Call me


※ 21才大学生イタチ×16才高校生サスケ
※ 実家暮らし,健全


 火曜日の夜十時を回った頃、サスケが塾の講義を終えてビルを出ると雨が降っていた。
 梅雨時とはいえ今朝の天気予報は明日の明け方まではなんとか持ちこたえると伝えていたのに、所詮は当てにならないものだ。三々五々塾から出てきた他の生徒らも生憎の雨に落胆の声を上げ、スマートフォンで家族に連絡を取ったり、鞄の中を探って折り畳み傘を取り出したりしている。
 暗闇の空と街灯の光の中で斜めに降り注ぐ雨を見上げ、サスケは今夜の雨足は授業を受けながら聞いていた雨音よりもずっとひどいなと思った。
 土砂降りとまではいかないが、自転車に乗って帰るには躊躇われる。日々の習慣で塾の階下にある駐輪場に足こそ向けたが、早々にこれは歩くしかなさそうだとも諦めた。通塾用にしているリュックには念のため放り込んでおいた折り畳み傘がある。
 自転車なら家まで十分足らずの距離だ。歩いたところで二、三十分程度だろう。
 億劫だが、仕方がない。
 雨水が滑っていくアスファルトの道を駅の方へとぞろぞろ歩く傘の集団に倣ってサスケも背負ったリュックの片側を下ろし、傘を取り出そうとした、その時だった。
 制服のズボンのポケットに入れていたスマートフォンが着信を告げる。ディスプレイには「家」と一文字だけが表示されていた。きっと母だろう。自転車で通塾する息子を案じて電話を寄越してきたようだ。
 通話をタップすれば、やはり思った通り、電話の向こうからは母の声がした。
「サスケ?」
 訊ねられ、「ああ」と小さく返す。そうして、
「ひどい雨だけど平気?」
 という問いにも「ああ」と頷いたというのに、母は今から車で迎えに行くと言った。そのうえ既に晩酌をしてしまった父に代わって母が運転するとも言うのだ。免許を持っているのは知っているが、彼女の愛車は専ら自転車だ。ただでさえ雨で視界は悪く、それに夜ももう遅い。風呂にも入っただろう母にこの時間にわざわざ来てもらうのは心苦しかった。
「歩いて帰るからいい」
「でも」
 サスケのぶっきらぼうな断りに母が難色を滲ませる。
 その折り、母の後ろで物音がした。道路を打ち鳴らすこちらの雨に掻き消されてしまいそうな遠くから「ただいま」と微かに聞こえたような気もする。父が家にいるのなら、この時間に帰宅するのはサスケを除けばあと一人しかいない。
「あ、ちょっと待ってね」
 一旦会話を中断しようとする母に「いや、もう切る」と伝えたが、それも最後まで聞いてもらえなかった。
 がさがさと送話口を手で塞ぐ雑音がして、その向こうでは母と物音の主が話している気配がある。今の内に通話を切ってしまうこともできたが、さすがに母にそうすることは憚られた。
 待つことしばらく、再び電話に出たのは母ではなく兄のイタチだった。大学の研究室かアルバイトか、ともかくちょうど今し方帰ってきたようだ。
 近頃忙しくしている様子の兄とは同じ家にいても滅多に顔を合わせない。そういえば電話越しの声を聞くのはいったいいつ振りだろうか。
 だが、母から電話を代わった兄にはそういう感慨めいたものは微塵もないようだ。
「サスケ、おれだ」
 と名乗っているのかいないのかで切り出し、続けて「迎えに行くからそこで待っていろ」とも告げられる。
 母から事情を聞いたのだろう。確かにこれまでも兄の運転する車には何度か乗せてもらっているが、ついさっきの母の申し出を強く断っているうえ、サスケは歩いて帰ると言っているのだ。たかが迎えのこととはいえ、一度口にしたことを易々と覆したくはない。意固地と言われようとも、そういう性分なのだ。
「兄さん、迎えは」
「近くに着いたら連絡する」
「だから、」
「お前、ちゃんと電話に出ろよ。じゃあまたあとでな」
 サスケを遮った一方的な会話は音に表せばまさにがちゃんと、いともあっさり終わった。
 むっとしてスマートフォンを離して見れば、ディスプレイには切断中の文字が表示されている。
 どうせもう一度掛け直したところで無駄だ。家に掛ければ兄はもう出たと言われるだろうし、兄に掛ければ弟の言い分を分かっていても聞いてくれない兄は、そもそも電話にすら出てくれないと目に見えている。
 駐輪場を閉ざす大粒の雨は依然として夜の真っ暗な空から押し付けるように降り注ぐ。
 少し遅れて教室から降りてきた顔見知りには「傘がないのか」と訊ねられたが、「あるが、兄貴が今から迎えに来るんだとよ」とそっけなく返した。
 そうだ。
 傘はある。
 それに家まで歩いて帰れない距離じゃない。
 まったく本当にあの兄は勝手なのだ。
 サスケはいつしか一人になった駐輪場で舌打ちをした。
「…クソが」
 だが、悪態を吐くサスケを裏切って、スマートフォンを握ったままの指先はもうすぐあるだろう兄からの着信を今か今かと待っている。