06 相合傘
※ 18才イタチ×13才サスケ
「今夜は星の降る夜なのに残念ね」
不意に胸に浮かんだ声に一人だったサスケはその眸を、これはもう癖で、左下へと落として遣った。
考えるときの癖だ。悪癖とまではいかないが、直さなければならないとも思っている。忍として思考を探られるのは致命的だ。
「今夜は星の降る夜なのに残念ね」
初めはその女性の声をアカデミーの誰かだろうかと考えた。だが、それにしては随分と落ち着いた様に、ああこれはいつか交わした母との会話だったことを思い出す。
サスケの行く火影棟の廊下の窓には、激しく雨が打ち付けていた。辿る雨粒があまりに多過ぎて外の、里の、様子を窺い知ることはできない。
そのためか里も廊下もぱたりと人が絶えていた。サスケが歩けばその足音だけが遠く先まで独りでに続く。
サスケは足を止め、外を見遣った。
薄曇りの硝子の向こう、暗い灰の空が重く深く里の頭上に垂れ込めている。これでは折角の夕陽も顔ひとつ出すことなく沈むだろう。
今夜は確かに星の降る夜だ。幾年かに一度の流星群の日だ。
夜になったら火影岩まで星を見に行こうとナルトやサクラは誘ってくれたが、けれど雨は夜半まで止むことはないとサスケは目を細め、遠くへ凝らす。空の具合、風の方角から先の天候を予測するなど基本だ。造作もない。アカデミーに入る前から修得していた。
今頃約束をした二人もきっと空を見上げ肩を落としていることだろう。
サスケはいい加減晴れない空に見切りを付け、再び歩を進めた。
やはり人っ子一人いやしない。
ここは滅多に、いや全くといってもいい、火影棟の中でも踏み入らない火影直轄部隊の使用区画だ。
そんな人の絶えた長い曲線の回廊をまだ下忍のサスケ歩いているのには訳があった。
昼過ぎ、任務をひとつ終えたサスケはナルトらと別れた後、所用でこの火影棟に立ち寄った。その用が雨が降り出してなお予定よりも長引き、結局は本降りとなってしまった今に至る。無論、任務帰りのため傘など持っているはずもない。
さてどうしたものか。
窓の外を見上げ、そう思案していたところ、三代目火影に声を掛けられた。傘がないのなら、一つ上の階、その奥にある長らく誰かが置いていってそのままの、その傘を持っていくといい、と。
初めは辞したが、どうも断りきれず、その上そういう気持ちも不思議なほど強くは起こらなかったため、三代目の言う傘を有難く拝借することとなった。
ついに回廊が果てる。突き当たりの扉は固く閉ざされていた。今は人の気配すらない。
ただその脇の簡素な鉄組みの傘立てに、あい色の傘がひとつ、ぽつねんと誰からも忘れ去られてしまったように残されていた。
手を伸ばし、手に取る。
「今夜は星の降る夜なのに残念ね」
今度ははっきりと母の声が胸の内に響いた。
「兄さんがいなくて残念ね」
呼吸がすくむ。
サスケは軽く首を振った。
そうすることで遠ざかる母の声も顔もあの頃と同じように温かく優しいものだった。だからこそ、言葉だけがひどく残酷だった。
見たところ、手にした傘は長らくと三代目が言うほどには綻びもなく埃もなく、その深いあいの色は美しい。何処か何か覚えがあるように思うのは、よくあるありふれた傘だからだろう。
火影棟を出、サスケはいよいよ強くなった雨足にあいの傘を開いた。
目深に被れば、もうそれ以外は何も見えなくなった。
玄関に揃えられた二足の靴に、警務から戻ったフガクは眉の間を険しくした。そのまま自身もまずは靴を脱ぐ。
そうしている間に、古い引き戸の開いた音に気が付いたのだろう、奥から妻のミコトが顔を出した。
「おかえりなさい」
「…イタチはまだ帰らないのか」
框へ上がり、振り返った玄関に長男の靴は見当たらない。
