65!



 それを例えるなら冬。深い雪を踏み踏み家へ帰り、温かい洗い湯に冷え切った足を浸したときのあの感覚。若しくは夏。渇いて干上がった喉に氷水を一気に流し込むのにも何処か似ている。
「……」
 目を覚ました、いや無理に覚まされたサスケが半分擡げた瞼の下からまず一番に見たのは、こちらを覗き込む兄の端正な顔だった。
 近い。そう思ったのは顔と顔の距離ではなく、体の距離。兄のイタチは寝転んだサスケのすぐ傍に座して胡座をかいていた。
 任務と任務の合間に仮眠を取ろうとサスケが座敷に体を横たえたのはつい一時間ほど前だ。ここは夏でも風通しが良い。今も開け放たれた障子戸のその向こう、軒下の風鈴がちりんちりりんと涼やかな音を奏でている。それに蚊が飛び始める夕方までにはまだ間があったから、束の間の眠りを心から楽しんでいたというのに。
「…何してやがる」
 サスケはむすりと言った。
 畳に放り出していた片手が勝手に兄のそれと結ばれている。それもどうかと思ったが、それ以上にサスケをしかめっ面にしたのはそこから流れてくる兄のチャクラのせいだった。あれのせいで起きた。いや、起こされた。
 一方のイタチは弟が目を覚ましたことに満足をしているらしい。折角の眠りを妨げて何が面白いのか、「起きたか」などと自分が仕出かしたことを一切悪いとも思っていない口調で、見れば分かることを確かめてくる。
 なにが起きたか、だ。起こしたくせに。そう責めると漸く「すまない」と気のない謝罪が寄越された。勿論、それで溜飲が下がるはずもない。するとイタチはわけを話し始めた。
「通り掛かったら寝入ったお前を見つけてな、これはちょうどいいと」
「アンタは誰彼となく寝込みを襲う趣味でもあるのか」
「標的を、任務でならな」
 趣味じゃない、と言われる。当たり前だ。そんなことは分かっている。兄との会話は時々投げ出したいほど面倒になる。サスケは唸った。
「じゃあ今度の標的はおれか?弟を起こすのが任務とは暗部も案外暇なんだな」
 つっけんどんの自覚はあるが、今日はそれ以上に声が刺々しい。無理に起こされ、そんな気持ちは欠片しかないような謝罪を放り投げられ、挙げ句要領の得ない話を聞かされては、腹を立てるくらいしたっていいじゃないか。
 そんなサスケに気付いたのか、兄の声が僅かに円くなる。額に掛かる前髪を此方の機嫌を取るように指で左右に解された。触れる指先がこそばゆい。
「そう突っかかってくれるな。悪かった。謝っただろう。お前が深く眠っていたから、ちょうどいいと思って実験をしたんだ」
 実験。口の中で繰り返す。どうも穏やかな言葉ではない。
「お前、おれがアカデミーの教本を書く手伝いをしているのは知っているだろう」
「…確か幻術の」
「今度は解き方だ」
 ああそう。とサスケは適当に頷いた。まるで以前の内容を此方が詳しく知っているような口振りだが、サスケが知るのは「幻術の」それだけだ。敢えて指摘するほどのことでもないけれど。
 だが、実験。その意図は見えた。寝入るサスケを幻術を掛けられた側に見立ててチャクラを流したのだろう。なんとも迷惑な話だ。それに眉間に皺を寄せて分かりやすく不機嫌を教えてやっているというのに、今もイタチは平然と繋いだ手を通してサスケにチャクラを流し込んでいる。
「どうだ、サスケ」
「なにが」
「他人にチャクラを注がれる感覚は。おれのがお前の中に入っていくのを感じるだろう」
 サスケの内に流し込まれるイタチのチャクラが不意に膨らむ。
 わざとだ。そうは分かっているが、急のことに体がついていかない。
 思わず「あ…」と小さく息を吐いた。イタチの手をぎゅっと握り返す。
「ん…きもちいい」
 体の内側、人には絶対に触れられはしないところを隅々までやさしく撫でられていく感覚。それにサスケが畳の上で身動ぐと、イタチはくすりと口許で笑った。
「教本にはとても書けないな」
 緩まるそれ。だが重ねた手はまだ退けるつもりはないらしい。サスケの汗がじわり二人の手のひらを濡らす。
「あつい…」
 サスケは畳に放り出したままの団扇を目線で示した。昼寝を始めるまでゆるゆると扇いでいた奴だ。そいつをサスケの意図を汲んだイタチが身を乗り出して拾う。
「目上に対する態度がなってないんじゃないのか」
 イタチはそうは言いながらも団扇を左右に振った。作られた微風にサスケの髪が揺れる。同時に兄のチャクラに驚いた肌も静まっていくのを感じる。
 眸を閉じる。実はまだ眠たい。兄から渡される今は少量のチャクラもこの眠気を助長している。
