くせっ毛
「おい、ククール。いい加減にしろ」
そう云いながら洗面所を覗いたが、まだククールは鏡の前に立ったまま動かない。
解けた長い髪の、その一房を何度も何度も梳いては悪態をついている。
「レストランの予約時間に間に合わんぞ」
私は寝癖を必死に直している弟に溜息を吐いた。
整髪料か何かで直せば良いのに、それは手触りが嫌だと断固拒否。
「くそっ。どうして兄貴が誘ってくれた日に限って、へんなところに寝癖がつくんだよ」
私へのイヤミか?と一瞬口にしそうになってやめた。ここは建設的にいこう。
「いつものように結べば解らん。早くしろと云っているのが聞こえないのか?」
「いやだ。結んだって絶対へんに撥ねてるの解る」
誰もそんな所を見やしないと云ってやりたかったが、
この顔だけは人並以上の弟には不適当かもしれない。
「ククール」
「…じゃあ兄貴、先行って食べててよ。追っかけるからさ」
ククールは云いながらもまだ格闘。どうやら髪を直すのを諦める気はないらしい。
「…解った」
私はやれやれ洗面所を後にして、予約キャンセルとピザ注文の電話を掛ける。
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ボール遊び
ポケット・ビリヤード、9Ball。
「なあ、賭けない?」
ククールがキューを肩に掛けながら、マルチェロを見やった。マルチェロは「何を?」と問い返す。
「今夜の上下。ていうか、タチとネコ」
その言葉にマルチェロは口許を上げた。黙ってブレイク。
ククールは9番ボールを視線で追いかけ、口笛。
「ブレイク・エース」
かなわないねとキューを置く。そうしてマルチェロの手にくちびるを。
「キング。あなたのお望みは?」
「お前がネコで上だ」
「わおそりゃたまらない」
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指輪
マルチェロが帰宅すると、ククールがソファに寝そべって雑誌を捲っていた。
ネクタイを緩めて、なんとなしに見やれば突然振り向く。
「なあ、兄貴的にはどれがいいと思う?」
ククールは雑誌を広げて見せた。女用のトゥーリングが並んでいる。
「…お前がつけるのか?」
呆れてそう問うたら、いや可愛い子ちゃんにプレゼントと答えるので、また呆れる。
「でも俺もつけてもいいかも。シルバーのごっついのとか」
もしも俺がこの中でつけるとしたらどれが似合うと思う?と云うので、その足首を取って高く上げた。
「何するんだよ」
「何が似合うか見てやっているのだ」
じっくりと足の指を眺め、見詰める。くすぐったそうに指が動いた。
ククールが何か文句を口にしようとする。それを遮ってマルチェロはその指に接吻けを落とした。
やわらかに、密やかに。
ばさりと雑誌がククールの胸に落ちる。
「お前にはこれが一番似合う」と接吻けたまま囁けば、ククールの足指がぴくんと跳ねた。
「嫌か…?」
ちゅうと吸いつく。そこで陥落ククール。
「似合いすぎて怖い」
どうせならもっとくれと左手を差し出した。
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発表会
数日間留守にする、とマルチェロが夕食を取りながら云ったので、
ククールはトマトサラダを突き刺そうとしたフォークを止めた。行儀が悪いと怒られる。
「何処かに行くの?」
サラダを結局口の中に押し込んで問う。何のことはない、学会出張だと答えた。
「へえ。いいね。俺も行きたい。最近暇でさ」
特に期待を込めて云ったわけではなかった。当たり障りのない言葉を選んでみただけ。
けれどマルチェロはあっさりと許した。
「かまわんぞ」
驚いたのはククール。
「え」
「丁度学生の手が足りないと向こうの教授が嘆いていてな」
ああ、なんだ、そういうこと。
「…あのぅ、バイト料は?」
一応聞いてみたが、「誰がお前の旅費を出すと思っている」と一喝。
「お前に支払う報酬よりも、旅費の方が高い」
兄が小さく愚痴ったのでククールは笑った。
「じゃあさ、差し引き分は体で払ってやろうか?」
なんて意味ありげに目を細めて見るが、「そんな安いホテルではない」
嗚呼、撃沈。
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異常気象
ふと見ると、マルチェロの座るソファに一人分のスペースが空いていた。兄は黙々と読書に耽っている。
なのでククールも黙ってそこに腰を下ろしてみた。
手が伸びてくる。肩を取られ、抱き寄せられた。
兄はまだ黙って読書中。だからククールも黙ってマルチェロの肩に頭を預けてみた。
やっぱり兄は本を読む。弟はなんのこっちゃと思いながらも目を瞑る。
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家庭教師
「なあ兄貴。死に至る病を書いたのはキルケゴールだよな?」
ククールはくるりとペン先を回しながら、傍のソファに体を横たえニュースを見ている兄に問うた。
「そうだな」
微かに頷くマルチェロ。
「じゃあさ、法の哲学書いた人がモンテスキュー?」
「違う」
