気遣いと気遣いではないもの
夕方頃から海で泳ぎ、辺りに真なる夜が訪れる頃、カノンは家の扉を開いた。
髪や頬を伝う海水が雫となり、ぽたりぽたりと床を濡らす。
「私が来る日に限って、遅くに帰って来るのだな、お前は」
テーブルに両肘を付いていたサガは顔も眸も伏せたまま、そのように云った。
カノンは一瞬口篭ったが、うんざりした様子で肩を竦める。
「ただお前が帰って来る日を覚えていないだけだ」
「九日前に、今日帰って来ると云っておいただろう」
サガが漸く顔を上げるので、今度はカノンが視線を窓の外へと逸らした。
「何もない日々をただただ惰性で過ごしていると、時間の感覚も曖昧になってくるさ」
暫くして、カノンは「もういいのではないか」とぽつりと漏らした。
「サガ。お前が危険を冒してここへ来ても、俺が何処かへ行ってしまっているのだから」
もう帰って来なくともいいのではないか。
その瞬間、サガは立ち上がり、激しくカノンに掴み掛かった。
「お前は私がお前にしてやりたいと望むことを悉くそんなことは望んでいないと云うのに、
お前が私に与えようとしてくれるものは全て、私の望むものではないと、何故わからない!」
床に落ちた雫が乾く、その前に、またカノンの髪から頬から雫が落ちた。
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見透かしと見透かしではないもの
「兄弟を想像してみよ」と云われて、人はいったいどのような姿をまずは思い浮かべるだろうか。
私はまずは太陽の下、じゃれ合う兄弟を思い抱くのである。
時にする喧嘩さえ所詮はそのじゃれ合いの中のもの。
兄の弟の頬を抓って引っ張り、散々に罵りあって、意地を数日間張ったなら笑って許し合う。
兄弟とはそういうものではなかっただろうかと私はカノンに掴まれた衣を見下ろしてそう思う。
いったい幾人が「兄弟を想像してみよ」と云われて、別れて暮らす兄弟を思うだろうか。
神に愛される兄の弟は名すらないと思うだろうか。
いいや、彼には名があるが、誰も彼を呼びはしないのだから名は矢張りないのだ。
私は行かなければならないと告げて、カノンの指をひとつずつ離す。
するとカノンが「いったいこの世の幾人が兄弟とは別れて暮らすものだと思うだろうか」と呟いた。
カノンの指はすべて離れたが、私の心はその呟きに苛まれて苦しむ。
それはカノンの意図したところではないのだろうけれど。
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問い掛けと問い掛けではないもの
いつだってそれは些細な間違いなのだ。
サガが赤い木の実を食べたいと云うから、カノンが赤い木の実を用意しようと約束をし、
けれどうっかり青の木の実のを二人の食卓に並べてしまったような、そんな些細な間違いに過ぎない。
カノンが、すまないサガよ失念していた次は必ず赤い木の実を用意しよう、と謝ったなら、
これはほんの些細な間違いだ、過失だ、是正されたに違いない。
実のところカノンはそう云おうとした。謝ろうとした。間違いを是正しようとした。
けれどサガが、
「なんと美味しそうな青の木の実なのだろうね。
きっとお前は私のためを想い、美味しい木の実を取って来てくれたのだね」
などと勝手に一人で先回りをして、そもそも間違いがあったことすら失くしてしまおうとするから、
カノンは何も云えなくなってしまう。
それがカノンを想う発言であったからこそ余計に。
何故赤い木の実を取って来てくれなかったと責めない。
何故一人で何もかもを解釈して決め付けてしまうのか。
そう心の内側で問うたところで、所詮双子と云えども人は人、サガに届きはしないのだ。
こうして些細な間違いは意図的に隠蔽され、解消されないままに二人の間に降り積もる。
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乗っ取りと乗っ取りではないもの
生まれたばかりの鳥のヒナがカノンの後を付いて歩いて離れなかったことがある。