 それでも言われっぱなしは癪なので、口だけは動かした。
「検体は丁重に扱えって教わってないのか」
「それでは検体らしく、もう少しまともな結果を返して欲しいものだ」
 まともではない。と言われてるも同然だった。だが、サスケは反論をしなかった。
 アカデミーの頃、幻術の解法として他人とチャクラを交換したことはあるが、あんな感覚にはならなかった。そもチャクラを乱すことで幻術から覚めるのだ。心地好くては意味を成さない。
 兄だから、近しい血だから、そのチャクラに違和感を上回る心地好さを感じたのだろうか。まるで同化をしていくような、同じ海に溺れて閉ざされ溶かされていくような、そんな感覚だった。
 これはきっと例外だ。例外を教本には書けないだろう。だから、考察を言う必要はない。
 代わり、サスケは別のことを口にした。
「…アンタは学校に拘るんだな」
 イタチは暗部だ。そして、うちは一族だ。
 誰も何も教えてはくれないが、兄は「学校」というところから一番離れたところにいる。そんな気がする。実際、アカデミーに籍を置いたのもたった一年だけだった。
 それでも彼は今もこうしてアカデミーの、いやアカデミーに通う里の子どもらのため、空いた時間を見つけては面倒な教本なんかをこまごまと書いている。
 以前、上忍になるよう言ったこともある。後進の指導に興味があるのならカカシのように下忍班の担当教官になればいい、と。だが、イタチは「おれには暗部が合っている」と笑うだけだった。
 ならばどうして。どうしてそんなにも「学校」に拘る?
「サスケは学校は楽しかったか?」
 扇ぐ合間に問われ返され、考えた。もう三年も前のことだ。七つで入り、六年を過ごした。座学、実技。仲間。
 成績表。
 父さん。
 あの日の夕焼け。
 二人きりの縁側。
「…退屈だった。どれもおれが一番だったから。おれも兄さんみたいに早く卒業したかった」
 そう言うと、イタチはふふと笑った。そうだなと兄はいつもまずは同意をしてくれる。
「確かにお前は退屈だったかもしれない。だが、それこそが重要なんだ。誰もがお前のようにどれもで一番になれるわけじゃない。普通は秀でていたり、いなかったりするものさ。お前だって交渉ばかりに従事させられたら、里での今の評価はなかったかもしれないだろう。逆もまた然り、ということだ」
 人にはそれぞれ適性がある。アカデミーとはその見極めの為の時間だ。イタチが言いたいのは多分そういうことだろう。兄の言う通り、忍一族に生まれたからといって誰も彼もが実戦に秀でているわけではない。だが、
「兄さんは何でもできるだろ」
 口を尖らせた。それもまた笑われる。
「そうとも言えない。おれは協調性に欠けているから」
 前髪が揺れる。夏の風かイタチのくれる風かは分からない。
 風鈴がちりんと鳴った。会話が途切れる。けれど居心地は悪くはない。親しいからこそ、互いに黙っていられる。
 サスケは暫くして、なあ、と眸を開いた。
 うん?と返事をする兄はサスケを見つめていた。その姿を見つめ返す。
「…もっといたかった?」
 学校に。アカデミーに。そこにいられる時間に。
 きっとイタチは人より早く大人になった。誰もが認めるほど秀でていたから、遊んで学んで守られる子どもの時間を彼は早々に放棄してしまった。
 させられた。
 それともおれがそうさせた?
 イタチは僅かに目を瞠った。それから、「おれには暗部が合っている」そう言ったときの笑みでだけ返される。
「どうかな。お前みたいに何年も通っていたら飽きていたかもな」
 誤魔化されたな、と思った。
 だが、それは黙っておいた。親しいから、イタチがサスケにはそうしておいて欲しいのだとも分かる。ようになった。
 どうせ戻れはしない道だ。それにイタチ自身が選んで歩いている道だ。悲しむよりも、後ろめたく思うよりも、いつかサスケがイタチが長くいられなかった代わりに与えてくれた時間を「幸せだった」「ありがとう」と言う方がきっといいのだ。
 今はまだ言えないけれど、十年二十年、それくらい経った二人きりの酒の席でくらいならば、或いは。
 だが今は十代半ばらしく、ふんと鼻を鳴らしておく。
「嫌味か」
「そう聞こえたなら悪かった」
「やっぱ協調性ないよ、アンタ」
「だろう?」
 そう悪戯っぽく笑うイタチは、ところでいつこの手を離すつもりでいるのだろうか。
 サスケは畳に転がったままの結んだ二つの手に目を移した。もしサスケの答えをまだ待っているのだとしたら、
「きもちいい」
 あれ以上の答えなんてないのに。