砂嵐



 風の国の砂漠は広大だ。国土のほぼ全てを覆っている。踏破にはそれ相応の装備が必要だ。
 イタチは片膝を付いて、砂に残された足跡を指でなぞった。砂が軽い。今も微風にさらさらと流されていく。だが、足跡は所々崩れてはいるものの風に吹き消されてはいなかった。
 まだそう遠くへは逃げ切れていない、ということか。イタチは人影も獣の影も絶えた空と砂丘の世界に目を凝らした。
 先日から追っていた高額の賞金首は、この砂漠へと姿を消した。追ってはこられまいと逃げ込んだのだろう。まったく面倒なことだ。
「イタチ」
 名を呼ばれる。そちらを振り仰いだ。傍らに生えた枯れ木の尖端、物見をしていたサスケが何かを見つけたらしい。
 今日は空が眩しいくらいに青く、太陽の日差しも鋭い。真白い光に重なりサスケがすたりと脇に降り立つ。
「何か見つかったか?」
 問うと、サスケは頷いた。常の無表情にやや憂鬱の気配が現れる。内心首を傾げていると、
「ああ。砂嵐だ。ここへ来る」
 サスケの言葉に、成る程、それは面倒で憂鬱だとイタチは思った。


 大きな岩山の麓に偶然洞窟を見つけたのは幸運だった。外でやり過ごすには些かあの砂嵐は巨大だ。
 イタチは洞窟への入口、その岩陰でランタンを手に外の様子を窺った。舞い上がり始めた砂の粒で視界は遮られてはいるが、まだゼロではない。しかし、時間の問題だろう。もうすぐに呑まれる。あるいは賞金首はこうなると知っていてこの地に逃げ込んだのか。
 まだ知らないことばかりだな。そう思えば、どうしてかイタチの心は僅かに踊る。
 何にせよ暫くはここから動けそうにない。イタチは入口を離れ、サスケを呼ばわった。
「サスケ、もっと奥へ行こう」
 入口付近だと砂が吹き込んで来るかもしれない。
 だが、振り向いた先にサスケの姿はなかった。見回す。気配はある。更に奥。一人で行ってしまったのか。明かりもなしに。
 しかし、距離を置き過ぎてはいない。
 物見。探索。前衛。里で小隊を組んでいた頃は、それが彼の立ち位置だったらしい。習慣は年月では消せない。今もサスケはイタチが知る幼い頃の仕草を時折見せることがある。勿論、それは気づかないだけで、イタチもまた同じなのだが。
 イタチは幾つか突き出した岩を折れて曲がり、サスケの気配を頼りに奥へと辿った。
 深い洞窟だ。それに上下がない。道が均されている。人の手が入っているのか。イタチは剥き出しの岩肌に手を触れた。サスケの気配ももう近い。それはあちらも同様のようだった。サスケの方から「イタチ」と呼ばれる。ランタンを前に翳すと、サスケは上へとそびえる岩壁の脇に片膝を着いていた。
 ランタンを掲げ、イタチもまた見上げる。他の処と何ら変わりはない。だが、明らかにサスケはそこに何かを見ていた。
「何かあったのか」
 イタチは歩み寄りサスケの手元を照らした。
「これだ」
 サスケが少し体を横にずらす。長く地面に降り積もった砂。サスケがそろりと手で払うと、その下から規則性を持った文字のようなものが現れた。術式だ。岩を削って刻んだのだろう。風化の具合から数十年は経っている。
「少し代われ」
 イタチはサスケにランタンを渡し、術式の傍に膝を着いた。更に砂を払う。今度はサスケがイタチの手元を照らした。
「分かるのか?」
「いや…」
 イタチは言葉を濁した。
 他の忍らに比べればサスケの術式の知識は相当に高度なはずだ。だがそれでもサスケが早々に下がったのは、この術式が彼の知るどの式とも掛け離れていたためだろう。用いられている言語すら未知のもののはずだ。
 これは汎用されている今の術式ではない。何処かの忍一族秘匿の術式か、あるいは個人が編み出した術式か。イタチも未だ読み解いたことのない術式だった。
「どうやら封印が施されているようだな」
 眼前の岩壁を見上げる。この向こうに何かあるのか。イタチは目を細めた。確かに見たことのない術式だ。しかし、完全ではないが、似たようなものは昔文献で読んだ覚えがある。様々に試せば解けるかもしれない。
「兄さん?」
 サスケは不可思議げに兄の背に呼び掛けてきたが、イタチは応えずやおら印を結び始めた。


