にいさんと星が見たかったサスケの話



 しんとした深い夜だった。時刻は疾うに日を越え、草木も眠る頃だろうか。
 元より人の少ない集落のため自身の筆運びの他に物音はなく、ここに心を落ち着けていると世には本当にしんとしたと形容する音のない音があるのだとすら思える。
 暦は随分と前に秋を告げていたが、虫が清かに鳴き始める季節にはまだ早い。かといって一晩中聞こえてきたような夏の祭囃子はもう遠い。
 そんな誰もが置き忘れてしまった夏の終わりの夜をイタチは部屋で書き物をして過ごしていた。
 このような時刻に筆を取っているのは何も残務が山積みだから、というわけではない。昼間のまだ厳しい残暑の時刻をずるずると居眠りでやり過ごしたからだった。
 夏はどうも昔から不得手だ。
 そのため休みを割いてする面倒事はついついこうして秋の気配のする夜に回してしまう。実際、それで昼間より捗るのだから文句は家族ぐらいからしか出ない。
 文机の上、火立てに灯した蝋燭の炎がイタチのさらさらと走る手元に拍子を合わせるようにして楚々と揺れる。部屋には電灯も無論あったが、点ければ明け方までは点けっぱなしになるため母が心配をするだろう。なによりイタチは此処に夜らしい夜を招くことを好いていた。
 だが、
「兄さん」
 閉め切った障子戸の向こうからイタチを呼ぶ声があった。
 起きているか、と問われる。
 そんなことは端から分かっているだろうにとは思うが、こちらも「サスケか」と当然のことを聞こえるように呟いた。
 それでからりと障子戸が半分ほど開く。
 顔を覗かせたサスケは振り返りもせず筆を止める様子もない兄に何かを言うのは随分と前に諦めたらしい。ただ、
「火を貸してくれ」
 とだけ言う。
「火?」
 イタチは目の前の火立てに目を遣った。これのことか。だが、どうも要領を得ない。まさか煙草を呑むわけでもないだろう。イタチは一度筆を止めた。
 他方サスケはといえば、兄の部屋にはあまり遠慮がないのか、敷いた布団だけは踏まないよう隣へやって来て、腰を下ろす。彼が手にしていたのは蚊遣り火の線香だった。
 ああ、なるほど。得心がいった。
「それで火か」
 乾き始めた筆先を硯の海に浸す。
 傍らでは早速サスケが線香の先に火を移している。
「まだ虫が多くてかなわない」
 サスケがぽつりと言う。
 つんとした薄い唇にこちらの口許が緩んだ。
「食われたか」
「脹ら脛と足首をな」
「気が緩んでるんじゃないのか」
 忍だろうお前とからかってやると、関係ないだろとむくれられて、つい次に何を書こうとしていたのかを失念してしまう。
 とはいえ、ほんの一時だ。サスケの移した火がぽっと燃える。イタチはそれをサスケに先んじて横手からふっと吹いて燠にしてやった。
「……」
 少し驚かせてしまったのかもしれない。サスケの目の端がとんがった。
 だがそれには構わず、
「そう怒るな」
 イタチは左の手で暗がりを探り、サスケの虫に食われたという脹ら脛の膨らみに指先で触れた。そこはまだ熱を持ち、少し腫れてもいる。きっと赤い筈だ。目を細める。
「お前の血は美味いからな、よく食われるんだろう」
「…アンタも同じ血だろ。それに触るな。痒い」
 手を払われる。
 イタチは「掻き崩すなよ」とだけ忠告して、今夜は大人しく引いてやった。
 まだ書き残したものがある。失念した文面もサスケとのくだらないやり取りの間に思い出した。
 それに蚊遣り火独特の香りが細々と天井へ昇る煙と共に辺りに漂い始めている。
 これは夏のぎらりとした日差しと湿った風が吹き通る家の座敷でまだ幼かったサスケとじゃれて遊んだときのにおいだ。
 五歳年下の弟の肌は小さな子供の体温で、はしゃぐほどに二人の肌が汗で吸い付くようにぴたりとくっつくのだが、けれどあれは全くいやじゃなかった。
 いやじゃなかった。
「…兄さん」
 サスケの何処か所在なげな声音に、はっとする。いつの間にか忍び寄っていた過去に寄り掛かっていたらしい。
 イタチはそれらをひそりと身の内に沈めた。それからサスケの足から離した手で、文机に置いていた本の頁を繰る。
「サスケ」
「ん」
「火はもう貸したぞ」
「…ああ」
「おれはまだ書き物がある」
 暗に部屋を出るよう告げる。
 それを察したらしいサスケは腰を上げた。
 だが同時に辺りが不意に闇になる。
 イタチは傍らのサスケを見遣った。
「お前…」
 サスケが部屋の唯一の光源、火立ての明かりを吹き消してしまったのだ。
 イタチは予期せぬ弟の行動に珍しく本当に戸惑った。
「兄さん」
 サスケの声が降る。
「今日は星が流れる夜だぜ」
 そうして畳を踏み渡る音と障子戸が開く音がする。
 だが、閉められた気配はない。
 振り返ると、やはり半分ほど開かれた障子戸のその向こう、弟の影が透けていた。
 時折外の任務で目にする姿は大人になったけれど、こうして眺めれば頼りないのとはまた違う、まだ少年の細い肩と危うげな背だ。
 イタチは筆を置いた。
 硯にまだ残る墨をどうするか。そう過ったが、結局過っただけになった。
 部屋にうっすら残る蚊遣り火の香りを頼りに立ち上がる。
 今日の月は朝を待たず早々に沈んだらしい。障子戸の隙から此処へ入る明かりは夜空に散らばる星々と遠くに見える里の灯だろうか。
 兄さん。
 今日は星が流れる夜だぜ。
 そんなサスケの声と夏の残り香がまるで子猫のする甘噛みのように今夜はイタチの胸にきゅっと爪を立てて離れない。
 イタチは夜の中で静かに弟の名を呼んだ。
 今年の夏ももう暮れようとしている。