修道院時代

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  懇願 Brothers 10  


■水をあげていいですか

 マイエラ修道院へ倒れるようにしてやって来たみすぼらしい男にククールは見覚えがあった。
 一欠けらのパンと一杯のスープを恵んで欲しいという男は非力な修道士たちでは支えきれず、仕方なくククールが肩を貸してやったとき、ククールは男が何者であったかを確信した。
 今はみすぼらしい彼は、かつてマルチェロの出生を笑い、蔑み、団長を辞せよ廃せよと迫った位の高い聖職者であった。聖職売買に関与し、その位を追われたとククールは聞いている。
 ふとマルチェロの名が過ぎったのは、厨房へ向かう回廊にその姿があったためだろう。他意はない。はずだ。
 マルチェロは幾人かの騎士を引き連れ、何事かを指示しているようだったが、同じく幾人かの修道士と共にみすぼらしい男に肩を貸していたククールに気付いたらしい。マルチェロはククールや修道士の行為を咎めることはなかったが、だからこそ余計にククールは彼に訊ねたくなった。問いたくなった。
「水をあげていいですか」
 マルチェロという存在を否定した彼を生かしてもいいですか。
 マルチェロは立ち止まってそう問うククールを歩きながら見遣った。そして答える。ひどく簡潔に。
「それが修道院の慣わしだ」
 擦れ違うそのとき、マルチェロが一瞬見せた目を細める仕草にククールの胸はほんの少しだけ痛んで軋む。



■愛させて下さい

 その小さな弟が修道院にやって来て間もなくの頃、マルチェロは院長から弟を連れて遠い教会まで遣いに行くよう言われた。
 それが老院長の兄弟に対する気遣いだということは分かっていたが、なるべくなら彼とは距離を置いておきたいと望んでいたところ、小さな弟は決してマルチェロに話し掛けるわけでもなく、隣に並んで歩もうとするわけでもなく、ただただ距離を少し置いて付いて来たので、なかなか聡いところがあるとそう思った。
 ふたりの目指すところは思ったよりも遠く、小さな弟はいつの間にかいつも皮肉げに軽薄ともいえる薄笑いを口許に浮かべた大人になった。
 大きくなった彼は常にこの道のりの遠さに不満を漏らし、不平を並べ立て、休息を取りたい水を飲みたいもういやだもう勘弁だもう我慢ならないとそう口にしていたが、しかし彼は相変わらず隣に並んで歩もうとするわけでなく、かといって一人ふらりと何処かに行ってしまうわけでもなく、ただただ距離を少し置いて付いて来る。
 それが愛とは未だ知らず。



■お腹が空きました

 マルチェロのククールに対する厳しい仕打ちを知る幾人かは、ククールがそれでもマルチェロに従うことに疑問を感じると言う。何故そうまでして修道院に、騎士団に、マルチェロの許に留まるのかと言う。
 彼らは知らないのだとククールは思った。彼らは飢えに苦しむマルチェロを、喉の渇きに喘ぐマルチェロを知らないのだと思った。
 若しくはそのような姿を彼らに見せないのがマルチェロたる者なのか。
 だから「いいよ」とククールは言うことにしている。
 だから「かまわねえよ」とククールはマルチェロにその血肉を分け与えることにしている。
 飢えを癒すように一心不乱にククールの肉を貪り食うマルチェロを見て、喉の渇きを潤すように一途にククールの泉に深く分け入るマルチェロを知って、彼の許を去れる筈もない。
 そうして彼の求めに応えるそのときだけ、ククールの飢えは癒され、喉の渇きは潤うのだから、尚更、どうしても。
「俺は聖人じゃない。慈悲深くもない。アンタらの言う通り、軽薄で、自分が可愛い人間さ。だからこれは同情や慈悲じゃない。俺がただあいつの傍にいたいだけなんだ。マルチェロのためでも、他の誰のためでもない、可愛い俺のためにね」



■意地悪しないで下さい

 そもそもマルチェロという人物は矛盾に満ちていた。
 誰よりも神の救いに不信を抱きながら、神の救いを朗々と説く。
 何よりも世襲による支配階級の構築を嫌うくせに、良き血とされる王侯貴族に跪く。
 善を成そうとしながら、悪を淡々と積み重ねる。
 そのような人間であるからこそ、マルチェロは事も無げにククールに言うのだろう、
「さる公爵が私の弟であるククール、お前にぜひ一度祈祷を行ってもらいたいと手紙を書いて寄越したが、さて、どうしたものか」
 ククールは不意に笑いたくなった。片手で顔を覆って肩を震わせ笑ってみせる。
「こいつは傑作だ。団長殿ともあろう方が、一介の騎士に過ぎない俺の気持ちをまさか汲んで下さるとはね」
 いっそ縄か鎖で縛って狭い檻へ放り込み、荷物か何かのように公爵邸へ投げられた方がまだましだ。
 ククールは顔を上げた。
「いいぜ。喜んで公爵さまのところに行って参りますとも、おにいさま」
 殊更彼を兄と強く呼んだとしても、彼は苦しくもないのだろう。
 清濁を呑み込んで立とうとする人であるのだから。



