とても小さい頃に、と言っても記憶に残るくらいには大きくなった頃に、泥団子を作ったことがある。

 雨上がりの水溜まりで、どちらかというと泥溜まりで、それはもう丹誠込めて泥団子を作ったことがある。

 手が汚れることも厭わず、何時間も何時間も掌で丸めて形を整えた。

 気が付けば夕方で、サガが迎えにきたので、最後に綺麗な白砂をまぶして、泥団子を完成させた。

 今でも鮮明に覚えていることと言えば、サガが泥団子を綺麗だねと褒めてくれたことと、

 翌朝あっさりそいつが真っ二つに割れてしまったことくらい。



 神の前に人はみな平等であると言った神は何処の神さまだっただろうか。

 とりあえず我等が女神でないことだけは確実だとカノンは思う。

 何にせよどの神も崇めなければ公平を与えてくれないのだから、神さまは心が狭い。

 もとよりそんなものに縋る気など起こりもしなかったが。

 この世はいつだって不平等なのだ。

 サガとカノン、名もない頃は全てにおいて等しかったというのに、今では姿形以外は何もかもが不平等。

 サガにはサガの自由があったが、カノンが持つ自由だけは得られなかったし、

 カノンにはカノンの自由があったが、サガのような自由は持たなかった。

 どちらがより虐げられているかは解らない。

 きっと互いに互いを可哀相と哀れむことで自己防衛を謀っている。

 最低だとカノンは笑った。

 それでいて哀れむ言葉を労りの言葉として伝えているのだから、本当に最低だ。

 サガが今日も夜遅くに家に帰ってくる。

 カノンはサガを迎えて言うのだ。

「兄さんも大変だな。大丈夫か?辛いのではないのか?」

 心配そうにまとわりついて、その実心の中で繰り返している、俺はサガよりましだ、サガよりまだましなのだと。



 いったいそもそもの原因が何処にあるのか、サガにはおよそ検討もつかなかった。

 何故カノンは選ばれながらも秘匿されるのだろう。

 確かに最近のカノンの素行は目に余る。

 しかしだ、振り返ればカノンが秘匿されるとなった時、カノンは女神を軽んじていたか?

 更に突き詰めれば、あの幼かった頃に神の概念など果たして持ち合わせていたのだろうか?

 カノンが影に追いやられた理由は、実のところカノンの素行や信心の希薄ではないところにあるのではないだろうか。

 ならば何故カノンはこれほどに聖域から抹殺され続けるのだろう。

 カノンがいったい何をしたというのだろう。

 聖域はカノンの名を奪い、それでいて聖域のために死ねと言う。

 カノンの悪戯は日増しに度を越え、ついにサガは手を上げた。

「何故人を傷つける!」

 何故己を堕としめる?

 それが理由となってしまうことを、カノン自らが理由を作り上げていることを何故気付かない!

