03 電話をしてください/お題
そう早い朝とも言えない午前十時、夜通しの任務から戻ったサスケは台所に足を向けた。最早習慣のようなものだが、今朝は母の迎えがなかったため少し気に掛かったのもある。
「おかえり、サスケ」
台所を覗くと、やはり母の姿はなかった。代わりに兄が一人、任務に出る前なのだろう、いつもの場所に胡座をかいて広げた新聞に目を通している。父さんそっくりだ。そう口にしたら、きっとぽかりとやられるだろうから止めておく。なかなかに賢明だ。
「母さんは?」
サスケが訊ねると、イタチは頁を捲った。
「大叔父さんのところへ手伝いに行った。なんでも叔母さんが倒れたらしい」
「叔母さんが?大丈夫なのか?」
「ああ。心配する程のことでもないよ。母さんも夕方には戻る」
「…そうか」
サスケは棚からコップを取り上げ、流しで水を汲んだ。そのまま半分を一気に呷る。
一息吐くと、イタチが顔を上げた。じっと顔を見られ、戸惑う。
「なんだよ」
誤魔化すようにコップに二口目をつけた。だが、兄はそういうサスケの心情にはいつもあまり頓着をしてくれない。
「お前、熱があるだろう」
「……」
図星だ。見抜かれている。
別に嘘を吐くつもりはなかったが、だからといってこの歳になってわざわざ自ら申告するようなことでもあるまい。
「それか?」
しかしイタチはサスケの袖の下、隠れた左腕の包帯も目敏く見つけて指摘した。
それもその通り。サスケは観念して袖を少し捲った。
「任務中しくじった。浅い切り傷だが、刃に毒が塗られていた」
その場で応急処置はした。ここへ帰る前、医局へも立ち寄っている。医務科によると大事には至らないが、今日明日はさすがに不調になるらしい。本当は腹に何かを入れたいところだが、これから暫く嘔吐が続くと言われているため断念する。
「大事ないのか」
イタチに問われ、サスケは頷いた。
「ああ、平気だ。明後日から任務にも復帰するしな。だが、取り敢えず今日はもう寝る」
母がいるならば一言くらいは言っておいた方が過剰な心配もされずいいだろう。そう思ったのだが、いないのであればまた顔を合わせたときにでも言えばいい。いや、不在の方が気兼ねなく体調不良になれるというものだ。
「じゃあな、兄さん」
サスケはコップを流しに置いた。そのまま自室へ上がろうとする。だが、
「待て」
イタチがサスケを引き留めた。
「おれの部屋に布団を敷く」
そう言って腰を上げる兄を今度は多少慌ててサスケが引き留める。
「はあ?何言ってんだ。別に、」
「二階から何度も降りて来るのは面倒だろう」
どうやらイタチは嘔吐のことを言っているようだった。
確かにイタチの部屋は一階にある。かつてはサスケと同様に二階にあったのだが、任務が彼の生活の大半を占め出した頃から、書き物をするた為にと元は宛がわれていた階下の部屋に彼は寝起きの場も移してしまった。サスケは勿論のこと、両親の部屋からもやや離れているそこは、暗部の不規則な生活を送る兄にとっては都合が良かったのだろう。特に一時のサスケは真夜中の物音に酷く敏感だったから、もしかすればそういったサスケへの配慮もあったかもしれない。
そうだ。本来のイタチはそういう人なのだ。ただそれが良かれとあれこれと勝手に進めてしまうあまり、サスケの言い分を聞いてくれない強引さもある。他愛のない時にはこちらが照れて困惑するほど甘いくせに。
「ほら来い、サスケ」
兄は今もまたサスケに先立って台所を出て行ってしまった。
こうなれば追うしかなく、実のところ兄はこうすれば弟は追って来ると思っているのじゃないだろうか。どちらにせよ、より恨めしいのは勝手な兄ではなく、ついその背を追ってしまう自分自身だ。
「…分かったよ」
サスケは嘆息して兄の後を追った。
部屋着に着替えたサスケは畳敷の兄の部屋の真ん中、布団に横たわっていた。糊が利いた真白いシーツは熱を出した体に冷たく肌触りも心地好い。
時折、遠く人通りの音が聞こえた。
だが家はがらんとして静かだ。
部屋も今は障子を閉じているため薄暗い。
文机。硯箱。行灯。
少し離れてよく片付いた書棚と巻物棚。
けれど一方で、部屋の片隅に雑然と積み上げられた巻物書物の類いと乾かしかけの書き物の幾つか。巻物などはきっと納戸か蔵から持ち出して来てそのままなのだろう。
