ビー玉ラムネ からんからん
「サスケ」
まだ辺りも明るい夏の夕暮れのこと、聞き慣れた声に名を呼ばれ、サスケは振り返った。
任務をひとつ終え、報告を済ませた後のことだ。他の班員はかつての師に倣い、先に帰らせてある。と言ってもナルトらではない。十六になったサスケは旧七班を離れ、既に他の班を率いる隊長の立場だ。ナルトもサクラもそれぞれにそれぞれの道を歩き始めている。
ところで、サスケを呼び止めた人物は自ら声を掛けておきながら、サスケの視界の中、急ぐ風が全くなかった。木の葉の賑やかな通りをゆったりとした足取りで歩いている。
サスケは立ち止まって彼を待った。なに、実はほんの少しの間のことだ。けれど、どんどんと人に追い越され或いはすれ違いもすれば、道端にぽつねんとしたサスケには、それが随分と長い時間のように感ぜられた。
「今、帰りか」
漸く件の彼が追い付いて来る。が、一言目がそれ。サスケの心中など推し量った様子もない。こういう奴だとサスケは目だけでちらりと彼、つまり自分の兄を見上げ思った。
ただ、幼いころはもっと察しが良かった、そうも思う。かつての兄はサスケのこころ内の大概は分かっていたような素振りと顔を見せていた。勿論あの頃は今よりもずっと長い時間を共にし、サスケがその日にあった何事も細大漏らさずアカデミーや任務から帰った兄の腕を取っては話していたのだから、変わってしまったのは彼ばかりではないのだろう。
それでも、その何処か浮き世離れした物の見方には時折置いてけぼりを食らってしまう。
それはそうと、いつまでもこうして通りに突っ立っているわけにもいかない。人通りは多い。サスケはふいと兄から目を逸らした。
「アンタもか」
早々に歩き出す。
イタチはそれに半歩遅れた。しかし、すぐに隣に並ぶ。サスケの歩調を確かめ、合わせたのだろう。それがひどく記憶の中にある「イタチ」らしかった。知らず口角が上がる。それにイタチが気づいた。
「なに笑っているんだ」
「べつに」
「なにかあったのか」
「いや、なにもない。…強いて言えば、アンタとこんなところで会うとは思わなかった、それくらいだ」
言うと、隣でイタチが頷く気配がある。
「ああ、それはおれもだ。こうしてお前と歩くのも随分と久しぶりだな」
元気かサスケ、などと間の抜けたことを訊ねられる。やはりこの兄は読めない。
「はあ?なんだそれ。家ではいつも会っているだろう」
「ああ。最近はそうだな」
ぽつ、ぽつ、と言葉を交わす。どれもこれも先にあったような他愛のないことだ。今の暮らしの大方を占める任務のことは互いに詳しくは話せない。
特にイタチは暗部だ。たとえそれが家族であっても、事前に何をも告げることなく数ヶ月くらいあっさりと姿を消してしまうこともある。
では何を話すかといえば、結局は子ども時分に帰り道でしたような話に尽きるのだ。よく体を使ったので腹が減っているだとか、であれば夕食の食卓に並ぶなら何がいいだとか、そういったどうでもよいことを途切れがないほどに交わす。
話題を振るのはいつだってイタチであったが、たぶんサスケが黙りこくったとしても、彼は一向に構わないのだろう。こういう兄だ、と心中またサスケは繰り返す。
夏の夕暮れは日が長く、いつまでも空が青い。それでもだんだんに藍を帯びてきてはいるが、ふとすれば時間の感覚が何処か曖昧になる。
そのせいか、今の今までサスケは「そのこと」に気がつかなかった。なにかを話していたらしいイタチを構わず遮って訊ねる。
「今日は人通りがやけに多くないか」
時刻は確かもう七時に近い。だというのに、この昼間のような賑わいはどうしたことか。
だが、イタチはすぐに「ああ」と答えた。
「縁日のせいだろう」
「縁日…」
「あそこの神社だ」
