兄さんもサスケも悪いことはしなかった話
真冬も真冬、その奥深く、今夜は底冷えのする夜だった。火立ての明かりも火桶の炭火も疾うに吹き消してしまったが、そうしてしまったのはやや早計だったのかもしれない。ちらちらと雪すら降り始める気配にイタチは寝床の中で寝返りを打った。この分ではうっすらと降り積もり、明日の朝にはあちこちの水溜まりに冷たい氷が張るだろう。
その折の夜更け、遠慮がちにからりと玄関の引き戸が開いた。どうやら弟のサスケがようやく任務を終えて帰って来たらしい。
里の警務に就く内勤の父はさほどでないが、里外任務を請け負うことの多いサスケや、もちろん暗部のイタチは言うまでもなく、日の出日の入りに合わして暮らしていくのは難しい。イタチやサスケがまだ下忍の時分は母が起きて二人の帰りを待っていてくれたが、それぞれが暗部、中忍と進んだ今はある程度の割り切りも必要だ。起き出す様子はない。もうまるっきりの子供ではないと認めてくれてもいるのだろう。
だが、日を跨ぎ、こんな夜遅く冷える家路を一人帰って来た弟を思えば、イタチは母ほど毅然と彼を突き放してはやれなかった。起きて母さんの味噌汁を温めなおしてやろうか。そんな考えがふと過る。過るのだが、しかし布団の中は温かく、ただでさえ暫く振りのまとまった夜の眠りに後ろ髪を引かれ、どうにも踏ん切りが付かない。
起きようか。起きまいか。迎えようか。それともこのまま知らん振りを通そうか。閉じた瞼の裏側で眸が左右に振れる。
そうしている内に、一度階段を上った足音が再び降りてイタチの部屋の前を通りかかった。どうやら風呂に入るらしい。
時機だ。ここを逃せば後はない。イタチは半身を起こし、布団に掛けてあった半纏に袖を通した。障子戸に手を掛ければ、板張りの廊下から押し寄せたしんしんと染み込む冷気が布団の隙間に忍び入る。
サスケは目の前で突として開いた兄の部屋の戸に僅かに目を丸くしたようだった。
「悪ぃ、起こした」
と口にするサスケの、重い雨戸を閉めきった暗がりの廊下に仄かに浮かぶ白い裸の足や足首が寒々しい。彼は装備の類いを抜いただけの忍装束姿で、着替えの他は呆れたことに半纏も羽織も持ってはいなかった。
「お前、夕飯は」
イタチはさっき袖を通したばかりの半纏から今度は腕を抜きながら問うた。それを渡されたサスケはやや戸惑う。
「明日の朝、食うからいい。…で、何だこれは」
「冷えるぞ、着ておけ」
「おれは今から風呂に入る」
「上がってから着ろと言っている」
どうしてこうサスケとの話は半歩ずつでしか進まないのだろうか。イタチとしては一足飛びに、いや二足三足飛びに話したっていいのだが、一方のサスケが殊更慎重にイタチの言葉の真偽を確かめようとするから、二人の会話はすぐに膠着状態に陥る。
サスケは半纏と兄の顔を見比べて、それを渡された意図には納得をしたようだった。ただいかにも不承不承といった顔つきだったから、イタチは突き返される前に障子戸に手を掛ける。
「それと、サスケ」
「なんだよ」
「風呂から上がったら、おれのところに来い」
すると、弟の眉間にきゅっと皺が寄った。
「…なんでだよ。話があるなら、今、」
と訝る彼を、
「お前の部屋の布団も冷えているだろうから、湯冷めをするぞ」
文字通りぴしゃりと戸を閉めて遮った。
布団に戻る。外では「おい兄さん」と不平の声が飛んでいる。だが、何を言ったところで兄は出てこないと悟ったのか、やがて足音は風呂場の方へと遠ざかっていった。
サスケが湯浴みをしている湯音を聞きながら、再びうとうとと夢に微睡む。少し冷えてしまった布団は暫くするとまたイタチの体温を包んで温かくなった。そうして幾度か夢現を行き来する内、微かな湯音も止み、サスケの気配が部屋の前までやって来て立ち止まる。
障子をからりと開いたサスケはタオルを頭に被せた顔だけを覗かせた。こちらが眠っていると見たのか、声を潜める。
「兄さん、起きているか。おれ、やっぱり自分の」
と、そこまで茫と聞いてああこれは現の方かとイタチは目を開いた。そうして何事か先を紡ごうとしていた弟を手招く代わりに布団の片端を持ち上げた。
「ほら来い、サスケ」
何かを話したいのなら、まずそれからだ。
それでもどうしてか戸を開いたまま動かないサスケにイタチはもう一度強く声を掛ける。
「早くしろ。冷える」
すると、彼は全く忍らしくなく音を鳴らして戸を閉めた。そうして、貸してやった半纏を布団に上掛けし、いかにも仕方なさげにイタチの隣に潜り込んでくる。そのうえ、小さく「くそ」だとか「勝手に話を進めるなよな」と毒吐くが、結局布団の温もりにはあっさりと陥落をしたのか、もぞりと身じろいで居心地を探した。
ただ風呂上がりの温もった体とは逆さまに、サスケの足の裏は冷えた廊下を素足で渡ってきたせいか、もう冷たかった。
「あ、おい…」
向かい合って、こちらの脚の間に引き寄せる。挟んで温めると、サスケはイタチが夜目のよく利くことを失念したのか、顔にへの字口にへの字眉を浮かべた。そのどこか照れを含んだ弟の顔はこの頃見なくなって久しい。