中忍に昇格して以降、木の葉の里は天賦の才とうちは由来の瞳力に恵まれたイタチを随分と重用している。いずれは火影直轄部隊からの召し出しもない話ではないとフガクは見ている。だが、それにしてもこのところは連日連夜に任務が及んでいるのではないだろうか。
そう案じるフガクとは対照的にミコトは明るかった。
「あの子ったらね」
と苦笑混じりに首を振り、「サスケを連れて出て行っちゃったのよ」と言う。
よく合点がいかず、いったいどういうことかと訊ねると、彼女は朗らかに微笑んだ。
「今夜は星の降る夜でしょう」
だから、流れ星がきらきらと流れたら消えてしまう前に三度お願いごとを唱えるのよ。
サスケのお願いごと叶うといいわね。
そんなミコトの他愛ないお伽話をまだ五歳の次男はすっかり信じたらしい。
彼は昼の間中、夜を今か今かと待っていた。この頃は遅く帰ってばかりの兄さんと星を見に行くんだとも張り切っていた。
けれどやっぱりサスケの兄さんは、サスケの眠る時間になっても帰って来ない。少々無理をして起きていてたけれど、いつまで経っても帰って来ない。
部屋の窓から流れ始めた星の空を見上げ、口許をむすりと結ぶサスケは、今夜は星の降る夜なのに残念ね、兄さんがいなくて残念ね、という母の慰めの言葉を大人しく聞き入れていた。
けれど、
「兄さん、ちゃんとお願いごとをしているかな」
眠る前、空に流れる星に呟いたサスケの最後の言葉は、たったそれだけの、たったそんなことだった。
「…サスケは、きっと連れて行ってあげたかったのね」
兄さんを。
イタチを。
あなたを。
願いが叶うという星の降る夜に。
「てっきりあの子がまたイタチに甘えて連れて行ってもらいたがっていると思っていたけれど」
そうサスケが眠った後、漸く帰って来たイタチに話したら、
「今度はイタチがサスケを連れて行くって聞かないの」
ミコトはフガクから警務のベストを受けとった。丁寧に今日一日の砂埃を取り払う。
イタチといえば、もう遅いからと宥める母の言うことは聞かず、ベッドですやすや眠る弟を起こして、寝惚けたままの小さな体に温かい上着を幾つも幾つも重ねて着せ、夜の外はもう冬だからと靴下まで三足四足と手ずから重ね、膨れに膨れて靴も入らなくなってしまった弟を背負い、出て行ってしまった。
「まったく、こんな遅くにか」
日付はもう変わろうとしている。フガクは声を潜めた。
ミコトは眉尻を下げる。
「ええ。ごめんなさい」
だがきっと彼女は最後の最後には二人を止めなかったのだろう。着膨れたサスケをゆきんこさんみたいねとつついて笑っても、イタチがどうしても行きたいと言うのなら行かせてやる、そういう母親だ。
「ねえ。あなた。サスケがイタチを連れて行ってあげたかったように、イタチもサスケを守ってあげたいのよ」
星に願う願いごと。
月に住まう跳ねうさぎ。かぐや姫。
夜には恐ろしいお化けが潜んでいて、山にも風にも釜戸にもやおよろずの神さまが宿っていらっしゃる。
「そんなおとぎ話のような、夢のような世界を、イタチは、あの子は、サスケが目を覚ますまで、守ってあげたいのよ」
大人が眠る子どもの時間。
そう長くはないその有限の時から、イタチは人よりずっと早くに目覚めてしまった。
だからこそイタチは、弟の子どもらしいあどけない世界がどんなに美しいか尊いか、知っているのだろう。
守りたいとも一人密かに心に決めもしたのだろう。
いつか失ってしまうものだと分かっているからこそ、余計に、今、この時だけは。
優しい子なのだ。フガクは思う。
イタチは優しい子なのだ。
「…飯にする」
フガクは廊下の板を鳴らした。後ろでミコトが首を傾げる。
「あら、いつもはお風呂が先なのに」
「もうすぐあいつらも帰って来るだろう。冷えているだろうから先に風呂に入れてやれ」
そう言うと、ミコトはふふと笑った。はい、あなた。と答える。
「すぐにお夕食の支度をしますね」
肩を打つ雨粒が次第に大きく強くなる。