イタチの視線を追って、先を見遣る。
西日を受けて朱色の鳥居が藍の空に浮かび上がっていた。参道の向こうには幟や出店がちらちらと見える。すでに人の群が出来ていた。
「お前、知らなかったのか」
問われて、素直に知らなかったと答えた。
うちははそれ全てが南賀ノ神社の氏子だ。そこの祭事は必要があって頭に入れているが、そうでないなら興味はない。
だが、兎も角、それならば小さな子どもを連れた家族や、若い浴衣姿の男女が多いことも頷けた。
「…寄っていくか?」
唐突にそうイタチが切り出したのは、サスケがいつもはひっそりとしている神社の黒い森が幾つもの赤い提灯に照らされているのをなんとはなしに見上げていたせいだろうか。
だが、サスケはもう小さな子どもではない。それにこういった賑々しい人混みは好きではなかった。参道に近づくにつれ、熱気のせいか辺りの気温が上がっているようにさえ思う。夏の夜に特有のじっとりとした重い暑さが体にまとわりつき肌を汗ばませる。
行かない、と答えることは簡単だった。気持ちの大半は勿論そうだ。あの出店ごとにいちいち立ち止まる人々の中を縫って歩くのは、縁日の出し物にさして興味の引かれないサスケにはただただ億劫なことだった。
けれどこの参道を横切り川沿いを少し歩けば、すぐにうちはの集落へ着いてしまう。近いわけではなかったが、かといって遠くもない。
後ろ髪をこうも引かれてしまうのは、きっと縁日のせいではない。
どうにも答え倦ねる。ほとほと困った。これではいつまで経っても諾とも否とも返事を言えない。
すると、ぽんと背を道の端へ押された。
「ここで少し待っていろ」
とイタチが言う。驚いた。
「おい、何処に行くんだ、兄さん」
背を向けた兄を思わず引き留める。
出してしまった声が意外なほど大きかったことに焦り、更に振り返ったイタチと目が合ってばつの悪い思いをする。けれど、
「すぐに戻る」
イタチはそう残すと、人混みの中に姿をあっさりと消してしまった。
まったくあの兄は、と参道の入り口に取り残されたサスケは、仕方なく神社を囲う石垣に腰掛けた。人の話を聞いているのだろうか。何処へ行くのかと問うたのに、戻ることだけしか教えてはくれない。それだけを頼りに待たねばならないサスケの気持ちなど、きっとこれから先もイタチが理解することはないのだろう。そう考えれば考えるほど、任務でもないだろうにと秘密癖のある兄に恨みのひとつでも言いたくなる。
眼差しを転じる。街並みの遠くに夕日が見えた。そうして頭上ではいつの間にか夜が始まり掛けていた。
人通りがまた増える。こぼれてくる会話から、どうやら日が落ちれば花火も上がるらしい。花火なんていつ以来見ていないだろうか。そんな取り留めもないことを考えていると、
「サスケ」
すぐ傍で名を呼ばれた。
はっと顔を上げる。すると、イタチが本当に傍にいた。
「今日はなんだかぼんやりとしているな」
そう笑った兄に一本の瓶を差し出される。受け取ってラベルを見ると、サイダーだった。
「これ…」
「喉、乾いていないか」
手が濡れるほど水滴が幾つも瓶の表面を流れて、乾いた土に落ちる。氷水の中できんきんに冷やされていたのだろう。イタチは縁日の出店でこれを買って来たらしかった。
「…もらっとく」
キャップをきりりと回す。炭酸がぷしゅっと抜けた。喉に流し込めば、体に籠もっていた不快な熱がするりと体の下へと落ちていく。
「サスケ」
「なんだよ」
「任務が辛いのか?」
イタチはサスケが座る石垣に背を預けながら言った。
ちょうどサスケの胸の辺りに兄の頭があって、なんだか落ち着かない。サスケは兄の問いは取り敢えず無視をして、兄さんは座らないのか、と言ってみた。
