カーネーション
潮騒が遠く近く聞こえる。古くから交易で栄えてきた港街だからだろう、山と川に囲まれたこれまでの宿場町とは違い、海を渡った異国風の石造りの街並みが港の手前まで長く続いている。
サスケは露店主たちの招き手に無関心を貫き、港へと歩いた。
近付くにつれ、潮の香りが強くなる。船乗りの男たちも多く行き交い始める。
船に乗るわけではなかった。ただサスケが手配書の更新をしている間に勝手な兄が「船を見て来る」とサスケを残し、ふらりと行ってしまったのだ。
兄はサスケに賞金稼ぎとしての一通りを教えたが、それが済んだ後はほぼ全てをサスケに任せきりになってしまった。この頃は手配書の更新も賞金首の換金もサスケがしている。
「イタチ」
港内に入り、漸く石造りのベンチに腰掛けていた兄を見つける。
イタチは港に停泊する船を眺めていた。
商船だろう。帆は畳んでいるが大きい。男たちがせっせと積み荷を運び込んでいる。もうすぐ海を渡るはずだ。サスケもまた兄につられ船を見上げる。
そのサスケを呼び戻したのはイタチだった。
振り向き、口を開こうとして、ふと兄の傍らに白のカーネーションが一輪包まれているのに気が付く。だが、それはと訊ねるよりイタチの方が早かった。
「更新は済んだか?」
「…ああ」
サスケは懐に仕舞っておいたイタチの手配帳を差し出した。
「この間おれたちが捕まえた奴が削除されていた。追加もある」
そうか、とイタチはいかにも興味が薄いような素振りで手配帳をぱらりぱらりと捲った。挙句、潮風に吹かれれば、その風そのままにページを飛ばしていってしまう。だが、これで賞金首を見つけるのはいつだって兄の方が早いのだから、おれが少々ひねてしまうのは道理なのではないか、とサスケは最近になって思うようになった。いつまでも「すごいや兄さん」ではいられない。
「なるほどな」
イタチはぱたんと手配帳を閉じた。懐に入れ、立ち上がる。
「じゃあ何処かに入って次を考えるか」
ちょうど昼時だと言う。
サスケは少し警戒した。
「…いいけど」
「けど?」
「普通の飯屋じゃねーといやだぜ」
兄に任せると、こんな街だ、折角だからと珍しげな甘味の店に連れ込まれてしまうかもしれない。これまでに背を無理矢理押されたのは一度や二度のことではないのだ。そして、どうやらサスケの悪い予感は正しかったようだ。残念だと肩を竦める兄が、ベンチに残した花を取り上げる。それで、ああそういえば、とサスケは訊ねようとしていたことを思い出した。
白のカーネーション。
勿論、気づいていないわけではない。今日は街中に赤い花が咲いている。
「兄さん、それ…」
訊ねると、イタチは「これか?」と香りを楽しむように鼻先にカーネーションをあてた。サスケの鼻にも微かに甘い蜜の香りが届く。
「露店で買った」
「普通、赤じゃないのか」
幼い頃、兄と共に母へ贈った花は赤のカーネーションだった。ここに来るまでの店々でも売られているのは赤のカーネーションばかりだ。いったいこの兄は何処で白のカーネーションなど見つけて来たのだろうか。
「そう、普通はな」
イタチはひょいと無造作に花の包みを肩に乗せた。
「だが、亡くなった人には白のカーネーションを贈るんだ」
ふとイタチはサスケが意図的に避けている過去を手繰り寄せるときがある。他意もなく、他愛もなく、平然と「過去」を取り出して、触れて、それからまた懐に仕舞う。イタチはサスケよりも余程「過去」と折り合いをつけているのだろう。
あの夜から八年、
『分かってるわ』
母は片時も離れず兄の傍にいてくれたのだ。
里との軋轢。確執。それがそのまま持ち込まれたような父と兄の対立。
兄が一族に手を掛けたあの日から、失ったとばかり思っていた。
だから、もうそうではないのだと思っていた。
けれど、違った。
過去、幾人もがサスケに父と兄を語って聞かせたが、今はそのどれもが的外れなのだと笑って思える。
難しいことなんて何もなかった。
父と母、兄はずっと家族だった。
ただ家族だった。
何処にでもありふれた家族の、そのひとつだった。
そして、
「サスケ?」
「兄さん。飯の前にさ、」
きっと今はおれも。
今日は街に花の溢れる美しい日だ。
サスケは海を見て行こうと兄の袖を緩やかに引いた。