20140723 サスケ誕



 夏の日は長い。
 夕方、冬ならばもう疾うに日が暮れているような時刻、それでも不規則になりがちな普段に比べれば珍しいほど早くイタチは暗部本部を辞そうと片付けを始めていた。既に着替えも申し送りも済ませてある。
 無論抱える案件は山とあったが、一日でどうとなるものでもない。それよりは今日その内の一件、長らく携わっていた事案が滞りなく終了したことを良しとしようとイタチは思う。
 窓から入る夕陽は随分と斜めに傾いていた。今から帰ればちょうど食卓に夕飯が並ぶ頃だろう。
 そう考えたその折、
「イタチ」
 名を呼ばれ顔を上げる。
 テンゾウ、今はヤマトと名乗っているらしい、彼だった。イタチとは別の隊の隊長を務めているが、今回はその隊と連携をしていたこともあり、このところ関わりも多かった。
「今帰りかい?」
 訊ねられ頷く。
 ヤマトの周囲では幾人かの見知った隊員が談笑をしていた。それぞれに面はなく、イタチと同様暗部装束から一族独特の衣装に着替えている者もいる。
 だが、一族、出身、過去、一度事が起これば、それら全てを仮面で隠し、火影のため里のため力を尽くし命を懸ける。暗部とはそういうところだ。
 なかなかに自分には向いている部隊だとイタチは思う。きっとうちはが司る警務よりもずっと。
「おれに何か?」
「ああ、実は」
 ヤマトが言うには今夜ここで細やかな慰労会があるらしい。彼の隊とイタチの隊が共に抱えていた案件、それのだ。今、数人が買い出しに行っているとも言う。暗部の特性上、そういったことで酒場などに繰り出すことは出来ないため苦肉の策だろう。
「よかったら君も一緒にどうだい?」
 一度瞬く。
「おれですか」
 浮かんだのは家の食卓、それから母の顔だった。きっと今頃は夕食の支度ため台所に立っていることだろう。
 だが、偶にはかまわない、か。
 イタチは早々切り上げるつもりで頷いた。今回の案件には長い時間を費やし、ヤマトの隊にも手間を掛けた。顔と財布を出すのも悪くはない。
「そうですね。おれでよければ」
 そう答えかけた了承の返事を、しかし途中で遮ったのはイタチを誘った当のヤマトだった。
 どういうことか。首を傾げる。
 すると彼は傍らの窓から外を視線で「見てごらん」と示した。
 不思議に思い、隣に並んで外を見下ろす。
 …ああ。
 なるほど。合点がいった。
「先約、かな?」
 ヤマトが口角を上げる。
 外の通りの向こう、並木のひとつに寄り掛かったサスケが夕焼けの中、こちらを見上げていた。


「サスケ」
 声は通りを挟んだその向こうのサスケにも届いたらしかった。だが、あちらからこちらへ渡って来るつもりはひとつもないようだ。
 お前が待っていたんじゃないのか。
 そうは思うが、家路を急ぐ、或いは歓楽街へ向かう人々の間をするりと縫って、仕方なくイタチがサスケの許へ行ってやる。
 サスケは額宛と木ノ葉の里の忍が身につけるベストを纏っていた。先程帰里し火影への報告を済ませたばかりなのだろう。イタチはサスケの兄だが、彼の任務の全てを把握しているわけではない。暗部に、うちはに関わる案件でのみ知っている。
「お前、おれの先約らしいな」
 イタチが言うと、サスケは訝しげな顔をした。
 はあ?と声はしなかったが、彼のきゅっと詰まった眉根がそう告げている。
 イタチはふっと嘆息して言葉を代えた。
「何か約束をしていたか」
 イタチにその覚えはない。サスケとの約束は覚えていてすっぽかしたことは星の数だが、それ自体を忘れたことは実は一度もない。サスケに言えば、余計質が悪いと罵られること請け合いのそれはもうずっと伏せてある。イタチの最早常套手段だ。
「いや、していない」
 サスケは首を振った。
 それでは他の誰かを待っていたのかと問えば、また「違う」と否定をされる。
「アンタを待っていた。だが、約束はしていない」
 サスケの言に今度はイタチが眉根を寄せる。
「待つのはいいが、今日は偶然ヤマトさんがお前に気付いたんだ。おれも偶々手が空いていた。だが、いつもそうだとは限らない」
 待つのならと言いかけ、
「いや、あと少ししたら帰るつもりだった」
 先を越される。
 本当なのだろう。イタチはすとんと思う。
 彼は集落の門近くでうろちょろと兄の帰りをいつまでも待っていた年頃とはもう違うのだ。
 どうもあの頃の感覚が抜けなくていけない。
 サスケはこちらの姿をちらりと見たかと思うと、自らもまた額宛を外しポケットに入れた。漸く寄り掛かっていた木の幹から背を起こす。
「アンタに付き合ってほしいところがある」
 彼がイタチと共に足を向けた先は里の図書処だった。


