遠つ人



 修練場を囲う森の木々も赤黄に粧う秋晴れの日、サスケは明日の任務に向けて一人体を軽く動かし、あれこれと忍具の調整をしていた。
 だが、知らず知らずの内に死角からの苦無投げに没頭してしまっていたらしい。
 里に響く山寺の入相の鐘に気付けば、辺りはすっかり夕暮れ色に染まっていた。そのうえ東からはしずしずと黄昏が迫り、裾野に広大な森を抱く山影ははや夜へと沈み始めている。もうすぐに草葉を住み処にする虫たちの音がちりちりと聞こえ出す頃だろう。
 そろそろ帰るかと考え、いや、やはりもう少しだけと思い直す。サスケが投げた苦無は十の内一つが木の幹に掛けた的の中心を僅かに外していた。
 その苦無をやや力任せに引き抜いた折、かあと聞き覚えのある烏の鳴く声がした。
 見上げれば、頭上にすらりとしなやかな烏が羽ばたいて、そう高くはない梢に舞い降りてくる。
 夕日に輝く濡れ羽色のそいつは、ここしばらく任務に出て帰らない兄が使役する烏だ。
 しかし、「この烏」とサスケは胡乱に目を細めた。主がいない日は、主に代わってその弟の世話を焼くよう言いつけられているのか、朝は部屋の窓を啄いて寝坊を許さず、暮れ合いには放っておいたらいつまで経っても修業に打ち込んで帰らないサスケをこうして迎えにやってくる。
 まったく兄にだけではなく、兄の烏にすら子供扱いされるとは、悪態の一つでも吐きたくなる。
 しかし、それにしても今日はいやに迎えが早い。西に落ちつつあるとはいえ、夕日はまだ山の端の辺りにある。
 これではまるで子供が帰るような時分ではないかとサスケは訝しむが、兄の烏は取り合わず、かあと鳴いて枝葉を揺らし、また空へと飛び上がってしまう。
 わざわざ急かすからには何かあるのか、いや、あったのか。
 サスケはまだもう少しと後ろ髪を引かれる思いと忍具を手早く仕舞い、こちらを先導するように森を低く飛ぶ烏の後を徒歩で追った。
 やがて林立の切れ目、森に入る小路に出る。薄暗かった森とは異なり、目映い黄金の粉雪が舞うような日の入りの中、そこには外套を羽織った兄が佇んでいた。
 偶然ではない。
 明らかにサスケを待っていた風だった。
「兄さん」
 我知らず声が弾む。
 歩み寄るが、それよりも先に烏が兄の肩に降りた。サスケにとっても、烏にとっても、七日、十日振りくらいの兄だ。けれど、兄はそういうところに頓着がない。
「おかえり、サスケ」
「…それ、おれの台詞だろう」
「尤もだ」
 微かな笑みに頬を緩めた兄の背後、茜の空に遠く北から渡ってきた雁の隊列が影を差す。
 遠つ人とは遠い北国から渡る雁の歌に、あるいは遠く離れた人を待つ歌に織り込む言の葉なのだと兄から聞いたのはいつのことだったろうか。
 火影直轄部隊故に時折忽然と消息を絶つ兄も、あの雁のように何処か遠くの任地から帰ってきたに違いない。
 そうして兄が恙無く帰る日をサスケは顔にも口にも出さずとも、心待ちにしていた。
 兄の肩に止まった烏が今までになくかあと甘えた声を出す。彼がやたらにサスケを急かしたのは、彼自身が慕う主人に早く会いたかったからか、それとも離れていても主人の思いを汲んだのか。
「帰るか」
 と烏の頭を撫でる兄に並んでサスケは頷いた。
「ああ、そうだな」
 すすきの穂を揺らす山吹色の風の通り道、サスケは兄と二人、父母の待つ家路を辿る。