20130609 イタチ誕
朝とは言っても日の昇るような早朝ではなく、集落にある小商店の主人たちがそろそろ店を開けようかと支度をするような頃、イタチは庭で布団を干す母の物音で目を覚ました。
何度か寝返りを打ってから、むくりと起きる。二度寝は諦めた。
障子戸の向こうが白く明るい。よく晴れているのだろう。今年はどうやら雨の少ない梅雨になりそうだ。そういえばまとまった雨を春先以来見ていない。田畑の実りは忍を生業にするイタチには直接には関わりのないことだが、兵糧の備蓄の話はいずれ取り沙汰されるかもしれない。
イタチはそこまで考え、自嘲した。起きて数分も経ってはいないというのに、何かを急ぐような自身の思考に少々呆れる。
それらを切り替えるようにして寝間着代わりの浴衣から部屋着に着替え、障子戸を放った。やはり晴れだ。日射しはもう夏の手前まで来ている。蒸すのも雨が近いのではなく、この土地の風土なのだろう。木の葉の里の夏は全てが色濃い。
イタチは少し逡巡して畳んだ布団の一式を腕に抱えた。草履を突っ掛け、庭へ降りる。もう一度真下から覗いた空は青かった。そこを時を忘れたような薄雲がのろまの足取りで横断していく。家中の布団を干して回りたくなる母の気持ちも分かるというものだ。
「おはよう、イタチ」
布団を干し終えた母は、今度は洗ったばかりの衣類を次々に物干しに掛けていた。
母を除けば男ばかりのこの家は、その男三人が三人とも忍の為か洗濯物がやたらに多い。母の足下の籠には山と洗濯物が積まれている。
イタチは母にかんたんないらえをし、物干しから少し離れたサスケの布団の隣に自分のそれも広げて並べた。任務のため夜までは帰らないが、母か或いはサスケ辺りが膨らんだ頃合いを見て部屋に入れておいてくれるだろう。そう考えて家に上がろうと来た道を戻る。その背に母の声が掛かった。
「なに?」と振り向く。母は変わらず手際良く洗濯物を干していた。
「朝御飯は、お台所にサスケがいると思うから」
彼女はこの後すぐに座敷の乾拭きをするのだと言う。
今日は任務に駆り出されて正解だったかもしれない。そうでなければ随分と張り切っている母に付き合わされ、きっと草取りなんかをさせられていただろう。庭の下草は丈を高くして夏を今か今かと待ち侘びている。
成る程、母の言った通り、イタチが顔を出した台所にはこちらに背を向けた弟のサスケがいた。しかし、もう洗い物をしているようで、ついでに作ってもらえばいいという母とそれからイタチの思惑は見事に外れる。
ところでサスケがイタチよりも早起きなのかと言えば、そうというわけでもない。彼は起きたのではなく、起きていたのだ。イタチは彼が明け方頃に任務から帰って来たことを床の中で知っている。そのイタチもまたサスケから遡ること二時間程前に戻ったばかりで、そういえば父のフガクは警務の深夜早朝番を務めているのか、まだ帰ってはいないようだった。
まったくこの家の時間感覚はどうも狂っている。ただそれぞれに自覚がある為、ごく自然にこの家の中心は母になった。彼女に正面を切って逆らえる者はいない。
「おはよう、サスケ」
その母とは違い、サスケにはこちらから声を掛けてやらねばならない。昔はイタチにも、いや年相応に父に甘えられない分だけ余計に五歳上の兄によく懐き甘え文字通り飛び付いてきた弟は、今や十五になり、中忍になり、小隊長まで務めている。無愛想にも、距離を取るようにもなるだろう。
ただ早熟だった彼に最も手を焼いたのは彼が十二・三の頃だった。今はその山も越え、アカデミーに入る以前のようにとまではいかないが、つっけんどんのその底にはあの頃と同じか、それ以上の思慕がひっそりとお互いに潜み沈んでいる。
「…おう」
サスケは、イタチの気配に初めから気付いていたくせに、ちらりと振り返り、そしてまた気のないようにまた洗い物をする手元に目を戻した。
