はじまって、



 宿場町の昼は長閑だ。昨日の旅人は今朝早くに旅立っただろうし、今夜の客が訪れるにはまだ時間がある。
 サスケは閑散とした町の通りを歩いていた。旅人は自分くらいで、あとはこの町の者だろう。夕方になればぞくぞくとやって来る流れ者らのため、仕入れや掃除に忙しい。必然、食事処はことごとく準備中の札が掛かっていた。
 朝を抜いたせいで腹が減っているというのに、これではなにも口にせず旅立つことになりそうだ。そのうえ、それを兄に悟られれば、街道沿いにぽつりぽつりとある茶屋でたらふく団子を勧められるに違いない。
 サスケはここ幾日ねぐらにしている宿屋の前で足を止めた。振り仰ぐ。木造二階建ての古い宿は入り口が少し昔住んだ家と似ていた。もちろんそんな感傷や郷愁で選んだわけではなかったが。
「……」
 イタチは二階の窓に腰掛けていた。木柵に頬杖をついて、サスケが歩いて来た通りを眺めている。
 であればサスケにも気が付いているだろう。けれど、イタチはサスケではないものを見つめていた。
 サスケにだけ見せるあのやわらかな面差しで、きゃっきゃっと飛び回って遊ぶ幼子たちを眺めている。
 サスケはイタチの目が自分を映すまで、随分と焦れた。
 子供らが走り去ってようやくイタチがサスケを向く。
「おかえり、サスケ」
 言ってからイタチは首を傾げた。
「どうした。上がって来ないのか」
 突っ立ったままのサスケは金縛りを解かれたかのように「ああ」だとか「べつに」だとか返した。正直なところ、自分でもなんと口にしたのかはよく覚えていない。
 たぶん今の返事に意味などあまりないのだ。
 サスケは宿に入った。


 部屋へ戻るとイタチはまだ窓辺に座っていた。風に当たっているのだろう。涼を連れた秋風に束ねた長い髪がふわりふわりとなびいている。
「随分とかかったな」
 部屋はざっと片づいていた。少ない荷物が隅に寄せられている。サスケが出ている間にイタチがしたらしい。
 サスケは懐から封書を取り出した。朝から出かけたのは、このためだった。いや、もう数日はこれのためにこの町で足止めを食らっている。
 受け取ったイタチは「分厚いな」と呟いた。
「だから時間が掛かったんだろ。何度も奴が本人かどうか確かめられた」
 連日サスケが出向いている先は換金所だった。捕らえた賞金首はかつての自分たちほどではないにしろ高額で手配されている。それ故、本人照合もうんざりするくらい慎重だ。
 しかし、おかげで懐は温かくなった。また気の向くまま流れられる。流れることを望むならば、だ。
「…兄さん」
 漸く腰を上げた兄をサスケは見上げた。イタチの眸にはサスケの姿が映り込んでいる。何処か思い詰めたようなそれだった。
「おれは、」
「サスケ…?」
「おれは、アンタが望むのなら、木ノ葉に帰ってもいいんだ」
 風は止んでいた。イタチが背にする窓の外には、秋の薄青い空が山向こうまで途切れなく続いている。
 けれどそのせいで、イタチの陰はサスケに落ちるのだ。
 サスケは一息にまくし立てた。
「アンタは、おれと違って、里を捨てたわけじゃない。傷つけたわけでもない。それが任務だったから抜けたんだ。暁に入ったんだ。里の楯にさえなった。だから、兄さんは帰れる。木ノ葉の里に帰れるんだ」
 サスケの言葉が尽きると、辺りはしんと静まった。
 ただ物売りの長閑な売り声が外から微かに聞こえてくる。
「…何故、そんなことを言うんだ」
 やがて口を開いたのはイタチだった。
 サスケは俯く。イタチに返せる答えなんてない。
 すると、いきなり後頭部を片腕で抱えられ、ぐいと引き寄せられた。ちょうど下を向いた額がイタチの肩口に当たる。じんわりと彼の体温が伝わった。
 サスケ、とイタチが言う。
「もしも悪党が現れて、あの子らを攫うようなことがあるのなら、おれはもちろん助けに入る。だが、だからといって、あの子らに交じりたいというわけじゃない」
「…なにが言いたい」
「おれはただ遠くから里を見守っていたい、それだけということさ」
 兄に額を預けたまま呻くサスケの肩をイタチが腕を回してぽんぽんと撫でる。
 サスケは体を離した。
 そこで自分を見つめたイタチの眸と出会う。
 イタチはむかし家の縁側で話したころと何も変わっていなかった。サスケの兄の顔をしていた。この人はやさしい人なのだ。サスケはそう思う。
 これまでも、これからも、きっとイタチはやさしい。
「それに、人が帰るところはなにも場所とは限らない」
 くしゃりと前髪を掻き上げられる。
「…それは、なんとなくわかる」
「であれば、もう言うな、サスケ」
 おれはもうこうして帰って来ている。
 兄はそう言うと、サスケから手を引いた。
 外套を羽織る。
 荷物を取り上げた。
「今夜は野宿になりそうだな」
 イタチの言う通り、今から町を出たのでは、日が沈むまでに次の町へは辿り着けそうにない。サスケは首を振った。
「べつに、それでもかまわない」
 兄と出掛けるのだ。
 たくさんの国を渡って行くのだ。
 長い時をかけて帰って来てくれたこの人と共に。
 遠く、遠くまで。
 兄弟で出掛けるのだ。