どれだけしっしっと払ってもヒナはてくてくカノンの後を付いて来た。
そのことをサガに告げると、
「それは動物学者のローレンツが発見した刷り込みという現象だ」と教えてくれた。
鳥と人間。姿形がどれほどかけ離れていたとしてもヒナはカノンを親と信じて歩いた。
だから仕方がないじゃないかとカノンはサガと抱き合いながらも、
サガの足許から長く伸びる影を眺めて強く思う。
「お前はジェミニの影なのだよ」と生まれたときから刷り込まれてきたのだから、
今更「お前はジェミニの影の真似事をしているだけのカノンだ」と影が愉快げに笑っても、
ヒナがカノンの後を一生懸命付いてきたように、カノンを親と信じたように、
一生懸命ジェミニの影として振る舞い、「俺こそがサガの影なのだ」と信じるしかないじゃないか。
この頃のカノンは鳥の末路をわざと思い出さないようにしている。
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不在と不在ではないもの
ちらりちらりと外へと目を遣るサガを窓辺に見つけてカノンはぼそりと呟いた。
「気掛かりなことが外にあるのなら行くがいい」
両腕で抱えた膝をじっと見つめる。所詮カノンの世界はその程度の狭い世界。
サガはカノンの言葉の何かを、若しくは全てを否定しようとしたが、
カノンはその否定が終わる前にそのようなサガを否定した。
「お前の心がもうここにないのなら、もう俺にないのなら、お前などサガの抜け殻に過ぎない」
するとサガは窓の外に目を遣ったまま、同じようにぼそりと呟いた。
「お前も、カノンの抜け殻に過ぎない」
最近のお前の心はいつ帰ってきても聖域にある私の心を求めて彷徨ったまま、
帰って来ようとはしないのだなとサガは窓枠に肘をついた。
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瑠璃と瑠璃ではないもの
かつてそれは暗黙の了解だった。
「ずっと一緒にいようね」
「ずっと一緒でいようね」
カノンは時折サガと額を合わせることがある。
鼻先が触れ合うくらいに、睫の先が擽り合うくらいに、額を合わせることがある。
そのようなことをしてもサガの心を見透かせるわけもなく、
またカノンの気持ちがサガに伝わるはずもなかったが、
額を合わせて二人で言葉も交わさずじっとしていると、不思議と心が静まった。
だがその日はふとサガの顔を見たいという衝動にカノンは駆られた。
いつもは額を離すまで瞑っている眸をそろりと擡げる。
そこにあったのは赤。
夕暮れの真っ赤な陽のような眸がカノンを見据えて、如何にも悪を秘めて笑うのだ。
カノンは悲鳴を上げた。
サガを突き飛ばして、仰向けに倒れた彼に馬乗りになる。
傍にあった刃物さえその赤を目掛けて振り被った、その時だった。
「カノン」
サガがカノンと同じ眸の色でカノンの名をただ呼んだ。
最初に潰えてしまったのは、「ずっと一緒でいようね」
「せめてずっと一緒にいたい」
そう呟いたのはサガなのか、カノンなのか、額を合わせながら考える。
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今と今ではないもの
夕方六時から二人で共に夕食の食卓を囲もうという約束を果たすため、
陽も傾き始めた四時過ぎにサガは聖域を離れようと思っていたが、
小さな子どもが親が恋しいと泣いたため、結局聖域を離れたのは午後五時前。
それほど遠くはない家までの道のりなので、
急ぎに急げば予定から三十分ほど遅れた五時半から夕食の準備を始めることが出来たが、
その道のりの途中に幾人かの人がいたので、
サガは物陰に隠れて彼らが去るのをじっと待つしかなかったる
そうして漸く家の扉を開けたのが夕食を予定していた夕方六時。
カノンは夕食の食材を前にただただ立ち尽くしており、サガが帰ったことに気付くと振り返って、
「ああだってサガ、共に夕食を食べようと、夕食を二人で作ろうとお前が云ったから、
俺が一人で作ってしまっても良いものなのか、俺には分からなかったのだ」と嘆くのだ。
