そして、三年後の日々
※ 高校3年生イタチ(18才)×中学1年生サスケ(13才)
家から地元の駅までの徒歩十分。快速急行を見送り準急に乗り込んで、学校の最寄り駅まで三十二分。それから長い上り坂を歩く十五分。片道約一時間、往復で計二時間。それが中1のオレと高3の兄さんが平日に持てる二人きりの時間だった。
とはいえ、登校時間に最寄りの駅に着いてしまえば互いの見知った顔や同じ学校の生徒らがぞろぞろと群れを成し、正門までの坂道を歩いている。必然、オレたちは少し離れた。交わす言葉もめっきり少なくなる。
だが、その距離こそが普通の兄弟の間隔なのだろう。オレたちは世間の兄弟とは少し違う思いを互いに持ち合っている。
兄さんが通うここら辺りでは並ぶもののない屈指の進学私立高校の中等部にオレが入学したのは今年の四月のことだった。五年前にこの学校の中等部へ進学し、どんどんその背が遠くなる兄さんを追い駆けて、オレは最難関と呼び声高い狭き門を突破した。
「お前、今日は化学式のテストだとか言っていなかったか?」
歩幅のせいで少しずつ開いて行く距離を気遣ったように兄さんがオレを見下ろす。口頭で復習をしようかと言われたが、いらないと断った。
「もう覚えている」
「そうか」
こうして並んで同じ学校へと通うのは小学校以来だった。だが、望んでいたはずの日々にオレはあの頃よりも五つの年の差を毎日のようにまざまざと感じている。隣を歩くネクタイを緩めた兄さんとは違い、まだ新調して一年も経たないオレの制服はどこか堅苦しくて着慣れない。
学校へ向かう生徒の群れは朝から騒がしかった。男同士はふざけ合い、女同士のお喋りはぺちゃくちゃと止む間がない。そして、オレたちの前には高等部らしき男女が笑い合いながら歩いていた。
オレが中学生になったら何かが変わるかもしれない。
そんな漠然とした期待はこの頃見込み違いだったと気が付いた。ただ登下校の距離が小学校より伸びた。それだけだ。
繰り返すが、オレは兄さんに普通とは少し違う思いを持っている。
特に交わす会話もないままに、やがて学校の正門が緩やかに続く坂の上に見え始める頃、兄さんが緩めていたネクタイを締めた。正門には強面の生徒指導の教師が立っている。もう高3の兄さんは手の抜きどころを知っているのだ。
「じゃあな、サスケ」
門を潜り、少し行ったところで兄さんは立ち止まった。高等部と中等部では校舎が違う。
「化学式のテスト、頑張れよ」
「…あんなの覚えたのを書くだけだ。誰でも出来る」
「お前は相変わらず強気だな」
そう微かに苦笑した兄さんが高等部の校舎へと足を向ける。オレは兄さんを呼び止めた。
「帰りはいつものところで待ってる」
高等部と中等部は帰りの時間も違う。部活に入らなかったオレは四時前にはもう学校を出られるが、来年に大学入試を控えた兄さんは演習講座などで放課後も忙しい。長い時には最終下校の十八時の鐘までオレは図書館で時間を潰している。
「先に帰ってもかまわない」
兄さんは今日はいつ講座が終わるか分からないと言った。だが、オレは別にいいと返した。
「おれが勝手に待ってるだけだ」
「そうか」
兄さんは軽く手を上げ、オレは何もせずその場で別れた。
化学式のテストは満点だった。本当に覚えたものを書くだけの羅列テストだ。
たとえばオレは何故そうなるかを早く知りたいのに。
四時過ぎ、まずは今日の宿題を片付けようと図書館でノートを広げたところで、兄さんがオレを迎えにやって来た。いやに早い。わけを聞くと、今日の入試演習講座はこれまでの補講になったそうで、常に成績上位者の兄さんは早々に解放されたらしい。今日はいつ講座が終わるか分からないとはそういうことだった。
朝に登った坂道を今度は下って帰る。朝と同じ十五分の道程だ。
正門を出ると、兄さんは早速ネクタイを緩めた。途中、化学式のテストのことを二言、三言話したが、それ以外は何も話さなかった。あとはただ黙って坂を下り続ける。
居心地が悪いわけではない。
だが、このままなら昨日と変わらない、とも思う。
一昨日とも一週前とも一ヶ月前とも、ランドセルを背負って帰った小学生の頃とも何も、何ひとつとして、オレたちは変わらない。
学校を出てきっかり十五分、学校の名を冠した駅に着く。兄さんが定期を鞄から取り出す。そうして、それを改札機に通そうとした寸前、オレは思いきって切り出した。
「今日は何処かに行きたい」
