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  05 束の間の雨宿り  


 長く続いた大雨は今日この日を待っていたかのように終わった。
 指を折々日を数えていたサスケはさぞかし喜んでいることだろう。今日はサスケが父に連れられ、空区の猫バアの店へ行く日だ。まだ峠の向こうに朝日が昇り始めた頃だというのに、早起きをした足音がイタチの部屋の前を通り過ぎ階段を軽快に駆け降りていく。
 朝だった。家の中がゆっくりと、集落の内が粛々と、里の隅から隅までがざわりざわりと、それぞれにそれぞれの朝を営み始めている。
 けれど、明け方帰ったばかりのイタチはそんな小波が耳障りで、夏の薄布団を頭から被った。耳を塞ぐ。
 それでも振り払えない寝苦しさに寝返りを打ったのと扉をノックされたのはほぼ同時だった。
 「兄さん」と弟の声で呼ばれ、遠慮がちに半分ほど戸が開く。
 顔を覗かせたサスケは、ただそこからそれ以上は踏み入っては来なかった。敷居の上に縫い止められたまま、イタチの許しを得るまでは彼はあそこから下がることは出来ても部屋の中へは入って来られない。
 おれのせいなのだろうな、とイタチは思う。
 十二で暗部に上がって以来、イタチは少しずつ一族や家族といったものと距離を置き始めている。
 それを幼いながらも弟は何処かで気が付いているのだろう。大人ばかりの中で育った彼は元より人の機微に聡かった。この頃では過敏なほどだ。
 サスケはイタチが下がった歩数歩幅の分だけ、測ったかのようにそろりと後ろへ下がって距離を取る。
 どうしてそうしなければならないのか。そんなことは分からずに。
「…どうした」
 イタチはサスケに背を向けたまま訊ねた。今起きた風を装う。
 サスケはその点については何も言及はしなかった。たとえ気が付いていたとしても、イタチが装った通りに従うだろう。彼は賢くて、心根がとてもやさしい。
「朝ごはんだって」
 どうやらサスケは母に呼びに遣らされたようだった。父と弟が空区まで出掛けるためか、今朝は随分と朝食が早い。
 もう何度もあそこへはサスケを連れて家の遣いで行ったことがあるが、往復をするとなれば子どもの足だ、たっぷり一日は掛かるに違いない。二人が戻るのは夜も更けてからになるだろう。
 イタチは布団の中へ潜り込んだ。
「おれはさっき帰って来たばかりなんだ」
 暗にもう行けと言う。
 サスケもその意図は分かったはずだ。いつもなら少ししょげたようにして扉を閉め、それで終わる。
 だが今朝はそうはならなかった。サスケが引かなかった。「あのさ」と少々言い淀みながらも先を続けようとする。
「兄さん、今日は休みなんだろう」
 それに等閑に「ああ、そうだな」と答えると、
「兄さんは行かないの?」
 と問われた。

 兄さんは行かないの?
 父さんと一緒に、おれと一緒に、兄さんは行かないの?

「…サスケ、おれはさっき何て言った?」
 イタチはわざと語調を低めた。
 それでサスケが分からないはずがなかった。
 いや、初めから兄の答えをある程度分かっていて、それでも僅かな期待で訊いてきたのだろう。この弟は。
「帰って来たばかりだって…」
 サスケはいつものようにしょげた。俯く。
 けれど、イタチは知らん顔をした。
「お前、父さんと行くんだろ」
「うん…」
「二人で行けばいい」
「…うん、分かった」
 家族には立ち入らない。
 イタチはそう決めている。もう決めている。
 父とサスケ、母とサスケ、両親とサスケ。その間には決して立ち入らない。
 それは父を、母を、弟を、今この時にも裏切っているからではなかった。良心の呵責に耐えきれず潰れてしまうようであれば、もう疾うの昔にそうなっている。
 ただ遺してやりたいものがある。
 彼に、弟に、サスケに、遺してやりたいものがある。
 ぎぎっと扉が閉まる。
 最後に「ごめん」と小さく聞こえたような気もしたが、それを訊き返すことは出来ない。サスケの足音は既に遠ざかってしまっていた。

 兄さんは行かないの?