蛇口の水勢が緩まる様子はない。どうやらこちらが台所に立てるのはもう少し先のようだ。
まあいいさ。イタチは食卓の昔からの処に胡座を掻いて座した。召集時刻にはまだある。サスケが洗い物を終えた後に朝食の支度をしたとしも充分に間に合うだろう。
母が父の為にと置いた新聞を取り上げ、広げる。とは言っても目新しい事は何もない。疾うの前から知っていたものばかりだ。口寂しいというのは聞いたことがあるが、イタチの場合それは目にあるのかもしれない。ざっと記事に目を通していく。その折、
「おい」
と、唐突に呼ばれた。
けれど呼んだ当人は背を向けたまま濯いだ皿の水を切り、乾燥機に並べて伏せている。
なんだと顔を上げると同時に蛇口がきゅっと絞られた。古い家だ。固く締めておかなければ、ぽたりぽたりと水滴が落ちる。
「飯」
とサスケは言った。
イタチは首を傾げる。
「飯?」
「どうするんだ」
どうするんだ、とはどういうことだろうか。イタチは更に眉根を寄せた。
勿論、食べる。決まっている。その為には作らねばならないのだから、用が済んだなら早くそこを退け。
などとは口には出来ない。したら最後、「二人とも朝から喧嘩はやめなさい」などと盛大母に小言を言われるようなことにだって充分なり得る。手を出し合ったりはしないが、つい不毛な無口合戦をしてしまうのだ。ただ、弟はどうかは知らないが、イタチにしてみればそれも「年相応の兄弟」をしているようで、愉しさ半分の気分でつい喧嘩をしてしまうというのが正しい。
イタチはしばらく間を置いて、思い付いた初めの言葉だけを声にした。つまり、
「勿論、食べる」
それだけだ。
するとサスケは「ああ、そう」と呟いて、休めていたコンロに火を点けた。それからその上の古い鍋の蓋を取り開け、入れっぱなしのおたまでぐるり底を浚うようにかき混ぜる。
「味噌汁と卵でいいだろ」
「それはかまわないが」
「が、なんだよ」
お前が作るのか。そう言ってしまえば、また無用な誤解を生んでしまう。と、イタチは思う。どうもこの弟とのやり取りには昔から互いに語弊があるのだ。故、適当に思いついたことを言うことにした。
「いや、漬物が見当たらないなと思っただけだ」
しかし半分は本当で、母が漬けている胡瓜や茄子のそれが食卓にない。もう片付けられてしまったのだろうか。
一方サスケは一気に興味を失ってしまったようだった。嘆息をして冷蔵庫から卵をひとつ取り出す。それを洗ったばかりの茶碗、サスケのものだが、それに割って食卓の上にある砂糖や醤油を目分量でてきぱきと入れていく。そうしてやはりサスケ自身の箸で碗の卵を溶きながら、顎で冷蔵庫を示した。
「とっくに片した。自分でそれくらい取れ。あと飯もな」
「…なんだ。してくれないのか」
「それがしてもらうような態度か?」
多分このまま何も言わなければ、この弟は舌打ちをしながらでも漬物を並べ、ご飯も茶碗に盛ってくれるのだろう。ああだこうだとどれほど言っても、彼は世話焼きで、見て見ぬ振りなどは出来ない、真っ直ぐに伸びていく若木なのだ。
卵焼き用のフライパンを温め油を敷き卵を流し込む音を聞きながら、イタチは腰を上げた。冷蔵庫から漬物を出して並べ、戸棚の茶碗を片手に炊飯器を開く。任務前だ。少量を盛る。
すると隣のサスケが、
「なあ」
と、何気無しにイタチを呼んだ。
「アンタさ、今日、誕生日だろ」
フライパンから湯気が上がる。彼は既に数度巻いた卵の下に更に碗に残しておいたもう半分も流し入れた。それから箸で器用にくるりくるりと半熟の卵を巻いていく。元々凝り性のところのある弟は、何をやらせてもきちんと及第点かそれ以上を取ってくる。料理家事一連のこともそうなのだろう。
今日、誕生日だろ。
イタチはサスケの言葉を肯定した。
「そうだが?」
促すように言ったのは、まだ何か続きがある風だったからだ。
それその通り、サスケは数拍を置いて、この間に焼き上がった卵を皿に移し変え、イタチが座したところでまた口を開いた。