空はまだ明るい。陽も傾いたとはいえ、目線よりも大分と上にある。こんな機会は滅多にない。
兄さんは突然のことに瞬いた。
「何処か?」
「…ダメなら、いい」
「そうは言っていないだろう」
いくらか間が空く。どうやら兄さんはオレの回答を待っているらしかった。けれど、何処かは何処かだ。場所なんかどうだっていい。何処でもよかった。
ほどなく返事がないのをオレの返答と受け取ったのか、兄さんは定期を仕舞った。代わりにスマートフォンを手にする。
発信の後、電話の相手は何度かのコールで出たようだった。オレを連れて問題集を買いに行くだとか、夕飯は帰ってから軽く食べるだとか話しているから、電話の向こうは母さんだろう。
兄さんは電話をしながら、オレを促し、改札を離れた。それから三台並んだ券売機で切符を二枚買い、電話を切ると同時にその内の一枚をオレに差し出した。
「たまには反対の電車にでも乗ってみるか」
家へ帰る電車が山の方へ向かうなら、反対は街へ出る電車だ。
オレは兄さんから渡された切符に目を落とし、電車賃だけはもう子供ではないのだなと思った。
電車に揺られ十五分、おれたちは大小様々なビル郡が雑多に林立する街に出た。この辺りでは一番の繁華街だから、夕方近くには放課後の中高生や大学生たちで大いに賑わう。
まずおれたちが向かったのは駅ビルの上階に入る大型書店だった。問題集をおれに買う。それが母さんへの口実だったからだ。
参考書の棚で授業の復習にちょうどいい数学の問題集を選び、受験生のくせして新刊書を何冊も手にしていた兄さんと合流する。自分で払うと言ったが、お前の分はあとで母さんに請求するから別にいいと、結局うやむやの内におれの問題集も一纏めにされ、さっさとレジを済まされた。
だが、どうせ兄さんは請求なんてしないのだろう。だから、おれはおれの小遣いの中から払いたかったのに、兄さんはいつも自分勝手に自己満足をして全て終わりにしてしまう。
おれは昔から兄さんのそういうところがきらいだ。兄さんはそのことを知っているのだろうか。
本屋の後はアーケード街のショップやゲームセンターを冷やかした。取り立てて欲しいものや、やりたいゲームはなかったが、女子グループの甲高い声にふと彼女らが群がるプリクラ機が目に留まった。
うるせーな。
本当にそれ以外全く他意はなかった。だが、兄さんは何を思ったのか、「おれたちも撮ろうか」などと言い出した。
「冗談だろ」
おれは眉根を寄せた。ただでさえ流行りの歌が爆音で流れ、ゲーム機の電子音がでたらめに鳴り響くゲームセンターの中で、更に一段とかしましいあの一角に足を踏み入れる気にはなれない。
「だいたい女ばかりだ」
おれがふいと横を向くと、兄さんは目線で撮ったばかりのプリクラを覗き込む制服姿の男女を示した。
「男もいるぞ」
「女連れだろ。…もう行こうぜ」
男同士。それも兄と弟。
中1と高3。
わけの分からない居心地の悪さ、どうにもならない居た堪れなさが込み上げる。
だがゲームセンターを出る寸前、きっともうこうして学校帰りに兄さんと制服で遊びに来ることはないだろうから、やはり一枚くらいプリクラでも何でも撮っておいてもよかった、そんな思いがおれの胸をちらりちくりと掠めた。
やがてだんだんと日も暮れ始め、街には会社帰りの大人たちの姿が溢れ始める頃、おれたちはバーガーショップへ立ち寄った。
おれはテリヤキチキンバーガーを、兄さんはデザートの宇治抹茶あずきシェイクを頼んだ。「お前、帰ったら母さんの夕飯があるんだぞ」と兄さんには釘を刺されたが、ハンバーガーのひとつくらいどうということはない。
時間も時間のため混み合う二階席に上がり、小さなテーブルで向かい合う。
兄さんとこういうところに、いつもなら帰りの電車に揺られているか、もう家に着いて母さんの夕飯を食べているかのこの時間に二人で来るのは初めてだった。
「うまそうだな」
おれがハンバーガーの包みを開く手元を見つめ、兄さんが言う。
「アンタ、肉は苦手だろう」
「全く食べられないわけじゃない」
「…腹減ってるなら、一口食うか」
「それじゃ、一口ずつ交換しよう」
「絶対いらねえ」
差し出された宇治抹茶あずきシェイクは断固として拒否したが、兄さんとの非日常は少なからずおれを浮かれさせた。
だが、一方でハンバーガーの残りが少なくなるのと比例して、焦燥感が一度は期待に膨らんだ胸を押し潰していく。兄さんの目を盗んで腕時計に目を落とせば、時刻はもう七時を回っていた。
