世界は実に壊れやすい。

 それでも緻密に組み上げたならまだましだ。

 ふたりで組み上げた世界は欠損だらけで、それでいてそれを埋める術を持たない。

 壊れるのは目に見えていたというのに。



 この必然への対処法が見つからない。



 その頃の俺は綺麗だとか美しいとか、そういうものはサガにあると思っていた。

 夕暮れや風の内に佇むサガを見て、このままサガは溶けゆくのだと思った。

 ある日それをサガに言ったら、サガは苦笑いをしてこう言った。

「カノン。お前は何処にいてもお前でいられる。決して混じわりはしない。その強さを私は綺麗だとも美しいとも思うよ」

 サガが何を言ったかは解らなかったが、その言葉に嬉しいなどという感情は起こらなかった。



 ずっとふたりで遊んでいたのだ。



 シーソーゲームだ。ふたりでシーソーに乗って遊んでいたのだ。

 けれどふたりの姿形、質量に至るまで等しいものであったから、このゲームは成り立たない。

 変わることのないシーソーの角度に飽きてしまったサガは、

 一緒に遊ぼうと呼ぶ声に惹かれてシーソーを降りて行ってしまった。

 シーソーはその時はじめて傾いたがカノンは面白いなどと全く感じはしなかった。

 そもそもシーソーゲームがどういったものなのかも知らなかったのだから、

 何が面白くて何が退屈なのか、カノンには計りかねるものだった。



 それが最初の「さよなら」



 公平や平等ほどカノンが嫌うものはない。

 サガは秤で量るように誰にでも分け隔てなく接するが、それは果たして真の愛情やら優しさなのだろうか。

 カノンがサガを愛するにしろ憎むにしろ、

 それは切り裂くような痛みであり、悲痛な叫びであり、快楽にも似た呻きなのだ。

 それはサガにだけ適応され、サガ以外のものなど正直興味などなかった。

 ならばサガは?
 
 この弟であるカノンにさえ神か何かのように微笑んで、公平に甘い飴を与えてくる。

 サガが言うのだ。

「昨日はカノンと過ごしたから、今日は聖域に戻らねば」

 カノンはティカップに紅茶を注いで笑った。

「子供達が寂しがる、と?」

 寂しがるのは聖域の子供達だけと?

「もう一日くらいゆっくりしていけばどうだ?」

 ティカップをサガに渡すが、もう戻るからと拒否された。カチカチとティカップが音を立てた。

 その音が不快で手を離したら、ティカップは床に盛大な音を立てて落ちた。当たり前だが割れた。

「カノン」

 サガが窘めるように名を呼ぶ。

 カノンは言った。

「弟だからという同情を掛けられるくらいならば、いっそのこと蔑ろにしてくれた方が楽だ」

「カノン、片付けろ」

「今日は寂しい子供たちのために聖域へ行って、明日は哀れな俺のためにわざわざ来てくれるのだろう?

 それで明後日は神のために聖域か?それを片付けたなら勝手に聖域へ行くがいい」

「カノン」

「そしてしばらく帰って来るな。どうせお前のティカップはないのだからな」

 カノンが部屋を出る一瞬に見たものは、サガが深く息を吐いてティカップの破片を拾う姿だった。



 翌日の夜遅くにカノンが眼にしたものはテーブルに置かれた真新しいティカップだけだった。

 サガは自室にいるのだろう、姿を見せない。

 カノンはそれを壁に投げつけて、奥歯を噛んだ。

 ティカップが割れる耳障りな音をサガはこの小さな牢獄の何処かで聴いているのだろう。

 でも出てきやしない。

 砕け散ったティカップの残骸を見つめて、それがあまりにも哀れで、

 破片を一枚拾い上げたなら、真っ赤な血が床にぽたりと落ちた。



 痛いと泣き出せたら、どんなに楽か。



 やがてシーソーは天秤にすり替わる。

 左の皿にはカノンを、右の皿には神と世界と人を乗せ、サガはどちらがより重いかを謀っていた。

 現実的でない浮遊感を味わいながら、カノンはサガが二度とシーソーの片側に座ることはないことを悟ったのだ。



 最初に狂ったのはどっちだ?



 それはいつのことだっただろう。

 日付で言うならば最近のことであったかもしれないが、それはもう遠い昔のことのように思えた。

 いつかカノンが言ったのだ。

「俺は綺麗だとか美しいとか、そういうものはサガにあると思っていた」と言ったのだ。

 だからサガも言ったのだ。

「カノン。お前は何処にいてもお前でいられる。決して混じわりはしない。その強さを私は綺麗だとも美しいとも思うよ」

 と言ったのだ。

 嘘ではなかった。

 だがカノン。その強さは、その美しさは、その輝きは危険なのだ。

 お願いだから、息を潜めておくれ。頼むから、息を殺しておくれ。

 まるで世界に溶け込むかのように振る舞っておくれ。

 その強さがなくとも、その美しさが失われようと、どれだけ埋もれてしまったとしても、

  お前を大切に想う心に変わりはないというのに。

 変わりはないというのに、何故、何故、何故!

 何故だ、カノン!



 「嘘だからだ」




 その頃のカノンは天秤が傾くのを止めることに必死だった。

 天秤が面白いくらいに傾いてゆくから、カノンはそうするしかなかった。

 カノンが知らぬ内に乗せられた天秤皿が上へ上へと傾いてゆくから、そうするしかなかったのだ。

 天秤皿にあらゆるものを詰め込んだ。サガが気に入りそうなものを詰め込んだ。

 サガがかつて綺麗だと言ってくれた、美しいと言ってくれたものも詰め込んだ。

「お前を想う心に変わりはない」なんて、嘘だから。

 そんな見え見えの嘘を嘘と気付いていないのは、お前だけなのだ、サガ!