ずぼらをしているな、兄さん。サスケは小さく笑った。
ただ見られて困るようなものは置いていない筈だとも解る。そのようなところは昔から隙のない兄だ。
風通しの為とイタチが開けて行った丸窓の障子が鳴る。
目を向けると、丸窓のその向こう、庭の南天の枝に烏が留まって羽繕いをしていた。少々強い風が吹いたのだろう。
あれはイタチが置いて行った烏だ。
「何かあれば知らせろ」
今日は里にいる、と珍しくサスケに居所を教えてイタチは出掛けて行った。
寝返りを打つ。仰向けはいけない。うとうとと眠ってしまいでもしたら、吐瀉物が喉に詰まる。
そんなのは基本だ。
だが、イタチはサスケの体に布団を掛けながら様々に口煩く言ってきた。
曰く、水分を取り過ぎるな、吐いてしまうから我慢しろ、どうしても喉が乾くなら氷を作っておくからそれを口に入れるといい、布団は被りすぎるなよ、その場で吐きたくなれば枕元に桶を置いてある、それから、それから、と言えば言うほどそれが余計呼び水になるのか、いい加減最後はサスケが兄を追い出した。
「ああもう、うっせえな。解ったからさっさと任務に行けよ」
それで最後に兄が言ったのが、あの黒い烏だ。
もう一度寝返りを打つ。
烏は相変わらず毛繕いに余念がない。
『何かあれば』
何もある筈がない。発熱、嘔吐。頭痛と倦怠感。全く予定通りだ。
烏と目が合う。
先に逸らしたのはサスケの方。
不快感が胃と胸にせり上がり押し寄せた。来た。始まった。サスケは布団の中、体を弛くくの字に折った。
庭では兄の烏がきちきちと鳴いている。
ああ本当に予定通りだとサスケは思った。
知らせることなど何もない。
サスケが目を覚ますと、辺りはすっかり夜に呑まれていた。
しんとした家。
静寂の集落。
風がない。人気がない。猫もいない。
もしかすれば里の中程はまだ賑わっているのかもしれないが、その歓楽の音はこの集落を囲む高い壁に吸い込まれてしまっている。
サスケは寝起きの誰もがするように一度はうっすら開いた眸をまた閉じた。自身の体温で温もった布団の中、具合の良い体の向きを探して身動ぐ。寝起きは良い方だという自負はあるが、今夜は体がまだ眠りを欲していた。
だが、何度か瞬き閉じかけた瞼の下、ふと暗い天井に明るい処を見つけた。赤らんだ明かりは部屋の行灯に火が入れられているということだ。サスケではない。今の今まで眠っていたのだから。
であれば、この部屋の主、イタチだろう。いったいいつ戻って来たのか。
天井に伸びた灯りを辿ってサスケは寝返りを打った。視線を巡らせば、行灯の傍、文机の前に座して筆を取っているイタチの姿を見つける。
彼は衣擦れの音に気が付いたようだった。顔を上げる。
「起きたのか」
「…ああ。今は何時だ」
いつ如何なる時もこうしてすぐに取り巻く状況を確認したくなるのは体に染み付いた忍の性だろう。しかし昼間の数回に渡る嘔吐は随分と喉を傷め付けてくれたらしい。寝起きも手伝って巧く声が出せないでいると、
「もうすぐ日が変わる頃だ」
イタチは硯に筆を置いた。それからこちらに向き直って立ち上がる。
サスケもつられて体を起こそうとしたが、まだどうにも億劫で諦めた。寝転んだまま兄の素足の行方を目で追う。彼はサスケが横になる布団の傍を踏み通り、障子戸を開いた。からりと軽い音がやけに夜に響く。
「何処に行くんだ?」
訊ねてすぐにサスケはしくじったと後悔した。思考に靄が掛かっているようなせいか、するりと、だがあまりにくだらない言葉が口から漏れて出てしまった。
月明かりはない。部屋は暗いままだ。外の雨戸が閉まっているのだろう。そういえばあの烏を眺めた丸窓も今は閉められている。
彼はどうしただろうか。塒へ帰ったのだろうか。そのような考えがふと過る、その間に、
「白湯を持って来る。すぐ戻る」
イタチはそう言い置いて出て行ってしまった。
開け放しの障子戸は言葉通りすぐに戻るということだろう。気にかかるが、だが兄の場合、百の言葉よりもあの小さな戸の隙間の方が余程信ずるに足るような気がして、あえて非難はしなかった。
それにここは兄の部屋だ。今寝ているのも兄の布団だ。立場は弁えている。サスケが口を出すことじゃない。
それにしても、
「白湯…」
サスケは空っぽの腹をそろりと撫でた。