イタチが一つ瞬いてこちらを見上げる。サスケは顔ごと反対を向いた。するとその間にイタチはサスケの隣に腰を下ろしていた。
顔を少し傾ければ兄の肩が在る。そんなことにどうしてかほっとする。
もちろん本当にもたれ掛かることなんて出来はしないが、そう出来る距離にはもう少しの間いてほしい。きっとこの気持ちはそういうことだ。
「…兄さん、あのさ」
任務が辛いのかと兄は問うてくれた。そんなことはない。的外れだ。
だけれども、そう問うてくれる誰かがいることで、日々の自分は随分と救わている。
そうしてサスケにとってその誰かは、いつだって兄だった。
「うん?」
「任務は辛くない」
「そうか」
「…ただ兄さんといると、油断をする」
「油断?」
「そう。気が緩むんだよ」
言いながら、イタチの手にラムネの瓶があることに気がついた。まだ未開封のそれ。
「飲まないのか?」
もしかすればサスケが話すのをイタチは待っていたのかもしれなかった。けれど、サスケの言をどう捉えたのか、兄はそのラムネまで此方に差し出してきた。
「飲むか?」
懐かしさも相俟って、それを強請ったわけではないけれど、受け取る。ビニルを剥がして、兄との小さな隙間に瓶を置いた。そのままビー玉を落とす。しゅぽんと小気味良い音が鳴った。
一口含めば、少々甘ったるい夏の味がする。
その様子を見ていたイタチが笑った。
「昔から、そうだな」
「なにが」
「いや、昔からお前は開けたいだけなんだろう、実は」
すぐに返されたラムネに口を付けながらイタチが言う。どうやら知られていたらしい。
兄の手の中、傾けられる度にからからと鳴るビー玉の行方を眺める。
「それに」
「まだあるのか」
「縁日に行きたがらないのも、そう。おれが暗部入りする前の頃のことだ。縁日だったその日、家に帰ると母さんからお前がずっと待っていると聞かされた。なるほどきっと縁日に連れて行って欲しいんだなと思ってお前のところへ行ったら、さあ約束だぞ修業を見てくれ、と言ったんだ。年に一度の縁日の日に、だ」
あれには驚いた、と兄が笑う。
サスケはどうにも居心地が悪い。
「よく覚えているな、アンタ」
「覚えているさ。お前とのことはよく、な」
「なんだそれ。…だけど、おれも思い出したよ。あのときも帰り道、父さんと母さんには内緒でアンタはラムネを買ってくれた」
日が暮れる。夜にくるりと包まれる。今日は特別の縁日の夜だ。もうすぐ花火も上がるのだろう。だんだんと人垣が辺りに出来始める。ここからは花火がよく見えるらしい。
「帰ろうか」
イタチが立ち上がった。
家では父と母がふたりの帰りを待っている。「そうだな」と頷いて、サスケも石垣からすとんと降りた。
サイダーの残りは、道々飲むことにした。だがきっと歩きながら飲んだと知られれば行儀には厳しい両親だから説教に違いない。
「家に着くまでには飲み終わらなきゃな」
「証拠隠滅か?」
「兄さんだって同罪だろ。むしろ買ってきた分だけおれより重罪だ」
「では、ゆっくり帰るとしよう」
「そうしよう」
参道を今日ばかりは神様に断りを入れて横切る。
川沿いの道はすでに花火の見物客でいっぱいだったので、土手を下って歩いた。そこにも見物客が場所取りをしていたが、上の道より幾らかは空いている。
その折り、どぉんと川の向こう岸に花火が上がった。この夏初めての花火だ。
「始まったな」
イタチは足は止めずに、夜空を見上げた。けれどサスケは花火ではなく、兄を見つめた。
続け様に引先菊が上がる。それは消えていく前の模様をかき消しているようでもあった。
でもきっと覚えている。
サスケは思った。
花火のことも、ラムネのことも、この道を兄と二人で歩いたことも、生涯忘れることはないだろう。
二人の手と手の小さな隙間で夏に閉じ込められたビー玉ががからんからんと鳴っている。