 イタチは被った布団はそのままにサスケの問いを繰り返す。
 兄さんは行かないの?
 眸を閉じる。一切が闇になる。その中で、
「行かないよ」
 と漸く答えた。
 おれは行かない。行けない。
 もうじきあの弟はひとりぼっちになる。
 いや、なるのではない。イタチがそうするのだ。
 だから、行かない。行けない。
 だから、せめて遺してやりたい。
 ひとりぼっちになる彼に尊敬できる父を、やさしい母を、木の葉の誇り高いうちは一族を遺してやりたい。
 幸福の思い出は、たとえ真っ暗闇の中でもサスケを導く星になるだろう。
 そうしてそこにイタチは要らないのだ。
 もうすぐイタチは一族の、そして里の背信者になる。



 その後、父とサスケが出掛けた頃を見計らいイタチが階下へ降りると、朝食を用意する母が昨日のサスケのことを話してくれた。
 今日に限らず彼女はよくサスケのことやサスケのことを話す父のことをイタチに語って聞かせてくれた。
 イタチは昔からその話をうんうんと頷きながら聞くのが好きだった。
「あの子ったらね、ふふ」
 母が話してくれるサスケのことは、いつもいつも本当に他愛もないことばかりだ。
 たとえば昨日はアカデミーから飛んで帰ってきたこと。
 空の様子を何度も何度も庭に出て見上げていたこと。
 ポーチの中身をひっくり返して出してはまた詰めるを三度も繰り返していたこと。
 父を待ってなかなか眠れなかったこと。
 帰って来た父に早く寝なさいと叱られてしまったこと。
「兄さんは明日どうするんだろう」
 と頻りに母に訊ねていたこと。
 イタチはそのひとつひとつを食事をしながら「うん、うん」と頷いて聞く。
 そうしてその話も一段落し途切れ掛けた頃、
「ねえイタチ」
 と母はイタチの向かいで言った。
 そっと見つめられる。
「あの子ね」
「うん」
「あの人と出掛けることをとてもはしゃいでいたけれど」
「うん」
「本当は兄さん、あなたとも行きたかったのよ」
 ねえイタチ。
 私たちから離れていかなくてもいいのよ。
 きっと母はそう言ってくれているのだろう。イタチは頷いた。
 「うん」と答える。
 嘘だった。



「イタチ、いくつになった」
 そう三代目火影が問うてきたのは、イタチが十三の誕生日を迎え一か月が経った、ちょうど梅雨の終わりが始まる頃のことだった。
「十三か」
 ヒルゼンの呟きに背を押されるように色褪せた紫陽花の葉の上を透明の露が滑る。
 晴れていた。だが曇ってもいた。よくある天気だ。風はない。
「責任がますます重くなるな」
 暗部分隊長への昇格。その話だった。



 ふと気配が生まれる。
 イタチは瞑想を解いた。ただその様、形だけは残しておく。
 父とサスケが帰って来たらしい。俄かに家の中が騒がしくなる。
 正確な時刻は分かり兼ねたが、思っていたよりもずっと早い。イタチが座禅を組む離れの道場、その格子窓から月明かりが差し込み始めてまだいくらも経ってはいない。
 ここではよくサスケにせがまれて組み手に付き合ってやったものだ。片手で相手をするなと何度も腹を立てられた。
 そのサスケが今朝のことにも懲りず道場の扉を開いて顔を出す。
「兄さん」
 ひっそりと呼ばれ、眸を開く。
 真正面のサスケは、だがやはり中へは入っては来なかった。落ち着かない風にぱたぱたと瞬きを繰り返している。此方の出方を窺っているのだろう。
 家族には立ち入らない。
 だが、同時にイタチは兄としてこの弟をそれはそれは手酷く裏切ってやらねばならない。
 反転、逆流、逆さ回しの裏返し。
 イタチへの思慕が深ければ深いほど強く大きく膨れ上がる憎悪は、どんな時にも彼を殺さず生かすだろう。イタチが望んだ通りに。
「サスケ」
 と呼ぶ。
 はっとした様の彼をいつものように更に手招いた。
「かまわないさ、入って来い」
 イタチの言葉に誘われるようにして彼の竦んでいた足がぺたりと一歩を踏み出す。とたとたと裸の足が道場の古い板を鳴らした。
 サスケは後ろ手に何かを隠しているようだったが、敢えてそのことは言わなかった。目の前に立った彼を自然イタチが見上げる形になる。
「おかえり」
 すると、サスケは少しくすぐったげに「ただいま」と言った。
「…ねえ兄さん。何してるの」
 言外におれはここにいてもいい?と問われる。
 イタチは胡坐を崩した。片膝を立てる。
「瞑想。…チャクラを練る修行だ」
 サスケはふぅんと頷いた。
「兄さんくらいになってもそんな修行をするんだ」
「そんなことを言っているようじゃ、強くなれないぞ。お前はすぐに難しいことばかりをしたがる」
「…分かってるよ。兄さんはすぐに説教ばかりしたがる」
 膨らむサスケの頬にイタチは笑った。悪かったよ、と素直に謝る。
「それで?おれに何か用があったんじゃないのか?」
 きっと背に隠したちらちらと揺れるものがその正体なのだろうけれど。
 促すと、サスケはその通り、気を取り直したように後ろ手のものをイタチの前に差し出した。
「これ、兄さんに」
 買ってきたんだ、と言うそれは夏の縁日に出る夜店の綿菓子だった。
 だがイタチは首を傾げる。
「お前、猫バアのところへ行ったんじゃなかったのか」
「行って来たよ。その帰りに縁日がやってたからさ、ちょっとだけ寄ってこれを買ってきたんだ。兄さん、甘いの好きだろ。だから、これ」
 半ばぐいと押し付けられ、受け取る。
 被せられていたビニルの袋を取り去ると、胸の前にほのかに桃色掛かった雲のような綿菓子がふわりと浮いた。
 そういえばアカデミーの頃にサスケを連れて縁日へ行ったこともある。懐かしくて一欠片を千切って食べた。甘い。とても甘い。
「お前も要るか?」
 そうサスケに勧めるが、彼は要らないと首を振った。
 そうだろう。知っている。
 綿菓子、ラムネ、リンゴ飴。サスケは子どもが好むような甘いものを喜んで食べてくれなかったから、縁日では実に悩まされ手を焼いた。
 また一摘まみ千切って食べる。
「それにしても随分と早かったな。もっと遅くなるものだとばかり思っていた」
 とは、猫バアのところのことだ。
 実際以前イタチがサスケを連れて行ったときには縁日など終わってしまうくらいの時刻に漸く里へ戻れたのに、今夜はそのうえ寄り道までして来たと言う。
 サスケは少し口籠って、それからぽつりと言った。
「…兄さんはさ」
 その折、どん、どん、と里の遠くで花火が上がった。
 縁日の花火だろう。ここからでは色も形も見えないが、空が明るく光って白む。
 それに途切れたサスケは、数拍を置いてもう一度口を開いた。
「たくさん休憩を取るから。だから。兄さん。おれは兄さんが思っている以上に速く走れるんだ」
 じっと見つめる。
 空に花火が開く度、サスケの眸にビー玉のような星々が零れて散らばる。
 そうか、と思った。すとんと腑に落ちる。
「…そうか。さすが父さんだな」
 それにサスケのいらえはなかった。きっと彼は頷いていいのか首を振るべきなのか分からないのだろう。
 どん、どん、と花火が上がる。
 夜空が明滅を繰り返す。
 イタチの目の前には弟のサスケがいた。
「サスケ」
 イタチは弟の手を腕を体を引き寄せた。
 からん、と床に桃色の綿菓子が落ちる。
 イタチの両腕の中におさまったサスケは「あ…」と驚いたように声を上げた。兄さん、綿菓子が。と言う。
 イタチはうんと頷いた。うん、うん、と頷いた。
「まだ甘かったのにな」
 床に転がった綿菓子はまだ半分も残っている。
 けれど、それを拾い上げるための両手は今サスケを抱いている。
 どちらもは持てない。
「せっかくお前がおれにくれたものなのに」