 でも、あなたが悪いわけじゃないけれど。



 誰も悪くないのだ。

 誰も悪くないのだ。

 誰も悪くないというのに、何故お前は誰かを罵り、その手に掛けてしまうのだろう。

 サガは立ち竦んだ。

 ほんの数メートル先で、カノンが振り向き、おかえりと言うのをただ見ていた。

 いつものように言うのだ、おかえり、サガ。

 今日も遅かったなと皮肉げに言うのだ。まるで儀式か何かのように。
 
「それは、誰だ」

 サガはやっとのことでそう言った。

 カノンの足下で聖域の遣いが死んでいた。

「あぁ、これか」

 カノンは口許に飛び散っていた返り血を拭いもせず事も無げに言う。

「見られたから、殺した」

「見られたから殺しただと…?」

「そうだ。見られたから殺した」

「殺さずとも、私の振りをすれば良かったではないか!」

 サガの振りをすれば、殺す必要などなかったというのに。

 サガが怒鳴りつけると、カノンは弾けたようにけたけたと笑い始めた。

「カノン!」

「カノン!」

「カノン!」

 サガがいくら窘めようとしても、カノンは狂ったかのように笑い続ける。

「カノン!」

 その薄暗い狂気をちらつかせる眼がおぞましくて、サガはカノンの頬を強く打った。

 血溜まりに叩き付けられたカノンは、ぴくりとも動かなくなった。

 まるでカノン自身から血が流れ出ているかのような錯覚を起こす。

 あまりの光景に、サガが手を伸ばそうとした瞬間、カノンはのそりと髪を赤く染めて上半身を起こた。

「嘘だ」

 カノンはまだ笑っていた。

「嘘なのだ、サガ」

 何処か皮肉げに、何処か諦めたように、そして小さく哀しげに。

「お前を迎えに来たと言うから」

「カノン」

「こいつは俺を見て言ったのだ。

 サガさま、こんな処にいらっしゃったのですか。お探ししました。聖域へお戻り下さい。と。

 こんな処とは、笑えるよな。サガさまには確かにこんな処は不釣り合いだ」

「カノン、もういい」

「俺がサガの振りをしたならば、わかりました、すぐに行きます、としか答えられないだろう?

 お前ならば絶対にそう答えるからだ。

 お前は、俺にそう言えというのか?この俺自身にすぐに行くと言えというのか?」

「もういい、カノン!」

「要らないと思ったのだ。こんな奴。こいつさえいなければと思ったのだ」

 誰も悪くない。

 誰も悪くない。

 誰も悪くないなら、何故こんなことになるのだろう。なったのだろう。

 サガはカノンの手を引いて起き上がらせた。次いで死体を見下ろす。

「処理しなければな」

 不都合だ。こんなもの。

「俺がする。俺が殺したのだ。お前のそのお綺麗な手を煩わせたりはしないさ」

 カノンは何処か嬉々として、新しく覚えた技を試してみると言った。

「いいや、私がする。お前はさっさとその血を洗い流せ」

「は!どうせお前は俺が失敗するとでも思っているのだろう?」

「いいから、下がっていろ」

「そうか、そうだろうな。俺が失敗したなら、苦労するのはお前だものな。お前はいつでも保身が大切なのだ」

 要らないと思ったのだ。こんな奴。こいつさえいなければと思ったのだ。

 それは聖域の遣いに対してカノンが吐いた言葉であったが、実のところ、サガもそう思っているのではないだろうか。

 誰でもない、カノンに対して。



 「もう要らないの?」



 ふたりで組み上げた世界は哀しいほどに脆い。

 補修作業が必要だった。

 だがどうしても他の何かを使って風穴を埋める気にはなれなかった。

 ふたりで心を込めて造り上げた世界を、ふたりだけで埋めたいと思ったのは傲慢すぎる我が儘だったのだろうか。



 または子供じみた醜いほどの無邪気な独占欲。



「サガよ。お前を呼びにやった遣いが帰って来ぬ。知っているか?」

「いいえ、教皇。私は何も存じません」

 いいえ、神よ、私の弟が殺し、私がこの手で処理しました。

 私はまたひとつあなたに背を向けたのです。



 天秤は傾いた。

 あとはスクラップ工場に真っ逆様。



「カノン」

「カノン」

 ギリ…

「私は時々もしもと思うのだ」

「もしもお前が私の双子の弟ではなかったら」

 ギリギリ…

「もしも私と同等の力をその身に宿していなかったら」

「いいや、もしも、もしもだ。お前が私の双子の弟で同等の力を有していたとしても」

 ギリギリギリ…

「お前が陽の下をこのサガと共に歩めていたなら」

「私は時々そのように思うのだ」

 ギリギリギリギリ…

「そう。私の不遜な神への疑問は常にお前から始まるのだ」

「何故お前は私の双子の弟なのか。何故同じ力を持つのか。何故世界はお前を苦しめるのか!」

 ギリギリギリギリギリ…

「だから、私はもしもと思うのだ。もしもお前さえいなければ」

「もしもお前さえいなければ、私は正しい心をもって神に仕えられるのではないかと」

 ギリギリギリギリギリギリ…

「もしもお前さえいなければ」

 ギリギリギリギリギリギリギリ…



 キュッ



「カノン?」

「カノン、聴いているのか?」



 ぱたりとが落ちる。



 「カノン…」



 世界は実に壊れやすい。

 ひとりでは組み上げることも、支えることもままならない。



 哀しいと叫ぶことが出来たなら、あなたは救われたでしょうか?



「さよなら、かつてあれほど愛し合えた人よ」










さよなら神さま