たぶんこれを食い終わったら、帰るのだろう。中学生連れで夜に行けるところなどあまりない。条例でそう決まっているのだ。
店を出て、宛もなく兄さんとぶらぶら人混みを縫って歩く。
この後どうすると兄さんは何度か訊いてくれたが、おれは本当に何処でもよくて、本当は何処でもよくなかったのかもしれない、と思い始めていた。
街のネオンが眩しくて、その分だけおれの心は薄暗かった。
一緒に何処かへ行きたかったけれど、かといって二人でハンバーガーを食いたかったわけじゃない。
兄さんといつもとは違うことをしてみたけれど、おれが兄さんとしたかったことはこんなことでは決してないのだ。
プリクラを撮っておけばよかった。今更思う。たぶんあれが一番おれが兄さんとしたかったことに近かった。
間を埋めるためのどうでもいい話もまもなく尽き果て、いつしかおれと兄さんの足は示し合せたように駅の方へと向いていた。
街から快速急行で学校の最寄り駅まで戻り、おれたちは一度電車を降りた。地元の駅には準急しか停まらないから、ここで乗り換えなければならない。
最終下校時刻から二時間、駅は朝や夕方の混雑が嘘のように静まり返っていた。
暗い蛍光灯の下、誰もいないプラットホームのベンチでおれたちは互いの体で隠して手を繋ぐ。幼い頃と違って、外ではこんな風にしてしか繋げない。だが、幼い頃に繋いでいた意味とはもう違う。だから、人前では繋げない。
しかし、その一方で兄さんは決して手を繋ぐ以上のことをおれにはしなかった。
おれたちは進んでいるのだろうか。
それとも下がっているのだろうか。
おれにはただ何年も同じところに立ち尽くしているだけのように思えてならない。
おれはもう十三だ。
けれど、兄さんにとってはまだ十三に過ぎない。
それが、もどかしくて歯がゆくて悔しくて仕方がなかった。
「どうした、サスケ」
先程から喋らないおれに兄さんが声を掛けてくる。喋らないだけでなく、おれが思い詰めた思案顔だったからかもしれない。
「兄さん…」
「うん?」
「アンタはおれがガキだから何もしないのか」
じじっと頭上の蛍光灯が焦れた。
準急はまだ来ない。
代わりに一度、のろまの普通電車がやって来て、誰も降ろさず乗せず去って行った。
兄さんは何も言わず、ただおれの顔を見つめている。だが、一度口火を切ったのだ。おれが言うしかない。おれは我知らず兄さんの手をきつく握り締めた。
「ガキでもおれはアンタのことをちゃんと…!」
ちゃんと好きだ。
勘違いも思い違いも思い込みもおれはしていない。絶対にしていない。
おれはちゃんと兄さんが好きなんだ。
だから、兄さんへの好意はある時から誰にも言わなかった。ずっと秘密にしていた。どんな好きかをおれはちゃんと分かっていたからだ。
また頭の上の蛍光灯が数度の点滅を繰り返す。
そのまま消えてしまうかと思ったが、辛うじて持ちこたえた。それが仄かに白く灯ると同時に口を開いたのは兄さんだった。
「知っている」
何をと問うまでもない。
おれを見下ろす兄さんの目は真っ直ぐだった。
「十三でも誰かを心から大切にして守りたいと思う、と分かっているさ」
それはきっとたぶん兄さんのことだ。
と、おれも分かった。
「…だからか」
兄さんの手を握った拳が震える。声も掠れた。
だから、おれを大切にしたいから、守りたいから、手を出さないのか。
「でも、おれは」
おれはいつまでも子供じゃない。
体が、顔が、瞼が熱い。
すると、手は繋いだまま、その反対の腕にぐっと肩を抱き寄せられた。
「サスケ」
誰かにこんなところを見られたら。そんなことはどうでもよかった。兄さんの腕の中は兄さんのにおいと兄さんの温もりがする。
「兄さん…?」
「また少し背が伸びたな」
囁いた兄さんの唇がそっと顔に寄せられる。
小さな頃、眠る前のそれはいつだってでこだった。
だが、今は瞼にキスが触れる。
思わず顔を上げると、兄さんは笑っていた。
「今はこれで許せ、サスケ」
それから三年、兄さんのキスはおれの鼻先になり頬になり、あの頃22cmあったおれと兄さんの身長差も兄さん曰くキスをするのにちょうどいい10cmになった。
大学進学を機に家を出た兄さんとはなかなか会えないけれど、この間初めてプリクラも撮ったし、週末にはキスも、それ以上のこともしている。