領で、所々の足場をひょいひょいと飛び移り、あっという間に下ヘと行ってしまう。

 阿伏兎はその姿を眺めた。

 抱けるか抱けないかを問われれば、抱ける。だが、では抱いてみるかと問われれば、

 (そうかんたんにはいかねぇぜ、団長)

 親ではないが、それなりの年月、彼の傍で、彼をを見てきたのだ。

 時間を掛けた分だけ、その穏やかな情はもう阿伏兎に染み入ってしまっている。

 そういう長い愛を彼はきっと知らない。




そこは沽券の問題です



 張り詰めていた筋肉から臓腑までが一気に弛緩する。

 射精を終えた阿伏兎は腹の底から長い息を吐いた。

 それから気がつく。神威がこちらを見上げていた。

 「どうした」

 阿伏兎は彼の胸元を舐めながら言った。

 彼が放った精液が目に入ってしまったのだから、放って置くわけにもいかない。

 神威はその阿伏兎の後頭部をゆるゆると弄った。

 「イクときの阿伏兎はかわいいなァと思ってね」

 思わず神威の腕の中で顔を上げる。

 「そいつァ、俺の台詞だろ」

 目が合った。神威が目元を緩める。

 「今の告白?」

 「オジさんをからかうな」

 阿伏兎は、今度は神威の首に口づけ、吸った。

 すると、本当に気持ち良さそうに「ん。ん。」と神威が身じろぐ。

 「もう一回したいの?阿伏兎」

 それには「あぁ」と答える。

 「今度は俺に言わせろ」

 阿伏兎は神威の耳に吹き込んだ。




立場上、嘘を吐かなければならないこともあるんだ(本当に、立場上?)



 陽射しが強い。恒星が二つも昇る星だ。

 一艦隊を率いて組織を抜けた裏切り者は、夜兎を擁する第七師団が粛正に乗り出すと睨んだのだろう。

 (厄介な星に逃げ込んだもんだ)

 阿伏兎は嘆息した。

 先ほど強制的に機能をほぼ停止させた敵方の補給基地は、

 今は夜兎の日蔭としてのみ生き長らえている。

 神威は団員から離れて床に腰を降ろしていた。

 壁に背を預けているが、ぐったりと座り込んでいるというわけでもないらしい。

 阿伏兎に気がつくと、顔を上げた。顔を覆う布は取り払ってしまったようだ。

 「夜兎でない団員を何人か、奴さんを探しに出したぜ」

 阿伏兎が言うと、神威は「そう」とだけ答えた。

 「俺たちは夜まで待機かな」

 「勤勉な団長様は早く出て行きたくてうずうずしているだろうがね」

 水を投げてやる。夜兎でなくともまいる暑さだ。

 神威は受け取ったボトルを手の中で何度か転がした。

 「もう全員に行き届いた?」

 「仰せの通りに。アンタで最後だ」

 と言った途端、阿伏兎は神威に倒れ込んだ。神威がぐいとマントを引いたのだ。

 「オィ」と批難する前に胸倉を掴まれ、引き寄せられ、口付けをされる。

 眉根を寄せたのは、舌まで入り込んできたせいだ。

 神威はそのようにしてしばらく阿伏兎の咥内を味わったあと、額が触れるほど間近で挑発的な目をした。

 「うそつき」

 確かに阿伏兎は神威の言う通り、まだ水を口にしていなかった。嘘を吐いた。

 しかし、(それにしても、だ)、阿伏兎は思う。

 「団長、少しは人の目を気にしろよ」

 濡らされた唇をぐいと拭う。




それを伝える術もない


 「タカスギシンスケ、タケチヘンペイタ」

 と、神威が抑揚もなく羅列するので、阿伏兎はそちらを振り向きはしなかったが、心に留めた。

 第七師団長の処刑騒ぎの後だ。

 阿呆提督と勾狼団長が手を結び、元老に反旗を翻したため独断で清粛した。

 という筋書を今まさに書いているのだ。

 「カワカミバンサイ、キジママタコ」

 阿伏兎、と神威が呼ぶ。

 そこで手を止め、見遣ると、神威は首を傾げていた。

 彼が座った窓枠の向こうには停滞した宇宙がある。

 第七師団艦隊は、この旗艦も含め、先の騒ぎで損傷を受けた。今は騙し騙し航行を続けている。

 「地球族の名前は長いね」

 面倒だなァなどと言う。

 ちょうど煮詰まってきたところだ。阿伏兎は休憩がてら、相手をしてやることにした。

 「そりゃ氏ってやつさ」

 「氏?」

 また神威が首を傾げる。どうやら聞き覚えがないらしい。

 「タカスギシンスケなら、高杉。タケチヘンペイタなら、武市、が氏だ。

 で、アンタで言うところの神威にあたるのが晋助や変平太。氏ってのは、つまり血族の名だな」

 氏は親から子ヘと受け継がれる。

 氏とは固体生命の弱い種族がより強固に集団として結び付き、

 自分の種を次の世代へ残すために生み出された機能だと阿伏兎は思う。

 よって個の強さを誇る夜兎には氏がない。

 親が子に与えてやれるのは、夜兎の血、それだけなのだ。

 「ふぅん。夜兎には思いつきもしない風習だね」

 神威がそう言うのも当然だ。

 しかし、その当然の理由を口にするのは阿伏兎には憚られた。けれど、当人がさらりとこぼしてしまう。

 「なにせ夜兎には親殺しまであったからね」

 思わず目を真正面から見た。同時に、(しまった)、とも思う。逸らす機を見つけることができない。

 すると、神威の目が笑った。大人びた、もしくはそれよりも老練な、心内の一切を遮断した目だ。

 「一般論として、さ」

 そこで終わりだった。話は続きようがない。

 夜兎は強靭な精神を持つ。中でも神威は飛び抜けている。

 阿伏兎でさえ惑うことも、神威には、先の話も含めて、取るに足らないことなのだろう。

 その精神の強靭さが神威を孤独にしている。

 夜兎が夜兎に与えてやれるものなど本当に何もないのだ。阿伏兎はそう思う。

 「ん?どうしたの?阿伏兎」

 問われて、苦く笑う。

 「なかなかいい言葉が見つからねえな」

 何も必要としない神威に阿伏兎が与えてやれるものなどない。

 そうしてこの心内を表す言葉も夜兎にはないのだ。





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