Touch
その傷に、痛むところに、触れたい。
パンドラは顔を歪めた。
美しい顔立ちは歪めてもまだ美しかった。闇の女。
「ラダマンティス」
パンドラは城の主の椅子より立ち上がり、跪いた男にそろり寄る。
彼はワイバーンの男。闇の王の僕。
パンドラの闇染めの裾から覗く足は白く、ひたり、ひたり。裸足の足音。
やがて闇のヴェールの如くその長い髪の一房がワイバーンの鎧に掛かり、
ラダマンティスはゆるりと顔を上げた。
「ラダマンティス」
パンドラの口許は笑んでいた。
ただそれは月光の下でこそ映える微笑。
その少し腰を屈めたパンドラの手にラダマンティスは果物ナイフを見つけた。
傍にあった果物皿から取り上げたものだろう。ラダマンティスはそんなことを思った。
「傷に、痛むところに、触れたい。だと?」
パンドラの微笑は崩れなかった。
あざけりのような、怒りのような笑みでラダマンティスを覗き込む深い闇の眸。
それを美しいとラダマンティスは思う。
歪んだ微笑の今こそ、彼女であって、それを美しいとラダマンティスは思う。
不意にその眸が細まる。
次の瞬間には果物ナイフがラダマンティスへと容赦なく振り下ろされていた。
ラダマンティスは避けようと思えば避けれたが、その場を僅かも動かなかった。
案の定ざっくりと頬が切られる。
赤い血が裂けた溝に沿ってにじみ、ラダマンティスの頬を濡らした。
パンドラの手から、するりとナイフが落ちる。
「私の傷に、痛むところに、触れたい。だと?」
ナイフが床に落ちる音が、ラダマンティスの血が床に跳ねる音を掻き消す。
パンドラの顔は今やラダマンティスの鼻先にまで寄せられていた。
その指が血の伝う頬を撫でる。傷を探り出す。
「傷に、痛むところに触れられれば」
囁く。何処か恍惚とした、けれど穏やかな眸。
そしてギリリと傷に立てられる爪。ラダマンティスは僅かにその痛みに身を捩る。
パンドラは伏せ気味の睫を震わせた。
「痛いだろう?」
ギリリ、ギリリ。爪は傷の奥へ奥へ。
パンドラの白い手が震える。
「傷に、痛むところに触れられれば、さぞかし痛いだろうな?」
ラダマンティスは何も語らない。
ただただ手を伸ばせば、届くそこにいるパンドラを見詰めるだけ。
また新たな血が深みから涌く。
「そういうことだ」
パンドラは眸を伏せた。
ラダマンティスはその隠した眸を哀しいと思った。
城の主の椅子に腰掛けたパンドラは紅い爪を口に含んだ後、
「もう寝る」とワイバーンの男に視線をやった。
男は立ち上がり、パンドラの体をまるで幼子を抱くように抱き上げる。
闇の衣が男の腕から幾重にも零れた。
暗い暗い廊下を歩く。誰もいない廊下。ふたりだけの道。先の見えない歩むべきところ。
パンドラは頬を男の肩に預ける。
「ラダマンティス」
「はい」
男は前を見据えて歩む。
「傷は痛むか」
女は揺られる。
男は答えた。
「いいえ、手当てをすれば痛みません」
「手、当て。か」
パンドラはの僅かな微笑がラダマンティスの首筋を擽った。
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