「…父さんが、昨日か一昨日にそう言っていた」
卵焼きの皿が食卓に置かれる。温め直された味噌汁もよそわれ、出される。ほらよ、と麦茶を注いだガラスコップは手渡しに渡された。
「洗い物は自分でしてくれ」
サスケはそれだけ言うと流しから離れた。
イタチにはそれがどうも引っ掛かる。先程の話はもう本当に仕舞いなのだろうか。誕生日だからと言って何をするわけでもして欲しいわけでもないが、それよりもいやに歯切れの悪かった弟が気に掛かる。
『父さんが』『言っていた』
日頃から会話の少ない父と兄を慮り気を利かせたのだろうか。それとも割り込んで勝手に気を利かせて良いものかと迷ったのだろうか。
「サスケ、」
「おれはもう寝る」
明日まで休みなのだと、まるでイタチを遮るように言ってサスケは早足に台所の戸の方へと足を向けた。
深く腹を探るのはよくないな、とイタチは判じた。それに深刻な様子でもない。もしもそうであるならば、眸を見れば分かるはずだ。
しかし、それはどうあれもう名を呼んで呼び止めてしまっている。そこでイタチは代わりの話題を探した。
「…ああ、そうだ。お前のベッド、今行っても何もないぞ」
母がマットから何から全てを引っぺがして干してしまっている。取り入れるのは少なくとも父が帰って来る昼の前後になるだろう。
そう教えてやると、サスケはまともに顔を歪めた。足を止める。やはり知らなかったようだ。だが母に向かって文句を言うような年頃を過ぎた彼は、むっつりとはしながらも、早々に現況を致し方無く呑み込んだ。
「…座敷の座布団で寝る」
父の不在時には、特に夏場はよく風が通るからとそこで昼寝をすることの多いサスケだが、
「ああ、あそこな、母さんが掃除をするって張り切っていた」
イタチの言葉に眉尻を下げ肩を落とした。
その仕草がいとけない。
悪いとは思いながらも、ついつい追い討ちを掛けてしまう。
「あと庭の草が随分と伸びていたからな、気を付けろよ。お前、明日まで休みなんだろう」
涼しくなる夕方には草取りが待っているかもしれないぞと脅してみる。
すると、さすがに意地の悪いことばかりを言ったせいか半眼で睨まれた。
「兄さんはどうなんだ?」
「おれか?おれは少なくとも日が沈んでからだな、帰るのは」
「わざと、じゃないだろうな」
「まさか」
ばかばかしい。そんなことある筈がない。
それは勿論サスケも元より承知している。承知の上での軽口だ。
イタチもまたそれを分かっている。
「もういいよ、サスケ」
イタチはサスケを呼ぶのとは反対に手を振った。
「引き留めて悪かった」
もうおれの相手をしなくともいいから早く寝ろと促してやる。
するとサスケはふんと鼻を鳴らして台所の戸を潜った。それを彼の作った卵焼きを口に入れながら見送る。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ。…任務、気を付けて」
その後、暫くもしない内に階段を上がる微かな音が聞こえてきた。二階の自室へ上がったのだろう。本来、忍は木の上でだって眠れる。床に転がるくらいなんということもない。折角の休みであるのに、ということだけが気の毒だ。
漬物をぱりぽりと鳴らす。茶碗の白飯を頬張る。
「……」
思い出した。あの肩を落とす姿は、幼い頃アカデミーから帰って来る兄を今か今かと待ち構え、漸く帰って来たその兄にさあさあ遊ぼうと強請って胸を膨らませていたところを、ちょうど通り掛かった母から「兄さんには宿題があるんですからね」と咎められしょぼくれていた、あれだ。あれと同じだ。
「通りで…」
独りごちる。
少し長話をしてしまったようだ。味噌汁の碗に口を付けると、それは既にもう冷め始めていた。
イタチが集落に戻ったのは、あと数時間で日付も変わるという頃だった。
里の端に寄せられ囲われた集落の夜は早い。通りの家々に灯りはあるが、何処も息を潜めたようにひっそりとしている。
