サスケは炬燵で丸くなる



 花びら雪の里の午後、サスケが母から仰せ付かった所用を済ませ台所に戻ると、あとで食べようと思っていたうちは煎餅を盛った漆器がまるまる卓袱台から姿を消していた。
 用と言っても勝手口横の糠床をかきまぜて手を洗ってくるほんの僅かのことだ。思わず夕飯の下拵えをする母に訊ねると、彼女はとんとんと包丁の音を軽快に鳴らせたまま、首を傾げた。
「さあ。でもさっき兄さんがふらりとここへ来たから、お部屋に持って行ったのかもしれないわね」
「兄さんが…?」
 甘いものには滅法目のない兄がわざわざ醤油煎餅を好んで食べるだろうか。そう訝しく思う気持ちはあるけれど、この状況、母でなければ兄しかいない。
 だいたいあの煎餅はサスケが昨日の任務帰りに角の煎餅屋で買ってきたものだ。独り占めするほど卑しくはなかったが、だからといってサスケが手も付けない内に丸ごと全てかっさらわれてしまうなんて思ってもみなかった。それに観察眼に優れた忍だと里で誉めそやされているあの兄が、漆器に盛られた煎餅にざらめがないことくらい、すなわち母が夫や息子たちのために買ってきたものでないことくらい、すぐに気が付いただろうに。
「甘いものでも食っていやがれ」
 サスケは舌打ちをして一人ごち、身を翻した。無論、今日は朝から部屋に籠りきりの兄の元へ乗り込んで煎餅を奪還してやるのだ。繰り返すが、サスケは卑しいわけでも、煎餅を独り占めしたいわけでもない。ただ一言の断りもなく勝手に持ち去るとはいったいどういう了見だと、そういう義憤にサスケは駆られていた。
 だが、何をどう思ったのか、台所を出て行こうとする息子の怒り肩を母が「サスケ」と呼び止めた。出鼻を挫かれた思いでなんだとばかり振り返ると、急須と二口の湯呑みが載せられたお盆を渡される。
「兄さんの部屋に行くのなら、ちょうどいいわ。これ、持っていってあげてね」
「…いや、おれは…」
 と、顔と態度で難色を示してみるが、母は取り合うつもりはないらしい。さっさとサスケに背を向け、今度は鍋に水を汲み始めてしまう。
「あんまりおやつを食べすぎちゃだめですからね」
 それはおれではなく、丸ごと器をさらっていった兄さんに言うべきじゃないのか。
 そうは思うが、もはや何を言ったところで聞き流されるだけだとサスケは口を噤み、渋々お盆を片手に兄の部屋へ向かった。
 だが、急須と湯呑み茶碗。兄の横暴に腹を立てて乗り込むはずが、こんなことではどうにも格好が付かない。
 サスケは訪ねた兄の部屋の前で母に持たされたお盆を今更ながらにもて余した。障子戸にはうっすらと書き物をする兄の影が映っている。
 サスケがこの部屋を訪れるのは実は久方ぶりのことだった。夏場には風通しがよく、畳敷が涼しいためごろごろと気を抜くのに重宝したが、反面冬ともなれば物も少ないことも手伝って、まるでがらんどうのように寒々しく、季節が暮れるに連れサスケの足は兄の部屋から遠退いていた。
 本来であれば一声掛けるべきなのだろう。だが、急須に湯呑み茶碗。ここはせめておれは怒っているのだぞ、そしてこのおれの不機嫌は全て兄さんのせいなのだぞと伝えるため、サスケはわざと何も言わず荒々しく障子戸を開いた。それにどうせ弟の来訪くらい気配に聡い兄には疾うに知れている。
「おい、兄さん」
 おれの煎餅、勝手に取っただろう。
 そう続けようとしたサスケの言葉は、しかし途中で途切れた。文机で筆を運ぶ見慣れた兄のその背後に見慣れない一人用の小さな炬燵が置いてある。
 去年の冬にこんなものはあっただろうか。いや、それより何より畳すらもぴりしと織り目正しいこの部屋に、布団が掛けられたそれはなんとも馴染まなかった。ひどく浮いている。
 そんなちぐはぐさと違和感にサスケがやや虚を衝かれていると、振り返りもせず、筆を走らせたままの兄が言った。
「なんだ、騒々しいな」
 それでやっと一度は引っ込んだ言葉が喉の奥から押し出される。だが、当初の勢いを失くしたサスケの不服申し立ては牙を抜かれた獣か、猫の甘噛のようになってしまった。
「おれの煎餅…」
「ああ。それならちゃんとそこにあるだろう」
「……」
 確かにイタチの言う通り、サスケが買ってきた煎餅は全くの手付かずのまま、まるではじめからそこに居ましたというような澄ました素振りで炬燵の上に収まっている。それにしたって、そんな言い方はずるいんじゃないのか。その上、
「お茶を持ってきてくれたのか」
 などとちらりとこちらを気遣うのはますますずるい。二口の湯呑みを見られたサスケはこうなればもう何も言えなくなってしまう。
「…母さんが持って行けって」
「そうか」
 仕方なしに障子戸を閉め、お盆を炬燵の上に置く。けれど、絶対お茶など淹れてやるものか。そう最後の意地を張りつつ、サスケもまた炬燵の傍らの座布団に腰を下ろした。渋々といった態で足を入れれば、まるでぬるま湯に浸かったときのように冷えた爪先がじんわりと温まる。炬燵の他は冷える兄の部屋だ。サスケはより深く布団に潜り込みながら、筆を執る兄の背に訊ねた。
「なあ」
「うん?」
「これ、どうしたんだ」
 炬燵でだって書き物くらいできるだろうに、兄は相変わらず文机に向かったままだ。
「炬燵のことか?」
「ああ」
「この間、買った」
「また急だな」
 さっきの糠床の世話でかじかんだ手もついでに炬燵の中で温めながら、全くこの兄のすることは分からないとサスケは思った。結局文机ばかりで使いもしない炬燵を買って来たり、食べたいわけでもないくせにサスケの煎餅を取って行ったり、兎も角とっぴなのだ。
 だが、全ては兄の中で辻褄が合っているのだろう。
「居着くかと思ってな」
 などとまた不意打ちをサスケに食らわせる。
「居着く?」
「ああ」
「…ふうん」
 寒がりな野良猫にでも情が湧いたのだろうか。サスケは炬燵で丸くなりながら、そんなことを考えた。