ふゆのなか



 昨夜遅くから降り出した雪は、一夜で色彩豊かな木ノ葉の里を全て真白に変えた。歩く度、きしりきしりと鳴る雪踏みの音が閉ざされ静謐を保つうちはの集落に微かに響く。
 サスケは時折手にした朱の傘にまで降り積もる、まだ止む気配のない雪を落としながら、昼の家路を辿っていた。母から親類への届け物を言付かった帰り、冷えた手をポケットに仕舞い込んでしまいたいけれど、ついでにと渡された今度は母へ預かりものの包みのせいで、それも叶わない。集落の内、近くだからと横着をして薄着で出てきてしまったことが今更ながらに悔やまれた。
 尽きるとこのない雪がサスケのぽつねんと歩いてきた道のりの足跡すら消していく。傘の朱だけが色鮮やかに美しかった。
「ただいま」
 からりと古い家の戸を開く。夏には風通しの良い家も真冬はそれが仇となる。それでも家の中は暖かかった。もっと奥で膨らんだ空気がこちらまで押し出されてきたのだろう。
「ご苦労様。寒かったわね。ありがとう」
 履き物を脱ぐ間、洗い湯が張られた桶を持った母が顔を出す。
 風呂よりは少し温く調節のされたそれに足を浸け、濡れて汚れた指の間を洗いながら、サスケは玄関端に置いた包みを目で示した。
「それ、叔母さんから預かった」
「そう。ありがとう。何かしら」
 膝をついて母が包みを取る。「ありがとう」は彼女の口癖だ。だが厭な気はしない。
 手拭いを引き寄せ、冷える前に濡れた足を拭う。
「…おれは預かっただけだ」
「またお菓子だと兄さんが喜ぶわね」
 母はそう言って包みを手に立ち上がった。
 その折、サスケの鼻がすんと鳴る。寒い外から暖かい内へ入ったせいだろう。桶の湯は自分で始末するようサスケに言っていた母は、気付いて途中で言葉を変えた。
「温かいお茶を淹れるわね。ちょうどいいから兄さんも呼んできてちょうだい」
「イタチ?あいつ、家にいるのか?」
 振り返り、玄関の履き物を数える。やはり母と自分のものしかない。
 母はふふと眉尻を下げた。
「昨日、遅かったみたいだから」
 成る程。またあの兄は玄関ではなく庭か窓か、兎も角そういったところから帰ったのだろう。暗部の昼も夜もない任務に就く彼は、家の中が寝静まる時刻には遠慮をするのか表の音の鳴る戸を開けるのを嫌う。
 それでいてサスケの部屋を通り道にすることもあるのだから、兄の基準はよく分からない。この前なんかは折角寝付いたところをわざと踏んでいった。
 そんな腹の立つことを思い出していたせいだろうか、
「サスケ」
 と母が言う。
「お願いね」
「…分かっている」
 桶と手拭いを片し、また母の遣いで今度は兄の部屋へ呼びに行く。
 昔は二階でサスケのそれと隣り合っていたが、今は階下の広い畳み敷が兄の起居の場だ。夜中サスケの部屋を通るわけが分からない。踏んでいったのは尚更分からない。
「兄さん」
 ぴしりと閉められた襖越しに兄を呼ぶ。
 聞いたところによると、兄は今日は非番だというのに朝から熱心に書き物をしているらしい。
 イタチもサスケもすぐに根を詰めるんだから。
 母はそう言って盛大溜め息を吐いたが、あの苦言を少なくとも今日の自分まで受けるのは、どう考えても兄のとばっちりだとサスケは思う。
「入るぜ」
 中からの返答に断って襖を開く。
 兄は母の言った通り文机に向かい、筆を取っていた。平服だがぴしりと伸びた背がいかにも忍らしく、また兄らしい。
「兄さん、あのさ」
 母さんがと言い掛けて、
「少し待て」
 と遮られる。
 お茶を淹れるってよ。後はたったそれだけなのに。そうは思うが、こちらも然程急いているわけでもない。
 襖を閉め中へ入り、どうも立っているだけでは収まりが悪いため、兄の背から少し離れたところで座して待つことにした。父とならば正座もするが、今は兄と二人きりだ、遠慮なく足を崩す。兄のイタチは昔からサスケのそういったところには無頓着だった。
 部屋は庭一面の白銀と明かり障子のおかげだろう、白くやわらかい光が隅々にまで行き届いていた。まだ外ではちらちらと雪が降り続いている。この分ではきっと今夜も止むことはない。
 冷えるだろうな。そう思い、またすんと鼻が鳴る。 
 すると兄が顔だけをこちらに振り向けた。
「寒いのか」
 その言葉にサスケは首を振る。
「いや、平気だ」
 本当にそうだ。