道を往きつつ、途中小径を折れる。幅が狭まる。通りにあるような小さな商店は姿を消し、やがて代わりに古い大きな家々が連なり始める。
脇の電灯は更にぽつりぽつりとなった。それらがじわじわと微かに白く鳴いている。古い蛍光灯だ。まだ虫の集まるような時分ではないが、真夏になれば灯りを求めて飛ぶ様々な虫たちの羽音が重なって聞こえるようになるのだろう。
その電灯をちらりと見上げ、目を前へ戻すと、道の先に一人の人影を認めた。足を止める。
彼方も此方に気付いているようだったが、それには構わず此方へとやって来る。
「父さん…」
父は里の忍装束を纏っていた。だが、額宛はない。これから警務へ行くのだろう。ここ暫くは深夜早朝番が続いている。
「今、帰りか」
「ああ」
脇へ一歩下がる。だが、父は行き過ぎることなくイタチに肩を並べるようにして立ち止まった。背の高さはもう随分前から同じほどになった。
「遅かったな」
どうも不可解なことを言う、とイタチは思った。早く帰るとは言っていないし、責められるような時刻でもない。父の口調に非難の色合いはなかったけれど。
いったい何だというのだろう。そうは思うが、しかし、イタチはこのまま黙って流してしまうことにした。
父も特段何かをイタチに望んだ様子はない。「じゃあな」とだけ言って隣を過ぎる。振り返ると、父の背は道の角を曲がるところだった。
『…任務、気を付けて』
朝のやり取りが思い出される。サスケなら何か声を掛けただろうか。言葉を探すが、見当たらない。
結局イタチは父の背が見えなくなるまで見送り、家の方へと踵を返した。
「ただいま」
戸を引くと奥から顔を出すのは決まって母だった。サスケが二階から転げるようにして出迎えてくれたのはもう十年も昔の話だ。靴を脱ぎ、揃えて上がる。
「先にお風呂に入っちゃって頂戴」
と母に勧められるまままずは風呂に入り、その後いつものように台所へ顔を出すと、今夜は座敷に夕飯を支度してある、あそこは風をよく通すから、と告げられた。
座敷は、母の言う通り、障子戸も外の戸も昼間のように放たれたままだった。時折、月明かりの差した庭から吹き抜けていく夜風が風呂上がりの火照りを浚っていく。
座卓には既に夕飯が並べられていた。形の美しい鮎の塩焼き。幾つかの新鮮な旬菜の和え物。これからの季節に甘く膨らむ豆類の卵とじやおろし生姜が添えられた涼しげな佇まい豆腐。今朝も食べた胡瓜と那須の漬物もある。その上、白飯に味噌汁も母が盆に乗せて持って来るのだから、
『遅かったな』
父のあれはこれのことだったのかと得心する。早く帰れとは言えないところが、如何にも父らしい。
イタチは早速鮎を頬張った。この時期の鮎は味は勿論、丸ごと齧りつけば口内に広がる芳香までが極上に美味い。
しかし、一方で一皿ずつの量に首を傾げてしまう。一尾そのままの鮎の他は一口・二口あるかどうかの少量で、白飯に至っては茶碗に半分もない。折角の品数とこの手の込みようだ。それに大食漢というわけではないが、これだけでは明らかに足らない。腹が減る。
「あの、母さん」
すぐに平らげてしまった副菜の皿を母に差し出す。
だが、母は「だーめ」と笑った。
何故かと問えば更にふふと笑うばかり。理由を教えてはくれない。夕飯を平らげる間に聞き出せたのは、
「それがね、あの子ったら」
そのことくらいだった。
階段を上がる。その度にぎっぎっと板が軋む。その気になれば足音を消すことなど容易いが、わざわざ家でまでする気は起こらない。
「サスケ」
サスケの部屋の扉に呼び掛ける。ややあって「開いてるぜ」と返事があった。だがイタチが両手が塞がっている旨を伝えると、更に面倒だと言わんばかりの間を置いて、漸く扉が開いた。半分だけのその隙間がサスケの心情なのだろう。歓迎とまではいかないが、入れてやらなくもない。そんなところか。
「なに?」