■ずるいです

 目を瞑り、耳を塞ぎ、心を何処か遠くに逃して、もう何年も理不尽な仕打ちにも沈黙を守ってきたククールだったが、時折彼が平然と行う他者への容赦のない無慈悲な行為について目を逸らしたくなる時がある。
 どれだけその者が許しを乞うても、彼は彼の裾を必死に掴む手を振り払う。
 彼のそのような仕打ちが耐え難いのではない。彼のそのような仕打ちに泣いて叫ぶ声が、彼への怨嗟が、ククールにとっては耐え難い。
 目を瞑り、耳を塞ぎ、心を何処か遠くに逃しても、許しを乞う者の哀れな姿は瞼に浮かび、泣いて叫ぶ声は鼓膜をぐらぐら揺らし、その深く暗い怨嗟の想いはククールの心を呼び戻して苛む。
 ククールは目を逸らそうとした。もう我慢ならなかった。もう耐え難いところまできていた。もう逃れてしまいたかった。
 だがそのような時には必ず決まってククールの背後に在る闇からするり手が、腕が、伸びてきて、ククールの痛みに泣く腹をやんわりと抱き、もう片方の手でククールの目を隠す。
 「やめろよ」とククールは懇願した。
 他者への仕打ちを、ククールをこうして引き留めることを、「もうやめてくれ」と懇願する。
 ただ二度目の抵抗は既に小さく、弱く。
 彼が施す耳への接吻けに世界は音すら失くしてしまう。



■怖いものは誰でもあると思います

 骨が砕けてしまうのではないかと思うくらい手首をぎりぎりと握られ、押さえつけられる。そこは時に騎士団長の執務机であったり、修道院の壁であったり、地下室の湿った壁だった。マルチェロの気が向けば彼の寝台に押さえつけられた。
「こんなことをしなくったって、俺は抵抗なんてしねえよ」と幾ら無抵抗を示しても、マルチェロは必ず俺を力尽くで押さえ込み、支配しなければ気が済まない。
 俺はマルチェロのモンスター。
「こんなことしなくったって、俺はアンタを獲って喰うつもりなんてねえよ」
 なんて幾ら俺が言ったところで、俺は彼にとってモンスター、説得力のない話。



■眠らせて下さい

 うつらうつらと舟を漕ぐ。時折がくんと顎が落ちて目覚める。
 しかしすぐにまたこっくりこっくり。聖書を広げた机とキス。そのままついに伏せて居眠りをしてしまう。
 だが唐突にコツコツ。誰かの指が机をノックしている。
 ああなんてきれいな第二関節だろうと見蕩れていると、次いで声が降ってきた。
「ククール。今の続きから読んでもらえるかな?」
 そうだ今日はマルチェロが神学の講義をしているのだったと思い出し、顔を上げる。
 ククールに視線を向けている騎士たち。ククールを見下ろしているマルチェロ。
「二日酔いで寝てました。従ってセンセー、今の続きって何処かわかりませーん」
 ククールは普段に比べれば艶の落ちた髪をぐしゃぐしゃと掻きながら大きな欠伸を一つした。



■会えないの、辛いです

 それは偶然思い出したかのように、今になって初めて気付いたかのようにククールによって切り出された。
「団長殿は近くサヴェッラへ旅立たれるとか」
 しかしマルチェロはただ黙して筆を進めるのみ。ククールはマルチェロらしい肯定に少し目を伏せた。
「いいなあ、団長殿は」
 気を取り直して腕を組む。必然的に胸を張るが、虚勢に過ぎない。
「何処へでも行くことが出来る」
 俺はこの大陸から出たことがないんですとおどけたように付け足し、
「どうせ何人も引き連れて行くんだから、一人くらい増えたって」
 かまわなくはないですよね、やっぱり。
 ククールはマルチェロの返答も待たず、肩を竦めた。合理的会話の進展方法。
 長い前髪がほんの少しククールの表情を隠す。



■そろそろ許して下さい

 昼下がり頃からドニの酒場で賭け事に興じていると、客の子どもなのか、それとも出入りしている商人の子どもなのか、若しくは修道士の隠し子だったりして、一人の子どもが興味深げに俺の手元を覗いて来た。
「おいおい、アンタらのガキか?子どもにイカサマの片棒担がせるなよな」
 同じテーブルに着いたどう見ても堅気ではない連中をぐるりと見回す。
 きれいなものだけを見ていられる子どもの間はきれいなものだけ与えてやれよ。じゃないとひねくれるぞ。
「騎士さまはこんな所で遊んでいていいの?」
 子どもはトランプカードと俺の服装を何度か見比べて問うてきた。
 俺は不要なカードを捨て、山から新たなカードを引く。
 舌打ち一つ。
「いいのいいの。ここだけの話、悪いことして追い出され中なんだ」
 そう言うと、子どもは「ふぅん」と頷いて、当たり前のように続けた。
「そろそろ許してくれればいいのにね」
 さてショウダウン。華麗なるフルハウス。
 あの舌打ちは何だったんだとわめく男たち。
「なにせひねてますから」
 俺は全てを笑い飛ばす。



■手を握りたいんです

 それはまだククールが剣を持つことを許されて間もない頃のこと。
「いってぇ」
 マルチェロの剣によって弾かれたククールは草地に、ククールが握っていた剣は少し離れた木の陰に落ちた。
 マルチェロは不快感を露わにする。機嫌が本当に悪いという本音半分、ククールに対するあてつけ半分。
「まったく、出来の悪い奴の鍛錬ばかり私に回ってくる」
 一瞬何か憎まれ口でも返そうかと考えたククールだったが、マルチェロの剣先がひたりと喉に宛がわれたので黙った。
「何をしている。早く剣を拾え」
「へいへい、そりゃあ分かっているんですけどね。さっき足を捻ったみたい」
 だから手を貸して欲しいと伸ばした手は、だがあっさりと払われた。
「ここが戦場だったなら、足を捻った程度でお前は誰かに助けを求めるのかね?」
「ここが戦場だったなら、アンタは足を捻って動けない奴を見捨てるんですかね?」
 ククールは仕方なく立って、剣を拾う。ひゅんと振ったなら、泥が落ちた。
「みすぼらしい孤児にさえ手を差し出すくせに」



お題配布元:コ・コ・コさま

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