風の向きからこの雲は火の国、木の葉の里の方から流れてきたものだろう。
身を寄せた木陰からイタチは空を見上げた。
分厚い雨雲が本来は赤く鮮烈な夕焼けの空までも閉ざしてしまっている。この分では今夜は月も、それから星も見えない。今夜は幾年かに一度の流星群の夜のはずだ。
「本格的に降ってきましたね」
隣の鬼鮫もまた空を見上げていた。だが、イタチは「ああ」とだけ気もなく返す。
すると鬼鮫はくくと笑った。なんだと問うと、肩を竦められる。
「冷酷なあなたも、どうやら思い出にはお優しい」
物思いの時だけ暁のうちはイタチではなくなる、と鬼鮫は言う。
「ですが、それでは時おり気が触れそうになりませんか」
過去に手を掛けたのはあなたでしょう。
と口にするような鬼鮫ではなかったが、明らかにそういう意図が見え隠れをしていた。
けれど、訊ねた彼もまた捨てられない何かを抱え、抱えたそれごと手を汚す矛盾の道を選び、歩む者だ。お前も同じなんじゃないのか、と思いはするが、無論それを言うようなイタチでもない。
「…狂気の沙汰の凶行だ、と言われている」
「もう狂っていると?」
それには「さあな」と肩を竦めた。
鬼鮫は笑った。何処か自嘲めいてもいた。
「私たちのような者はたいがいそう言われるものですよ。たとえ本当はそうでなくてもね。まあ、まともでいられるあなたは、だからこそ冷酷なのでしょう」
「…相変わらずよく喋るな、お前」
「あなたが喋らないからでしょう」
「……」
目を閉じる。
だが「ねえ、イタチさん」と呼ばれ、視線を遣ると、鬼鮫は言った。
「あなたは思い出に優しい。ですが、それとも本当は、あなたの心に残る思い出があなたに優しいのじゃありませんか」
ねえ、イタチさん。と。
今度こそイタチは答えなかった。
木陰を出る。頬を伝う雨の雲は深い秋の気配を連れていた。
だが、まだ行くべき道の半ばだ。歩を止めるわけにはいかない。
雨の中を歩み始めたイタチに背後から鬼鮫の声が掛かる。
「イタチさん、傘は」
傘。
訊ねられ、ふと浮かんだのは、ぐずついた空の気配漂う玄関先。持っていった方がいいよと渡された藍の傘。
「…置いてきたよ」
雨のために早仕舞いをした商店の軒先で、傘を持たず出掛けたイタチの帰りをいつまでもいつまでも待っていた子がいる。
サスケ。
たった一人の、イタチの小さな弟。
「おれにはもう必要のないものだから置いてきたんだ」
あとはもう思い出だけで生きていける。
先程までくたりと垂れていサスケの両足がイタチの腰の横でぶらりぶらりと揺れ始め、イタチは背負っていた弟を振り返った。
「起きたか」
「うん」
寝入ったところを無理に連れ出してしまったから、イタチが歩く内、サスケはまたことりことりとイタチの背で眠ってしまったようだった。
「起こして悪かったな、サスケ」
イタチは彼を揺すって背負い直す。
サスケがううんと首を振ったのは、そのつんつんとした髪に肌を擽られる感覚でわかった。
うちはの集落は随分と前に抜けた。
川沿いの小道を歩いて、今は寝静まった里を遠く小さく眺める穏やかな坂をゆっくりゆっくり上っている。
誰もいない、二人きりで行く道だ。
しばらくして、兄さん、とサスケがイタチを小さく呼んだ。
なんだサスケ、とイタチもまた小さくサスケに返した。
この夜だけは壊さずそっとしまっておきたかった。
「ねえ兄さん」
「うん?」
「星だ」
「結んだら星座になる」
「あ、流れた」
「ちゃんとお願いごとしろよ」
「兄さんもね」
「もうしている」
「どんな?」
「…団子」
「なにそれ。あ、また流れた。兄さん、星がまた流れたよ」
「ああ、そうだな」
「たくさん降ってるね。ね、兄さん。たくさん星が降ってるね」
兄さん。
兄さん。
ねえ、兄さん。
二人っきりの夜道にぽろりぽろりと星が零れる。