怪訝そうに此方を見上げる眸に手にしたものをちょいと掲げて見せる。二本のフォークと二枚の皿、それに大きなケーキ箱がふたつ。
「……」
サスケは悟ったように扉をイタチのため開いた。
『それがね、あの子ったら』
母が笑ったわけは、促され冷蔵庫を開いてよく分かった。一段の横幅半分以上を占拠するようにケーキ屋の手提げ箱が、それも二箱、どっかりと居座っていたのだ。
「何か飲むもの、持って来る」
と言って出て行ったサスケを待つ間、イタチはベッドの近くに腰を下ろし、手提げの二箱も傍らに置いた。開くのは彼を待ってからにしようと当たり前のように思った。
手持ち無沙汰に部屋をぐるりと見渡す。きっと先程まで寝転んでいたのだろう皺の寄ったシーツのベッドとその上に広げられた巻物以外よく片付いた部屋だった。物持ちのいい兄のお下がりを貰うことの多かった弟は、別段そのことに文句を言うでなく、今もイタチにも見覚えがある種種のあれこれを使っているらしい。特に書棚に並んだ教本巻物の類いは、もう頭に入っているだろうに、まだ順序良く整列をしている。さすがに玩具などはざっと見たところ見当たらなかったが、それもイタチからのお下がりのものだ、捨てていない、いや捨てられないのだろう、きっと。
「きょろきょろすんな」
戻って来たサスケは、早速イタチにぴしりと言った。ぐいとガラスコップを押し付けられ、麦茶を注がれる。
「ケーキに麦茶…?」
「この上、甘ったるいものなんか飲めるか」
サスケはベッドの上を片付けると、そのベッドに凭れるようにして床に胡座をかいて座った。イタチからフォークを受け取り、兄が開くケーキ箱の中を不貞腐れたようにじっと見詰めている。
「お前が買って来てくれたんだってな」
イタチが箱を開くと、中には春や夏を思わせるような色とりどりのカットケーキが隙間なく詰まっていた。もう一箱もそう。甘いクリームの匂いと果実類の酸っぱさがふわりと部屋に膨らむ。
サスケは不機嫌な様を崩さなかった。或いは本当にこの甘い匂いが苦手なのかもしれない。
「草むしりをさせられそうになって逃げたついでだ」
ぼそぼそと言う。
イタチはそうかとだけ返して流した。真偽はさほど重要ではない。どちらでもいいのだ、そんなことは。
「それにしても、多いな」
一つとして同じもののないそれは、ぎっしりと十ずつ、今にも箱から溢れてしまいそうだった。父と母、兄と弟、家族は四人だけだというのに。
「…よく分からなかったから、棚のやつ全部って言って買って来たんだよ」
またぼそりと言う。だが、その様に反して随分豪気な買い方をして来たらしい。きっと仏頂面だったろうから、店員はさぞ驚いたことだろう。想像をしたイタチはくっくっと鳴りそうになる口許を手で隠す。
「好きなものを選んでいいぞ」
イタチは二箱ともサスケの前へ押した。だが、すぐに押し返される。
「アンタが先に選べ。アンタに買って来たんだぜ」
「そうか。分かった」
父はサスケと同様甘いものが得意ではないようだから、香りからして果実酒入りの苦味のあるチョコレートケーキは残しておこう。母には彼女が好んでよく食べているチーズの種類を幾つか。自身に拘りはあまりない。
イタチは箱の中から果実のスポンジクリームケーキを取り上げ、皿に移した。苺は当然のこと、キウイやパイナップルなど南方の酸い果実がスポンジやクリームをすっかり隠すほどに盛られている。それをサスケに「ほら」と渡した。
「これならお前も食べられるだろう」
「…おれ、アンタが先に選べって言わなかったか?」
「言ったな。だからおれが先に選んだだろう、お前に」
「そんなのは屁理屈だ」
「なんとでも言え。おれはこれにしよう」
イタチはもう一つの箱からクリームとカスタードの二重ロールケーキのカットを選んだ。サスケのとは違い、果実などはないが、とても甘くて美味い筈だ。それにこれを食べたら次は赤い苺がたっぷりのミルフィーユだと決めている。