 理由を与えてはならない。

 罪を重ねることは、つまり無実の牢獄を狭くすることに他ならないというのに。

 サガの頭痛は比例するかのように酷くなる。



 何故そんなにも泥団子をバカみたいに一生懸命丁寧に丁寧に作るかというと、

 前に泥団子を作った時も、その前も、そのまた前もサガが綺麗だねと言ってくれたからだ。

 だからこの泥団子も前と同じように、もしくはそれ以上に形良く作らなければならない。

 もう後戻りが出来なくなっていた。



 他の誰かと話しているサガを柱の影からこっそり見たことがある。

 見たこともない綺麗な微笑みでサガはカノンの知らない人と話していた。

 あれがサガなのだと悟った。少なくとも他人が、聖域が、世界が望むサガはあれなのだと解った。

 そしてサガ自身もあのサガであることを望んでいるのだ。

 あれはもうカノンの兄ではない。そう思った。



 不意に思い出す。

 それはどれくらい前のことだっただろうか、一度だけ泣いたことがある。

 何故俺がこんな目に遭わなければならないのかと本気で泣いたことがある。

 茶化して言ったことや、怒鳴り散らして叫んだことはあっても、泣いたのはただ一度あの時だけ。

 何も言わない、言えなかったのだろうサガを更に追い詰めた。

 何故サガは俺ではなく聖域を選んだのかと泣き縋って追い詰めた。

 サガの絶望はカノンよりも深いとわかっていたのに。

 サガは最後まで何も言わなかった。弁明も謝罪さえもしなかった。サガはただ黙って憎まれようとしていた。

 それがサガに出来る最大の誠意だったのかもしれない。

 カノンは激しく後悔した。サガを困らせた。サガに大きな影を落とした。

 以来カノンは聖域に背を向けるようになった。

 それだけが原因ではなかったが、何処かで理由を作らねばという脅迫観念に捕われていのかもしれない。

 サガ自身が望んだサガの微笑みを崩したくはなかった。

 だから今日も明日も理由を作り上げる。聖域から忌み嫌われる正当な理由を作り上げる。

 サガがカノンのことで心を痛めないように、それが当然と思うようにしなければ。

 そうして秘やかに秘やかに離別を始める。

 あれはカノンの兄ではないのだから。離れなければならない。



 心を込めて仕えねば。

 誰もが幸せに暮らせるように、そしてカノンが陽の下を歩けるように。

 心を込めて女神に仕えなければ。

 カノンがひとつ罪を犯せば、サガはふたつ償いをしようと思った。

 我が女神、どうかカノンをお許し下さい。

 あの子は生悪ではないのです。あの子があなたを忌み嫌う、その理由をどうか慮り下さい。

 忠誠も祈りも贖罪も、カノンの分までしなければ。

 心を込めて仕えねば。

 いつかこの想いが叶うと言い聞かせながら、今日もサガは聖域へと赴く。

 そう想いながらでなければ、行かないでと言うカノンを置いては行けなかった。

 しかし引き止められる間はまだ良かったと思う。

「お前は最近私のことを兄さんとは呼ばなくなったな」

 サガは気付いていた、カノンが離れようとしていることに。

 カノンは冷えたスープを口に運びながら笑った。

「兄さんと呼んで欲しいのか?」

 兄らしいことなどしてくれたこともないくせに、カノンがそう言っているように聞こえた。

「兄さん、スープが冷める」

「もう冷めている」

「それはお前がこんな深夜にしか帰って来ないからだろう、サガ」

 心を込めて仕えれば仕えるほど、望んだ世界は遠くなる。



 ふたりで罠に掛かった野ウサギを見つけたことがある。

 そこは禁猟区だったので、ふたりは野ウサギを放してやった。

 良いことをしたねと口には出さなかったが、良いことをしたと思った。

 だが野ウサギは数歩も行かない内に眼の前で狼に喰い殺された。

 ふたりで手を握り合った。その動物が野ウサギを喰い尽くす光景を見ていた。

 サガの右手がカノンを止め、カノンの左手がサガを止めていた。

 行ってはいけない、あれが自然の掟。

 互いで互いを引き止めて、この世の何を恨めば良いのかと立ち竦む。

 その頃から、正しいということが何か解らない。



 サガは聖域へ赴くときに必ずこう言った。

「カノン、お前だからこそ解ってくれると信じている」

 解っているよと言いたかった。

 サガがお前だからこそと言ってくれるのだから、俺だからこそと答えたかった。

 いつまでもサガの特別でいたかった。