任務中に食らった毒は大分と抜けた。証拠にあれほど激しかった嘔吐も発熱も今は引いている。微熱はあるが、名残のようなものだ。それよりももうほぼ丸一日食を断っていることの方が厄介だった。端的に言うと、
「腹が空いた」
暫くして白湯を入れた茶碗を手に戻って来たイタチに訴える。
すると、いつものようにでこを指で弾かれ盛大に呆れられた。
「せめて明日、医局に行ってからにしろ」
と同時に布団の脇に腰を下ろした兄の眸が美しい月の弧のように円く柔らかくなる。
「もう良いようだな」
「ああ、平気だ」
「だが、今晩はこれだけにしておけよ」
差し出された茶碗を受け取るため体を起こす。
それで、気付いた。着ているものが、眠る前と違う。布団に入る前は襟の大きく開いた部屋着を着ていたのに、今は木綿の寝巻きを身に付けている。何度か吐きに起きたが着替えた覚えはない。
思わず前の合わせを引っ張り見た。この色は知っている。兄の浴衣だ。生地が柔らかくなったから寝巻きに下ろしたのだろう。
「…兄さん、これ」
合わせを掴んだまま兄を見上げる。だが、彼はまずは飲めと茶碗を押し付けてきた。
「……」
喉が渇いて痛むのは本当だ。受け取って一口含む。美味い。胃酸で荒れた喉に白湯の温みが染み入り、発熱で肌が火照るのではなく、体の中、腹と胸がふっくらと温まる。深い安堵の息を吐いたところでイタチは口を開いた。
「お前、覚えていないのか?」
イタチによれば、夜七時頃に家へ帰ると母からサスケが酷い熱を出していると聞いたという。嘔吐は一旦夕方過ぎで収まったらしいが、今度は高熱を出したまま昏々と眠って起きない。勿論両親共に忍だ。それくらいで取り乱すようなことはない。が、それでも我が息子が目の前で大汗を掻いて眠っていては心配もする。
「お前、相当酷い熱だったんだぞ」
「だろうな、そうなると医局でも言われた」
「父さんも何度か様子を見に来ていたくらいだ」
「父さんが…」
サスケは兄の話を聞きながら干した茶碗の底を眺めた。父まで来ていたとは気が付かなかった。
無様な姿を晒してしまった。
そう思うと同時に、白湯を飲んだ時のような温みがじんわりと胸を撫でていく。
「それで、お前があんまりにも汗を掻いていたから、これでは風邪を引くんじゃないかってことになって、着替えさせたんだよ」
イタチは空になった茶碗をサスケの手から取り上げた。
そうしてそのまま文机の前に戻って、置いた茶碗の代わりに筆を取り上げる。まだ書き物の最中だったようで、長話をする間に乾いてしまっただろう筆先を硯の海で濡らす。
他方、サスケは呻いた。こんなことなら医者に言われた通りあのまま医局で一晩を過ごせばよかった。
「…覚えていない」
「そうか。だが、お前は自分から着替えていたよ」
「…本当か?」
「ああ。袖を抜く時なんかは、おれが言えば腕を上げたり、」
「やっぱり覚えてねえよ」
多分、朦朧としていたのだ。記憶がない。あったとしたら、こうしてまともに話してはいられない。
だが、汗を大量に掻いたという割には不快ではなかった。着替えのため脱がした時、兄がついでに体も拭いてくれたのだろう。
記憶になくて良かった。心底に思う。
「シーツは明日の朝に変えような」
「…ああ。つか、自分でするからいい」
「なんだ、遠慮しなくていいんだぞ」
「そういうんじゃない。…なあおい。兄さんはまだ寝ないのか?」
不都合なことをこれ以上喋られるのは御免だ。そう思い、話題を逸らす。それにもう夜も深い。
だが訊ねておきながら、そういえば兄は何処で寝るのだろうとサスケは小首を傾げた。もう一組布団があるのか、それとも上に残してあるというよりは片付けるのをわざと忘れている部屋へ行くのか。まさか同衾はないだろう。二十一と十六だ。もう子供ではない。大体二人も入らない。いや、詰めたら入るだろうが、そういう問題ではないような気がする。
だが、それらは全て杞憂のことだった。兄に筆を置く気配はない。さらりさらりと走らせている。
「もう少し、これをきりのいいところまで書いたらな。お前は先に寝ておけ」
「アンタ、さっきから何を熱心に書いているんだ?」
サスケは布団に体を横たえながら訊ねた。
こんな時間まで書き物をする兄には申し訳なかったが、熱と嘔吐で思う以上に体力が削られている。休める時には休んでおかねばならない。明後日にはまた国外での任務だ。
