夜よ明けないで


※ 連作「かごめ、かごめ」より一年前
※ 20才イタチ×15才サスケ


 先程までの騒々しさが嘘のように夜の辺りは静まり返っていた。しんとしている。物音がひとつとしてない。静謐の冴え冴えとした夜だ。
 だがそれこそが好ましい。
 ひやりと冷えた廊下を渡りながら、イタチは白い息を吐いた。
 一族を集め、新しい年を慶ぶのはうちはの古くからの習わしだ。頭領は父であったが、こういった集まりは年長者を敬うもので、たいていは年寄りの家へぞろぞろと上り込む。そうして男たちは明け方まで呑み合うのだ。
 今年も一人潰れ二人潰れ、やがて父も潰れ、まだまだいけるとくだを巻いていた者も、しかし結局は潰れた。イタチが最後の一人に残れたのは、特別に酒に強いのではなく、抑え抑え呑んでいたからだろう。
 それでも僅かに酒精に火照った頬には真冬の夜のぴしりとした空気は心地良い。
 そう思った、そのときだった。
 不意に表門の脇にある勝手口が軋んで開く。目を遣れば、うすぼんやりとした提灯の明かりがひとつ。
 戸を潜って顔を出したのは弟のサスケであった。彼は酒の席が始まる前、まだ十五だからと早々に返されたのだが、なかなか戻らない父と兄の様子を見て来いとでも母に遣いにやらされたのだろう。
 それにしても綿をたっぷりと詰めたうちはの紋入り半纏に首巻き姿とは、随分と気が抜けたものだ。血縁のある一族だけが住まう集落に育った彼は、ここら辺りは庭のようなものなのかもしれないが。
「サスケ」
 濡れ縁より声を掛ける。
 それでサスケもこちらに気づいたようだった。玄関まで敷かれた石畳の道を外れ、庭を横切ってやって来る。
「母さんが、いつ帰って来るのか、だとよ」
 やはり、思った通りだ。
 イタチは返事をやった。
「おれはもう戻る」
「…父さんは?」
「潰れた」
「ふうん。珍しいな」
 呟くサスケをイタチは「こんなときでないと酔えないんだろう」と軽く流した。
「後のことはここの奥方に頼んである。帰るぞ、サスケ」
 先に表玄関へ回っておくよう告げる。
 だがサスケはイタチをじっと見詰めていた。どうにも神妙でいて、そして不安というにはまだ満たない感情の小さな欠片が、その橙の明かりのようにちらりちらりと眸の中で揺れている。
 怪訝に思い、どうしたと訊ねる。
 するとサスケは「いや…」と続きを濁して、ふいと目を逸らせた。
 けれど、思い直したのか、やがてぽつりと呟く。
「こんなときでさえ、アンタは酔っていないんだな」
 一瞬、言葉を忘れた。
 そうだ。
 その通りだ。
 うちはの集まりに顔を出すのは、自身にもその血が流れているからではもうない。もうないのだ。人を謀る才知に長けた狐の面は、もう何年も前からイタチの顔を巧妙に覆い隠している。
 イタチはサスケには応えなかった。
 嘘を吐きたくはなかった。良心の呵責などではない。そのようなものは歩んできた道々に疾うに捨て置いてきた。
 ただ嘘を吐くことで、その裏に潜む本当がいつかサスケの住まう世界に現れてしまうのではないか。それそのことが恐ろしかった。
 嘘は吐けない。嘘を吐いて隠さねばならぬことなど何ひとつとしてない。弟のサスケには、そう信じさせてやりたかった。


 提げてきた提灯はいつの間にか兄の手に渡っていた。彼は半歩ほど前をサスケの行く道を照らすようにして歩んでいる。
 この兄は大抵はそうだ。
 一つしかない傘を自分で持つくせにサスケに差し掛ける。好物であるはずの甘味も最後の一つはお前が食べろと、こちらの好き嫌いは別として、勝手に口の中に放り込んでくる。
 今もまた、
「そんな格好で寒くはないか」
 と訊ねる兄に、「アンタの方が薄着だろう」と返してやった。