 ごめんな。

 ぎゅう、と腕の内を狭める。抱きしめる。
 温かい。弟の音がする。においもする。それはこの家のにおいだ。鼻先をサスケの首許に押し当てる。
「兄さん…?」
 戸惑ったようなサスケの声にやさしく耳を擽られ、思わず口許が緩んだ。
「…重くなったな、サスケ」
 無茶な修行をして足を挫いた彼を負ぶったことはあるが、こうして幼子を抱き上げるように膝の上に乗せたのはいつ以来だろうか。
 重くなった。本当に重くなった。
 イタチはそっと腕の中に語りかけた。
「昔はよくお前と出掛けたんだ」
 サスケは大人しくイタチの膝に腰を下ろした。眸だけが此方を見上げている。
「猫バアのところ?」
「ああ。そうだな。だがそれだけじゃない。お前は覚えていないだろうけれど、もっともっと小さなお前を連れて、いろんなところへたくさんたくさん行ったんだ」
 思い出すのは雨上がりのうちはの小径。水溜りの道。
 青いうみを流れていった星の尾っぽのような雲。
 まだ本当に小さかったサスケは、円い大きな眸でその流れ星をいつまでも見つめていた。
 なあサスケ。
 と腕の中の弟にイタチは思う。
 なあサスケ。
 お前の眸に映る父は美しいか。母は美しいか。一族は、里は、美しいか。
 おれはお前に美しいものを上手に遺せているだろうか。
 どん、どん、どん、と夜空に花火が続け様に昇っていく。
 もうじき祭りも終わる。
 同じように、もうすぐサスケの夢も終わる。
 そうして彼は萎んでしまった翌朝の綿菓子のような、夜空に上った最後の花火のその後に漂う白煙のような、そんな夢の残骸を見るだろう。
 誰でもない、イタチが見せるのだ。
「花火、見に行くか?」
 イタチは腕の中の弟に問うた。
 けれど、サスケは「ううん」と首を振った。
「ここでいい」

 ここがいい。

 サスケの眸に星が瞬く。
 イタチはサスケの眸に美しい星を見る。
 サスケがイタチの星だった。
 それは、とてもとても美しい星だった。

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