 他の誰がサガをサガと呼ぼうとも、兄と呼べるのはたったひとり、このカノンだけ。

「兄さん」

 兄さん、兄さん、兄さんの弟の俺だからこそ解ってあげられるよ。
 
 兄さんが俺を置いて行ってしまうことも、俺の嫌いな笑顔ばかり浮かべることも、

 弟の俺だからこそ何もかも許してあげられる。

 サガが持ついくつもの大切なものの中で、カノンだけが特別な処にあると思いたかった。

 そこにいるためには解らなければ、カノンだからこそ解らねばと思った。

 ただ同時に特別という甘い蜜を故意に与えられているとも思った。

 お前だからこそと言えばカノンは喜んで従うとサガは思っているのではないだろうか。

 だから繰り返し言うのだろうか、お前だからこそ、カノンだからこそ。

 知らない振りをして騙されるのが良いか、騙されるほど愚かではないと言うのが良いか、カノンにはさっぱり解らない。

 兄さんと呼ぶのが正しいのか、サガと呼ぶのが正しいのか。やはりカノンには解らない。



 あの時、野ウサギをどうすれば助けることが出来たのだろうかと考える。

 あのまま罠に置いておくのが正しいとは言えない。

 だからと言って、果たして解放したことは正しかったのか。

 違う、サガは首を振った。

 正しいか正しくないかを考えているのではない。助ける方法を考えているのだ。

 罠から解放して抱いて帰れば良かったのだろうか。それならば捕食されずに済んだだろう。

 だが持ち帰ったところで、飼うことは出来ない。

 しかし、とサガは思い至る。延命は可能だった。

 怪我の手当てをし、餌を与え、再び安全な処に放してやれば良かった。

 あの野ウサギはいくらかは命を長らえただろう。

「まだあのことを考えているのか、サガ」

 カノンが笑った。

「何をしても喰われるときには喰われる、それが自然の定めなのだぞ」

 何故諦める、とサガは言った。

「サガ。あの狼もウサギを喰わねば死ぬのだ」

「だがあのウサギが死んで良い理由にはならない」

「兄さん、どうした。兄さんらしくもない」

 カノンは呆れて何処かへ行ってしまった。

 サガはひとりで考える。

 聖域がカノンを殺そうとしているのに、カノンはそれを仕方のないことと諦める。それを掟と言って諦める。

 それどころか聖域にその身を喰わせると言うではないか。

 掟とは何かと巡らせば、思い当たるのはただひとつ、神。

 こんなにも心を込めて仕えているというのに、女神はカノンに聖域の餌となれと言うのか。

 神の言う、聖域の言う、カノンの言う、正しいこととはいったい何か、サガには解らない。

 カノンが言った狼がサガであるということすら、サガには解らなかった。



 泥団子は翌朝真っ二つに割れると知っているのに、雨上がりには必ず丹誠込めて作り上げる。

 それほど阿呆ではないから、二度目に泥団子が割れたとき、それは必然なのだと悟った。

 どれだけ一生懸命作っても、泥団子は翌朝必ず割れるのだ。

 けれどそれでも作るのは、泥団子が割れたとき、サガがまた作ろうねと言うからだ。

 どうせ割れてしまうとサガも解っていたが、カノンが哀しげだから言ってしまう、また作ろうね。

 またふたりで作ろうね。

 雨上がりには泥団子を作ろうね。

 丁寧に丁寧に泥団子を作ろうね。

 それは結局真っ二つに割れるのだけれど。



 泥団子は結局どれだけ綺麗に作り上げたとしても、泥に過ぎない。

 形を整え、白砂をまぶしたところで、中身は泥に変わりない。

 そして脆くも乾いて割れて崩れてしまうのだ。

 けれど何度も何度もバカみたいに泥団子を作り上げる。

「サガ」

「どうした?」

 椅子に座ったサガの髪にカノンが顔を埋める。

「最近俺がサガと呼んでも何も言わなくなったな」

「何か言って欲しいのか?」

「言われなくなると、それはそれで寂しい」

 サガは笑った。

「寂しい、か」

「寂しいよ。兄さんは本当はどう呼ばれたいの?兄さん?それともサガ?」

「お前の好きなほうで」

「じゃあ併用する。兄さんと呼びたい日もあれば、サガと呼びたい日もあるから」

「それではお前が私をサガと呼んだ日には小言を言おう、お前が寂しくないように」

 手を回してカノンの髪を撫でれば、カノンは小さく笑った。

「今日は兄さんで決まり。今日は寂しくないよ、兄さん」



 でもほら、翌朝やっぱり泥団子は真っ二つに割れるのだけれど。










雨上がりダンス