「兄さん」
「……」
「兄さん、もう」
 そう言うサスケの声には呆れと退屈が混ざっていた。初めは微動だにしなかったランタンの明かりも、彼の心が表れたかのように先程から揺れ始めている。単純に飽いたのだろう。
 あれから幾つもの印を結んでは解き、考え、また結んでいる。イタチ当人としてはその度に前進をしている手応えがあるのだが、ただ眺めているだけのサスケには単なる失敗として映るのは仕方のないことだ。そもそも戦闘に特化するように生きてきた彼は、こういった発掘研究には興味がないのかもしれない。だが、
「下がれ、サスケ」
 イタチは待ちくたびれた様子のサスケを押して数歩下がらせた。さすがに時間が掛かった。が、今度は巧くいったはずだ。
「開くぞ」
 イタチの言葉と共に目の前の岩が軋んで重く鳴り始める。振動が辺りに伝わった。岩壁が僅かにずれる。イタチはすかさず隙間に手を掛け、力を込めた。一気に押し開く。
「…横穴か」
 サスケの呟きにイタチは頷いた。
 前に開いたのは、今二人がいる穴よりも一回りから二回りは狭い横穴だった。
 ランタンを持ったサスケがまず入口に立つ。明かりは奥までを照らさなかった。こちらの穴も深い。いや、もしかすればこちらの方が。
 イタチもまた踏み入った。サスケからランタンを取り上げる。そうしてそのまま奥へ進もうとして、少々焦ったようなサスケの声に引き止められた。
「おい、何処へ行くんだ」
「何処って」
 ランタンで先を指し示す。当然だ。イタチにしてみれば、これこそが幼い頃からの習性といってもいい。里を抜ける前も後も、世界の理を解き明かす方法を求めて各地を探し歩いた。忍の術も突き詰めれば、世界の理の法を用いたものだ。とイタチは考えている。理の法を知れば、幾らでも術の応用は効くだろう。
 だが、サスケはいい顔をしなかった。追い掛けていた賞金首はどうするんだと言う。
「後で捕まえるさ」
 どうせこの嵐だ。あちらも動けやしない。そんなことはサスケも分かっているはずだ。
 だが、サスケはまだ「しかし」と食い下がる。
「……」
 多分、この奥へ進むことに彼は価値を見出だせないでいるのだろう。彼にとってここは、あくまで一時の避難場所だ。これ以上に奥へ進む必要は全くない。彼の言う通り、賞金首こそが本来の目的ならば、尚更に。
「興味が湧かないか?」
 イタチは問うた。わざわざ難解な術式で封じ秘匿された扉だ。その先にあるものは、秘術か、はたまたその在り処を示した何かか。古い時代の書物かもしれない。
 だが、サスケは首を振った。
「おれは、うちはの術以外使う気はない」
「使いたくないのなら使わなくともかまわない。だが、だからといって、うちはだけを知っていればいいというわけではないだろう」
 サスケが、父と母、そして兄が繋いできた名を大切に思っていることは知っている。だが、固執はうちはの血の因習だ。サスケは今も時にその片鱗を見せている。少なくともイタチにはそういった危惧がある。
 賞金首など本当は言い訳に過ぎない。サスケはきっと何処かで恐れているのだ。まだ踏み入ったことのない暗い穴蔵の奥に進むことを。
 だから、イタチは戻って来た。
「サスケ」
 先を明かりで照らす。
「何も一つに囚われることはない」
 おいで、と空いた手をサスケに差し出す。だが、取られたのはランタンだった。
「……」
「アンタはすぐにおれを子供扱いするが、ガキの気分が抜けてないのは兄さん、アンタの方じゃないのか」
 物見。探索。前衛。そうだ。このツーマンセルでの前衛は彼だ。彼だった。
 前を行くサスケの後を追う。
「なあサスケ」
「なんだよ」
「お前、この先に何があれば嬉しい?」
 そう訊ねると、
「賞金首」
 サスケはしれっとして答える。
 イタチは可笑しくて笑った。
「可愛くないな、お前。昔のお前なら巻物がいいくらいは言っていたぞ」
「うるせーな。だいたい何もないことだって…、…兄さん」
 不意に立ち止まったサスケがこちらに目配せを送る。
 イタチもまた応えて頷いた。
「ああ、おれも感じた。チャクラだ。この先、だな」
 サスケが刀を抜く。
 イタチも外套の袖の中、密かに苦無を握る。
「行くか」
「ああ、行こう」
 扉はもう開かれている。