フォークをロールケーキに通す。ふわりとした柔らかい弾力に蕩けるような雪と卵色のクリーム。それを一口頬張り掛け、
「兄さん」
サスケの呼びかけに中断する。見ればサスケは皿を手にしたまま、まだ一口も食べた様子はない。イタチは首を傾げた。
「なんだ?こっちがいいのか?交換するか?」
「いや、絶対要らない。そうじゃなくて、…あー、その、」
ええと…、の後は途切れる。間が空く。だがイタチは気長に待つことにした。弟は昔から口ごもることがよくあったから、こんなことには慣れている。それに今は幸い他にすることもある。
ロールケーキの一口めを頬張った。美味い。上品な甘さだ。
ただその様子をサスケが「あ…」と目を円くして見詰めていたことに気付き、二口目を止して「どうした?」とまた訊ねる。
しかしサスケは応えなかった。ぶすりとフォークを苺に突き立てる。それから、
「べつに」
とだけ言って、後はまるで作業のように黙々とキウイ、パイナップル、桃と口の中に放り込んでいった。どうやら黙りを決め込むらしい。
ならば無理に聞き出すこともないだろう。そう思ったイタチもサスケに倣いロールケーキを黙々と口に運ぶ。
その途中、サスケの皿が目に留まった。
「サスケ」
「なんだよ」
「スポンジのところ、食べてやろうか?」
早々に果実類を平らげたサスケの皿には、まだ半分ほどスポンジクリームが残っていた。フォークを口に運ぶペースは格段に落ちている。やはり甘いものは苦手らしい。
サスケは嫌な予感に駆られたのか急ぎ皿を引っ込めた。
「はあ?自分で食べる」
「そう言うな、味見くらいしてもいいだろう」
言うが早いかイタチは強引に残りの更に半分を奪って食べてやった。スポンジもクリームもたっぷりの果汁の為か甘酸っぱい。
「おい、兄さん」
残されたスポンジクリームの欠片を一口に食べたサスケは、横暴な兄を睨んだ。非難の声を上げる。
「おれの、なんだけど。勝手に食うなよ」
「お前、おれに買って来たと言わなかったか?」
「…言った」
「じゃあ、お前のではない。おれのだ」
「アンタは屁理屈ばっかりだ」
サスケはコップに麦茶を注ぐと、それを一気に呷った。もう一つ食べるかと訊くが、もういらないとベッドに上って倒れ伏す。そうしてそのまま動かなくなった。
イタチはロールケーキの最後の一口を味わいながら、「おい、サスケ」と弟に呼び掛けた。
「寝るなら歯を磨いてからにしろよ」
「…寝るかよ」
サスケはそう言ったようだったが、枕に顔を埋めているので、如何せん不明瞭だ。そのくせそのまま続ける。
「なあ兄さん」
「うん?」
イタチはミルフィーユを空いた皿に上げた。そっとフォークの背で横に倒す。今にもさくさくと音を鳴らし始めそうな繊細な層が幾重にも重なっている。
「その…」
「うん」
「今日、誕生日だろ」
「ああ、そうだな」
「おめでと」
思わず、フォークを止めてベッドを見た。
サスケは相変わらず突っ伏したまま、身動ぎひとつしない。
ふと思い当たる。
「…それ、朝も言っていなかったか?」
「今日、誕生日だろ。としか言ってない」
また不明瞭のそれ。
たが、漸く合点がいった。
要は一度失った機を今日一日ずっと窺っていたのだ、この弟は。サスケは。
朝の歯切れの悪さもきっとそう。あの時にさらりと言ってしまえば良かったものを、平生のそっけのなさが災いし、言う一瞬に照れた。それがいけなかった。おかげで生来生真面目なところのある彼は、こんな時間までずるずると引き摺っている。
『父さんが』『言っていた』
『遅かったな』
『それがね、あの子ったら』
そうか、そういうことでもあるのか。イタチはついに辛抱堪らず笑った。
「お前、おれに照れてどうする」
「…うるせー」
サスケはやっぱりまだちっとも動かない。
イタチはサスケが「これを全部」と言って買って来てくれたミルフィーユを頬張りながら、弟の機嫌が直るまでこれは今夜は根比べだなと暢気に思った。