イタチとサスケ、二人にまだある少しの合間を、それは二人が長じるごと自然と離れた距離だったが、そういう隙間を今夜はどうしてか埋めたくて、イタチはもう一つがあるわけでもないのに枕は要るかとサスケに訊ねた。だが、すぐさまそっけなく「いらねえ」と返される。代わり、イタチは弟の頭と彼が枕元に置いたタオルを口実半分で引き寄せた。
「お前、また髪をきちんと乾かしてないな」
頭にタオルを被せ、上から適当に腕で抱き込むようにしてかき混ぜる。なおざりだが、本当に濡れたままだったから、このまま放っておくよりは幾分かはいいだろう。
「頭から風邪を引くぞ」
「…アンタはいつもそう言うが、そんなもの引いたことねーよ」
全く可愛くないことだ。
けれど、こういう些細なことにも鼻を鳴らすところが弟らしい。彼は、兄弟の立場を明確に分けて育てた父や、駆け寄っても駆け寄ってもまた今度だと突き放してばかりだった兄のため、するりと素直に人の懐に入るのをやめてしまった。
タオルを退け、今度は乱れた髪を手櫛で梳いてやる。明日の朝、寝癖はアンタのせいだと機嫌を曲げられてはたまらない。
イタチは胸の辺りまで下がっていた布団を引き上げた。
「サスケ」
「ん」
「布団、ちゃんと背中まで掛かっているか」
「ああ、掛かってるよ」
と答えるサスケに念を入れる。
「本当か」
「本当だ。…兄さんこそ、ちゃんと背中まで掛けているのかよ」
「ああ、掛けているよ」
「本当か」
「本当だ」
「嘘を吐け」
布団の中、不意にサスケの手がイタチの背に回る。そうして隙間の空いたところを探るようにしたかと思うと、サスケの方からイタチへとぐいと身を寄せてきた。そうしてくれたところで布団はサスケの背にたっぷり掛かったままだから、イタチもまたサスケの背に腕を回し具合を確かめながら、掛け布団を引っ張った。それで、互いに少し緩む。
「兄さん」
と、ぼそり呟くサスケの声にも先程までの険がない。うん?と返すと、サスケは向かい合った布団の中でそっぽを向いた。
「明日、母さんが起きる前に絶対起こせよ」
朝になったら部屋へ戻ると言う。
イタチは首を傾げた。
「どうしてだ。べつに悪いことをしているわけじゃないだろう」
「こんなのがばれたら何を言われるか分からねえ」
こんなのとは、こうして共寝をしていることだろうか。兄弟だから構わないだろうとイタチは思うのだが、サスケにとってはそうもいかない事態らしい。頑なに起こせよだとか、見つかったらどうするだとかを繰り返す。それならば自分で起きて勝手に抜け出せばいいものを、彼は後ろめたさなど微塵も感じていないイタチを、しかし共犯だと思っている節がある。イタチはおかしくてふふと笑った。
「なんだかお前を連れ込んだみたいで、本当に悪いことをしたくなるな」
だが、サスケはイタチが言わんとしたことをすぐには正しく取れなかったようだ。
きゅっと寄せられた眉の間に先程のように怪訝の二文字が浮いている。だから、イタチはそこを小突いてこの話はもうおしまいにしてしまった。サスケもサスケではぐらかされたと気付いていたようだったが、兄をあれこれ追及するにはもう夜がよく更けていた。
「今日の任務はどうだった」
と新たに水を向けた別の話にも、「喋るわけないだろ」と忍らしくそっけないが、その声はどこか眠気を帯びている。そうして、
「…でも、おれが一番敵を引き付けた」
そんなことをいとけなくぽそり付け足すのだ。そういえばアカデミーの時分もサスケはその日あったことを何でも全てイタチに話そうと懸命だった。
「さすがおれの弟だ」
イタチは時折弟だけに見せる小さな悪戯心から父の口真似をしてみた。すると、すかさずこちらの懐に顔の半分まで埋めていたサスケが口と目の端を鋭く尖らせる。
「さり気なく自分を上げてんじゃねーよ」
「ふうん。お前、それは父さんへの反抗か?」
「…父さんはいいんだ。父さんは特別なんだ」
サスケはそう言った後、むっつりと押し黙った。互いに単に話の先が続かなかった。息遣いだけが重なる。
外はこの冬三番目の寒波だ。凍えるような北風が烈しい笛の音を鳴らして寝静まった集落の中を吹き抜けていく。うちはの古い家は雨戸を強く叩かれて身震いにきしきしと軋んだ。ただイタチの腕の中だけが温かい。
「サスケ」
「ん…」
「おれもお前だけが特別だよ」
イタチは、彼にしては滅多になく、ふと本当のことを少しだけサスケに話した。けれど、サスケはいつもの兄のたちのよくない戯れ言かと思ったのか、あるいはもう眠くて億劫なのか「そうかよ」とだけ呟いて、
「本当のことなんだけどな」
ともう一度イタチが重ねても、取り合ってはくれなかった。
それから暫く他愛のないことをぽつりぽつり言い合って、その内やがてサスケが先にことりと落ちた。
寝顔は引き寄せたけれど、それ以上はしなかった。
悪いことはしなかった。