サガは「そうだろうとも」「分からなくても仕方がないのだ」とカノンを抱きしめてやった。
カノンは後、こう云う。
「あの頃は二人で成した約束を果たすことに精一杯だった。果たすことこそ目的になっていた。
どんな些細な約束であったとしても、約束は完遂しなければならなかった。
小さな綻びさえも俺たちは酷く怖れていたのだ。怖かったのだよ。壊れてしまうことが」
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闇と闇ではないもの
陽は落ちたにも関わらず未だ赤い世界を歩むカノンをサガは強く咎めた。
光のある世界に出てはいけないとあれほど云っただろうと強く強く咎めた。
カノンはその背に負った夜を翻し、深く項垂れる。
「お前が光と云う眩しさは、俺にとっては既に失われた光の跡にしか過ぎぬ」
何を光とするかさえ俺たちは共有できぬのだなとカノンは深く深く項垂れる。
そうして全ては曖昧な夕暮れに溶けてゆくのだ。
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薬と薬ではないもの
私には二つの「おかえり」がある。
一つはひとりぼっちのカノンが云う「おかえり」。
カノンと過ごす僅かの時だけ、私はどうしても拭いきれない孤独を忘れることが出来る。
声を大にして云おうが、若しくは如何に繕ったとしても、私たちはある一つの想いを共有しているからだ。
「かみさま、どうしてお見離しになるのですか?」
もう一つは聖域の皆が迎えてくれる「おかえり」。
志を共にする者たちと共に全ての人々の幸福を祈る時だけ、私はカノンを忘れることが出来る。
美しいきれいな言葉で綴られた祝詞を口ずさみ、若しくは人々に神を説いていると、
私までも美しくきれいな心を持ったように錯覚し、
私にそのような心をもたらして下さる神を信じることが出来るからだ。
「かみさま、今あなたがそうあるように、私の傍らに常に在りたもう」
私には二つの「おかえり」がある。
だが私は一つとして「ただいま」を持たない。
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疎外と疎外ではないもの
俺たちにとって一つのものを共有することは何ら苦ではなかった。
一つの卵子。一つの胎内。一つの誕生日。一つの運命。一つの聖衣。
少なくとも俺にとってたった一つしかないものをサガと共有することは何ら苦ではなかった。
サガもまた生まれる以前からそうしてきたように、何もかもを俺と共有しようとしてくれた。
一つの記憶までも。
サガは俺が見知らぬ人の、サガが住まうもう一つの世界の話を一生懸命にしてくれた。
見知らぬ人やもう一つの世界を俺と共有しようとしてくれた。
一つのものをサガと共有するということは未だ俺にとって苦ではない。
だがそれはサガのものなのだとサガの話を聞きながら思ったとき、
俺はサガと共有することの出来ない俺だけの心を持ってしまった。
俺たちはもう一つには戻れぬ二つの心を持ってしまったのだ。
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空白と空白ではないもの
私たちは、俺たちは、互いに寄せぬ想いなどない。
「お前などもう知らぬ」
「お前などもうもう知らぬ」
「お前など何処かへ行ってしまえばいい」
「お前など何処かに消えてしまえばいい」
「お前など」
「お前など」
そうやって私は、俺は幾度も「お前など」を繰り返しながら、
私は幾度も誰もいなくなってしまった部屋で、
「カノンよ、カノン」寒くはないか、凍えてはいないかと気を揉み、
俺は幾度も星の下で、
「サガよ、サガ」苦しんではいないだろうか、心を苛んではいないだろうかと気に病んだ。
もう一度云おう。
云えるものなら幾度だって云おう。
私たちは、俺たちは、互いに寄せぬ想いなどないのだ。
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