 これにはこの兄も澄ました顔を崩した。苦笑をする。
「酒精を抜くにはちょうどいい」
「そんなに呑んでいないだろう」
「普段に呑まない分、回るのも早いのさ」
 確かに兄が晩酌をしている姿は思い返してもあまりない。今夜のような集まりで、少し口を付けている、その程度だ。
 うちはの家々の明かりはすっかり落ちていた。男たちは酔い潰れ、女たちも台所仕事を終えてそれぞれ眠ったのだろう。
 暗い夜の道だ。静かな二人歩きだ。
「…なあ、兄さん」
 兄の提灯を頼りに歩きながら前を行く背に呼びかける。
 それに「どうした」と答えるイタチは、酒精が入っているとは嘘なのではないかと疑うほど明瞭な口調だった。
「あと五年したら、おれも呑んでもいいだろう」
 返事を待つ。
 イタチは不可思議そうに小首を傾げた。
「それはかまわないが、思うほど楽しいものじゃないぞ、ああいう場は」
「べつに宴会に出たいわけじゃない。おれはアンタと」
 呑みたいんだよ、とは言えなかった。イタチがまるで遮るように、
「…あと五年か」
 と小さく笑ったからだ。白い息が彼から立ち昇り、やがては夜にふっと消えてなくなる。
 彼の背が遠かった。そして、それはそのまま五年の月日のようにもサスケには感ぜられて、黄昏時の風に古木が軋むように、ざわざわと胸が騒いで乱される。
「兄さん…?」
 問いかけた声音は、思う以上に細かった。
 それにこの聡い兄が気が付かないはずがない。
 提灯が揺れる。振り返った彼は穏やかに笑っていた。最近はとんと見せなくなった懐かしい兄の姿だった。
「五年後、お前はどうしているのかと思っただけだ」
 サスケは何も応えなかった。いや、何も応えられなかったと言う方が余程正しい。
 彼は「お前」と言った。確かにサスケ一人だけを指し、そう言った。
 どうして「おれたち」とは言ってくれないのか。
 考え過ぎなのかもしれない。幼い頃からの悪癖で、普段はねじ伏せていても、ついぞこの歳になっても治ることはなかった。
 イタチにはきっとサスケには見えないものが見えている。見据えている。それが何かと知りたいと思う一方で、知ってしまった彼が「おれたち」とは言ってくれないのだから、イタチがサスケにそっとしている目隠しの手はまだ怖くて外せない。
 一緒に歩いていたいのだ。他でもない、この人と。
「…上忍だろ」
 サスケが漸く声を絞って答えると、イタチは不自然に空いた間のことは何も言及しなかった。
「随分と強気だな、お前」
 などと、はぐらかす。
 サスケは口をへの字にした。
「順当な結果だ。…兄さんはならないのか、上忍に」
 イタチの実力ならば、すでに上忍に昇格していてもおかしくはない。寧ろ、それこそ順当な結果だ。
 だがイタチは必要がないと首を振る。
 彼が所属する暗部では確かにそうなのだろう。よくは知らないが、あそこの忍は次の世代の育成も同時に行うサスケら表とは違い、任務遂行こそが唯一にして至上の価値なのだ。忍の階位などイタチの言う通り必要がない。
 そしてそれはイタチが暗部に身を置き続けるということでもある。
 サスケの視線は知らず知らず沈んだ。
「暗部はあまりいい噂を聞かない」
 ここら辺りはあまり舗装が進んでいない。砂利が踏みつけられてざりりと鳴った。それでも大きな石に躓いたりしないのは、サスケの爪先の少し先をイタチの提灯が照らしてくれているからだ。こんなちょっとしたことにすら兄の心が在る。在るのに、とサスケは思う。
 だが、当のイタチが軽く笑った。
「だからこその暗部だ。それにおれにはあそこが一番向いている」
「…でも、いつまでもというわけにはいかないだろ」