 だが、兄はいつもの調子でサスケを自分の傍に手招いた。彼の傍らには火鉢がある。筆を取る手を時折翳して温めているらしかった。
「こちらへ来い、サスケ」
「……」
 あまりに頑なであるのも妙だろう。サスケは腰を上げた。呼ばれた通り、だが並ぶ隣は年頃特有の照れもあって、火鉢と文机の角を挟んだところに座り直す。
 墨の匂いがぷんとした。
 兄の使う筆は毛先までが女性の体のようにしなやかに丸く、繊細で美しい。
 墨をたっぷり含んだ筆運びをつい目で追うと、それが染みてさらりさらりと文字が綴られてゆく。
 傍に呼び寄せたのだから見ても構わないものだろう。サスケはそう判じた。彼は本当に大切なことは決して語って聞かせてはくれない。
「…新しい術式か」
 問うと、書き物の片手間にだが兄は返事をしてくれた。
 いいや、と言う。
「もう昔に姿を消した忍一族の術式だ」
「医療術に似ているな」
「ああ、多分な。術式から見て扱いも比較的容易げだ。だが、おれもそちら方面には詳しくないからな。五代目に仰ぐ」
「そうか」
 昔、姿を消した忍一族。その一族の術式をなぜアンタが知っている。
 そんな心中浮き上がった疑問にサスケは自ら答えた。
 簡単だ。
 兄はサスケの物心がはっきりと付き始めた頃より、度々サスケを置いて何処かへと出掛けて行った。アカデミーや下忍、中忍、暗部と兄の所属は目まぐるしく変わったが、その偶の休みにサスケが修行を強請っても付き合ってくれることなど稀でしかなかった。
 兄はそうしてサスケを置いて出掛けて行った先で、例えば今の医療術式のような先人たちの知識、秘術、秘具を探し当て、得ていたのだろう。
 だから、こうも見ているものが、見えているものが違う。
 厳然として。決定的に。
「…兄さん」
「うん?」
 すすと紙に筆が染みていく。その音もする。静かだ。
 サスケはその先を見つめて言った。
「おれにも教えてくれ」
 幼い頃は兄に置いていかれることが寂しかった。
 けれど今は違う。今はサスケを置いていくイタチが寂しい。
 しかし、兄はサスケの言葉をそれほど深くは取らなかったようだ。ふふと笑われ、小さな頃みたいだなと懐かしげに口にする。
「またお前の教えてくれ、か」
 そうじゃない、とサスケは思った。
 あの頃と今では願う懸命さの、遠くなる背中を見つめる悲しさの、この胸を焼く焦燥感の、わけが違うのだ。
 だが、その伝え方が分からない。
 衝動的に顔を上げる。
 兄は少し驚いたようにこちらを見ていた。
「サスケ?」
 呼び掛けを無視する。代わり、おれは、と強く腹の底から吐き出した。
「兄さんの見ているものが見たい」
 おれも見たいんだ。
 そう言うと、辺りはよりしんとした。兄が書くのをやめたのだ。ただ雪だけが庭に降り積もっていく。
 やがてじっと見つめたまま外されない兄からの視線に耐えられなくなり、サスケは目を落とした。
 火鉢の炭が赤く色づいている。温かい。書き物をしながらも、兄はきちんと炭の世話にも心を配っていたのだろう。
 サスケ、と兄が言った。
 どうせまたはぐらかされる。そういう覚悟は持っている。
 しかし、それでも期待する気持ちも僅かながら確かにいつもあって、その葛藤に顔を上げないでいると、兄の手のひらがおでこにそっと触れた。今日はおろしている髪を撫で上げられ、そのまま次はやや乱暴に後ろへと流される。
「兄さん、おれは真面目に」
 と不平を口にし、見上げた兄の顔はやさしかった。
 はっとして息が詰まる。胸がいっぱいになる。
 兄が微笑むのが分かった。さらさらと自分の髪が彼の指から溢れていくのすら分かった。
「春になったら、今度はお前を連れて行くよ」
 耳を疑う。
 それから何もかも、目も耳も、心まで奪われた。
「春になったら…」
 どう応えてよいか分からず、ただそう繰り返すサスケは余程間の抜けた顔をしていたのだろう、先程は優しく触れられたおでこを今度はとんと軽く小突かれた。おかげで我に返る。
「なんだ、不服か?」
 と問う兄に首を振る。
「いや…、そうじゃない」
 サスケはおでこを手のひらで覆った。自然口許が緩む。
 春になったら。
 今はそんな少し遠い約束がこんなにも温かい。


「ところでお前、その話をしに来たのか?」
「いや、母さんがお茶を淹れるって」
「……」
「…まずいな」
「ああ、全くだ」