「これさ」
兄は一巻き、巻物を放って寄越した。
受け取り、腹這いになって枕元の畳に開く。行灯の僅かに揺れる火に目を凝らせば、それは教本だった。それも至極初歩的な。多分、アカデミー生用のものだろう。
サスケは顔を上げた。兄を振り仰ぐ。
「なんで兄さんが…」
暗部の領分ではないだろうに。
だが、兄はそういうことを苦にしたところがない。
「頼まれたからだ。勿論全ておれ一人でというわけじゃない。今は幻術の基礎をまとめている」
「…ふうん」
サスケは広げたそれを巻き直して傍らに置いた。本来ならば元の処に戻すべきなのだろうが、兄が何処から出してきたのか見ていなかったのでどうしようもない。ただやたらに積んだあの巻物書物の類の一角なのだろうとは察せられる。
いつか崩れるぞ、あれ。
サスケは枕に片頬を埋めた。
それから部屋を何とはなしに見渡す。
「……」
行灯の明かり。
墨の香り。
兄の背。
体は少し怠い。
紙に筆が馴染む音だけがする。その他は何もない。
居心地の良い、寂しい夜だった。
「兄さん」
サスケは呼び掛けた。
けれど、イタチは構わず書き物を続けている。いらえも「…うん?」という気のないものだ。
だが、それでいい。それがいい。なに、大したことじゃない。本当に。
「烏…」
「烏?」
「あの烏は兄さんの処へ行ったか?」
南天の木に止まっていたあの烏。何かあれば知らせろと兄が置いて行ったそれは、一体何処へ行ってしまったのだろう。思い返しても記憶に姿が見えない。
イタチは手を止めサスケを見た。
「いいや、来ていない。使ったのか?」
訊ねられて首を振る。ぱさぱさと髪が枕を擦った。
「いや、使っていない」
何かあれば烏を使って知らせろと兄は言った。だが、サスケは使っていない。使っていない筈。なのだが、
「呼んだのかもしれないと思った」
視線が落ちる。
白いシーツ。白い枕。どれも兄のものだ。今夜は行灯の橙の灯りが染みている。
だが、昼間は薄暗かった。それに前の通りを行く人の声が聞こえるほど、家の中は静まり返っていた。物音がない。ただ途切れ途切れに里のざわめきはここへ届く。
広い部屋だ。
そう思った。そう思ったから、
「だから、おれはアンタを呼んだのかもしれないと、そう思った」
熱に浮かされる、その合間合間に。
ほんの小さな声で、兄の名を。
「呼んでなかったのなら、いい」
サスケは兄に背を向けた。頭まで布団を被り込む。
ただ兄がざっと文机を片し始めたのは解った。押し入れが開いて閉じる。
それから、こちらへ寄る足音。
忍としてどんな物音をも拾えるよう研ぎ澄ましてきた耳がただ今は恨めしい。
どうやらイタチはサスケの枕元から少し離れた処に行灯を置いたらしかった。
兄も眠るのだろうか。だが、何処で?
振り返ってみたくて、でも出来ない。布団の中で息を潜める。後ろめたい、悪いことをしているわけじゃあないのに。
「サスケ」
兄が後ろの畳に寝転ぶ気配があった。
衣擦れの音がして、振り返れないサスケに掛かった掛け布団が肩の辺りまでずらされる。
「潜り込むなと言わなかったか?」
「言った」
確かに暑い。布団の上に腕を出す。
「…教本はもういいのか」
「ああ、急ぎじゃない」
「そうか」
ふと、ゆるり心がとける。
だが、それをきゅっと掴むように俄かにサスケの指先に触れるものがあった。
「あ…」
イタチの長い指。
驚いて思わず引っ込めそうになる手を引き留めるようにして強く握られる。少し痛かった。
「兄さん…?」
「呼んでいいんだぞ、サスケ」
兄はぽつりとそう言った。
そのまま力が緩まる。声も緩まる。
「辛くなったら、おれを呼んでくれて構わないから」
「…うん」
傍に行くから。傍にいるから。必ず目を覚ますから。
そうしてそれはイタチだけではなくて、サスケも、きっとお互いに。
「兄さん」
サスケは兄をそっと呼んだ。
二人はもう十六と二十一で、けれどまだ十六と二十一だ。向かい合って抱き合うほど子供ではないが、繋いだ手を切ってしまえるほど大人でもない。
だからまだ小さく指を折って結んでおく。遠く離れてしまわないように。
「なあ兄さん。あの烏は、」
「ああ、あの烏なら、」
森の塒へ帰り、今頃は誰かと羽を寄せ合い眠っている頃だろうとイタチは教えてくれた。
お題配布元:ロメア様