 すると、イタチは「どうしてだ」と首を傾げた。どうやら本当に見当が付かないらしい。その兄ももう二十歳だ。
「あそこは家族持ちには向かない」
 サスケはぼそぼそと答えた。
 だが、イタチはますますわけが分からないといった顔をする。
「おかしなことを言う。おれには元々家族がいるだろう」
 お前とかと言われ、サスケは少し語気を強めた。
「そうじゃない。そうじゃなくて、だから、あれだ、アンタが持つ家族のことだよ。嫁さんとか子供とか、そういうのがいたら、…できたら、暗部の任務は続けられないだろうが」
 危険が伴うのは他の忍らと変わりない。だが、時に暗部は同郷の忍を監視し、始末をする。家族は弱みになり易い。盾に取られることもあるだろう。暗部に独身の若者が多いのは、そういったわけがあるのではないかとサスケは考えている。
 だからこそ、うちはの家を継ぐイタチもいずれは暗部を辞めざるを得ないはずだ。
 それは常に暗部という暗闇を歩いているような兄を持つサスケにとってはこの上なく喜ばしいことだ。喜ばしいこと、なのだが、
「一理ある。が、どうしてお前がむくれているんだ」
 イタチの指摘にサスケは鼻を鳴らした。
「どうしておれがむくれなきゃならない」
 が、イタチは取り合ってはくれない。道の先を行きながら、可笑しげにふふと笑っている。
「よく言う。それがむくれていなくて何だというんだ」
「だから、むくれてねえって」
「いいや、お前は拗ねて腹を立ててむくれているんだ」
「理由が…」
 ない。
 そう言い切る前に先回りをされる。
「お前、おれのことが好きなんだろう」
 イタチは、やがて来る角を曲がろうとした。
 だが、サスケは分かれ道の真ん中で立ち止まる。矢で射抜かれてしまったように足が動かなかった。
 それに気づいたイタチが少し行き過ぎた距離を戻って来る。
「サスケ?」
 見上げる。
 イタチは思う以上に傍にいた。
 好きだ、と思った。
 この兄のことがどうしようもなくおれは好きなのだ、と思った。
 決して恋とは言えないそれは、彼がどうしても必要だという言葉になら置き換えられるだろうか。
「兄さん。おれは、」
 知らず、拳を握る。
 このままで、そのままでいてほしい。
 何処へも行かないでほしい。
 おれの傍にいてほしい。
 けれど、時は流れる。誰もが押し流されて行く今というこの時この場所に、いつまで踏み留まっていられるだろうか。
 強くなりたいと思う。守られていることを知っている。変わらなければならない。
 だが、父がいて、母がいて、兄もいて、一族があって、仲間もいる里がある。そんな当たり前の幸福の今があるからこそ、変化とはこんなにも恐ろしい。
 どれが欠けてもいやだった。失いたくはない。
 サスケは衝動的に傍の兄の袖を握った。彼の服にくしゃりと皺が寄る。
 もし欠けるのならば、まず初めは彼だ。この兄はそういう人だ。
「サスケ」
 提灯の火がくらりと揺れる。
 あ、と思う間もなく体がイタチに引き寄せられた。
 頬が彼の肩に触れる。
 温かい。兄さんのにおいがする。
 サスケは普段ならばふざけるなと腹を立てて押し返す兄の体に今夜は素直に大人しくおさまった。
 兄の胸の音を聴く。不思議と安らいだ。痛いほどに打っていたそれがイタチのそれに重なって凪いでいく。
「サスケ」
 ぎゅっと強く抱き寄せられたような気がした。
「兄さん…?」
 腕の中、けれど見上げることのできないサスケの耳にイタチの唇がそっと寄せられる。
「少し回り道をして帰ろうか」


 せめて夜が明けるところまで。朝の光が見えるところまで。
 もう少しだけ。
 この子を導いてやりたい。
 腕の中、微かに頷く弟の手をイタチはそっと握った。