 全六巻の風土記。行く道々に聞けば、サスケが借りたい本とはそういうものらしい。
 カカシ班の下忍から自ら隊を率いることもある中忍に昇格をした頃より、サスケは自身の体術や忍術の鍛練だけでなく、遠征に赴くその土地その土地の歴史や風土、政治形態などにも目を向けるようになった。彼に元より備わる知的好奇心の資質と一隊自身を含め四名の命を預かるという責務が彼をそうさせているのだろう。
 良いことだ、とイタチは思う。因習に囚われるうちはにあってなお、彼の目が世界へと開かれるのは喜ばしい。だが、
「どうしておれも?」
 隣を歩くサスケに問う。この歳になってまさか付き添いもないだろう。たかが里の図書処だ。この間なんかは怪我を負って医局送りになったくせに、イタチの迎えさえ拒んだ。
「五冊」
「なにがだ」
 また訊ねる。
 サスケは息を吐いた。
「一人が借りられる冊数がだ」
 なるほど。だから、おれか。
 ふと天を仰ぐ。
 里の空は賑やかだ。あちらこちらの建物から建物へと色とりどりの旗が渡されている。
「買ってやろうか」
 イタチは言った。
「お前、誕生日だったろう」
 目を移す。するとサスケもまたこちらを見つめていた。つい先程まで額宛てをしていたためか、今日は前髪を上げているんだな。そんなことを思う。
「いや、いい」
 注がれていた目線は先にふいと逸らされた。
 ものはいらない。
 サスケが呟く。
「捨てられなくなるからか」
 イタチはそうは思ったが口にはしなかった。けれど、きっとそうに違いない。
 里がざわめく。強い風に煽られた旗がバタバタと音を立てた。
 すれ違う人たちはこれからどこへ行くのだろうか。それともどこかへ帰るのだろうか。
 二人に不意に訪れた空白を埋めるかのようにサスケが口を開いた。
「付き合ってくれるだけでいい」


 図書処を後にし、再び二人は夕暮れの里を歩いた。五冊の書物を収めた麻袋はサスケの肩のみに提げられている。
「残念だったな」
 手ぶらのイタチが傍らのサスケを見やった。不機嫌そうに寄せられた眉根やへの字に曲げられた唇は、最終巻のみ貸出し中であったことではなく、そうとは知らずイタチを付き合わせてしまったことへの気まずさからくるものだろう。居心地を少し悪くしているのかもしれない。
 なにもそんなに気にするようなことじゃない。
 イタチは道の両脇に構えられた店々に視線を転じた。ついでに話題もすり替えてやる。
「何か食べて帰るか」
 灯り始めた赤提灯にまだ誘える歳ではないけれど、美味い食事処は山ほどある。辺りを包む焼いた醤油の香ばしい香りは、ちょうどたったいま通り過ぎた鰻屋の蒲焼きだろうか。主人が威勢のよい声で道行く人を呼び込んでいる。
 サスケはちらりと店々の暖簾に目を遣ったが、また前を向いた。
「母さんが晩飯を作ってるだろ」
 と関心がない。
「軽くならばれないさ」
「昔ばれて散々だった」
 ふんと鼻を鳴らされる。
 そうだった。あの時は偶々任務帰りに鉢合わせ、それじゃあ久しぶりに二人で一楽でも行こうかと、そういうことになった。まだサスケが十二、三、下忍の頃の話だ。その後、家の夕食がどうも二人して進まないものだから、サスケの言う通り、母に追及さればれて散々だった。けれど、
「じゃあ行かないのか」
 改めてイタチが問うと、
「…行く」
 素っ気なくそう答えるサスケに胸の奥底に温かい水が湧く。
「なに笑っていやがる」
「べつに。それよりお前、食べたいものは?」
 もうすぐ木ノ葉の大通りも途切れてしまう。その先は集落へ辿る小路だ。店は途端になくなる。
「食いたいのは兄さんだろ」
 アンタが決めろとサスケは言うが、かといって甘栗甘に誘えば「甘いものはだめだ」と不平を口にするくせに。
 さて、なにを食べようか。
 思案し、左右を見渡す。
 その折ふと目に入ってきたのは居酒屋と蕎麦屋に挟まれた馴染みの古本屋だった。狭く奥まった店はひそりとしていて、書棚に収まりきらない古本は床や外にまで雑多に積み上げられている。
 イタチはサスケが肩に掛けた麻袋の持ち手をくんと引いた。そのまま人通りを反対側へと抜ける。
 はじめ隣の蕎麦屋へ行くとでも思ったらしいサスケは古本屋の前で立ち止まった兄に顔をしかめた。
「おい、兄さん」
 兄の意図を分かって咎めるサスケを連れて古本屋の暖簾を潜る。
 西日だけの薄暗い店内は埃っぽく、古本独特のにおいと夏の湿気がじとりと体にまとわりつくようだった。
 物珍しげに書棚を見上げるサスケを他所にイタチは首を振る扇風機の前を陣取った店番の老主人に声を掛けた。
 顔馴染みの老主人はイタチの頼みを厭うことなく、奥の書棚から一冊の古本を出してきてくれた。見覚えのある上紙に「六」と銘打たれたそれはサスケが借りれなかった風土記の最終巻だ。
「兄さん、いらねーって言っただろ」
 支払いを済ませる兄のやや隣後ろにやって来たサスケはむすりと拗ねた。
 だが、イタチは老主人から受け取った紙包みをサスケに渡しはしなかった。
 どういうことだと眉を顰め訝しむ弟の、今日はよく見える額をこつんと小突いてやる。
「いきなり何しやがる」
 きゅっと唇を結び、額を思わず押さえる仕草は昔のようでいとけない。
 額から離れ浮いた手をそのまま引いてしまうにはどうも惜しくて、イタチは弟の頬に掛かった髪に触れ、後ろへ梳いて流した。
「勘違いするな、これはおれのだ」
 サスケの目が僅かに開く。ますます分からないと首を傾げた彼の肩に掛かった麻袋をイタチは示した。
「それを」
「これを?」
「読み終わったら、おれの部屋に来るといい」
 一拍サスケが声を詰まらせた。
 そのあと「兄さんの部屋に…」とむずり動いた口許に、兄弟なのだからもっと傍へおいで、イタチの今日だけではない想いがさざなみのように繰り返す。
 店を出れば長い黄昏が終わり、藍の空には一番星が輝いていた。