「…あれ。…ああ、モンテスキューは法の精神だったっけ?」
「中学でそう習わなかったか?」
マルチェロの眸がついっとククールへと向けられる。ククールはむすり。
「ていうか結局法の哲学書いたのは誰なんだよ」
「答えを教えては勉強にならん。自分で調べろ」
マルチェロの視線がまたテレビへ戻る。
ククールは次から次へと適当に人名を挙げ始める。
「じゃあ…」と「違う」を繰り返して13回目、「じゃあヘーゲル?」
そう疲れきった声で答えたククールにマルチェロは「よくできました」とイヤミったらしく笑んでみた。
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友達以上恋人以下
マルチェロに女の子を連れ込んだことがばれて、うんざり。
アンタのベッドは使ってないよ、と云っても怒る。使った方が良かったのかよ。
別に本命の彼女とかじゃないからと云ってもまた怒る。
いったい何がそんなに頭にくるんだろ、とマルチェロを見ながら考えて、
「ははーん。アンタ、なに、妬いてるの?大人の嫉妬って子供じみてるよね」
と云ったら、三日間徹底的にスルーされた。
まあそういうところがアンタの大人げないところで、可愛いところなんだけどね。
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本
ソファでごろりと横になり哲学書を読んでみるククール。偶には真面目に学業本業。
そこへやって来てマルチェロ、ぎしりと片膝をソファへと乗り上げた。
不満声ククールの腕を掻い潜り、本とその顔の間に侵入。
意地っ張り弟は兄の肩越しに哲学書を読んでやる。マルチェロはかまわずくちびるにくちびるを寄せた。
そのまま触れて、合わせて、重ねる。僅かに震えるククールの腕。更にくちびるは深く深く。
そこでついに本を持った手が床へと落ちる。
その腕をマルチェロの大きな手が辿り、骨張った長い指に指を絡められたら、バサリ床に落ちる哲学書。
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自転車の旅
「もっとしっかりこげ」と後ろの荷台に腰を下ろしたマルチェロは偉そうに云った。
道は坂道。深夜道。自転車をこぐ俺はゼイゼイ息を荒くする。
なんだってコンビニは坂の上なんかにあるんだよ。
「だいたいお前は」
体力がないとか、日頃だらけた生活を送っているからだとか、
肥満で高血圧・糖尿病になっても知らんぞとか、それは心配してくれてるのかイヤミなのかどっちなんだ。
ぐらぐら、ぐらぐら、蛇行運転。
「もっとしっかり進め」
お前の人生のように進むなって、それイヤミ?と聞いたら「事実だろう」と云われた。
コンビニでは俺絶対金払わないと決めて、ペダルを漕ぐ。
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危険
歩道もない、ガードレールもない道路。
バッタリ偶然帰りに出会ったふたりは黙々と並んで歩みを進める。そのとき突然背後でクラクション。
「なんだ?」と振り返ったククールの腕をマルチェロは思いっきり自分の方へと引っ張った。
軽くつんのめったその背を速度違反車が通り過ぎる。
「うわ、危ねえ」
舞い上がった髪を押さえてククール。さっさと体を離してマルチェロ、
「危ないのはお前だ」
あのタイミングで振りかえる奴があるか、と云う。
「いやでも普通は振り返るもんだと思うんですが」
「そういう人間が映画冒頭シーンであけっなく死ぬのだ」
なんかへんな例えだと歩き出して、ふと気付く。ふたりの位置が逆転。車道側にはマルチェロ。
「うわー、俺今すげえ腕組んで歩きたい」
ククールがマルチェロの袖を引っ張る。
「不気味なことはやめろ」
マルチェロが振り払う。
そんな帰り道。
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フラワー
なんかお土産買って来て、と確かにククールは出掛ける前の兄に云った。
別に出張でも何でもない日に何故土産など買って来るのだと兄は眉間に皺を寄せたが、
「なんかあったかくていいじゃん、そういうの」と云うと兄は黙って仕事へと出掛けて行った。
そうして今ククールの目の前に差し出されたのはガーデニングの本。
「なんですか、これ」
問うとマルチェロはネクタイを緩める。
「お前は文字も読めないのか?」
「いや、猿以下でも分かるはじめてのベランダガーデニング…って」
タイトルをそのまま読む。マルチェロは満足そうに頷いた。
「土産だ」
「…こういう場合、普通花を買ってくるだろう。なんでこんな回り道…」
ガーデニング本をぱらぱら捲る。だいたいわざわざタイトルに猿以下でもっていうのはイヤミだろう。
「花とか育てられるのかね、俺…。水遣りとか適当じゃダメなんだよな…」
そんなククールの横顔を見て、更にマルチェロは満足げに口端を上げた。
「温かくて良いだろう、こういうの」
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おにごっこ
午後10時過ぎ、マルチェロが研究室を出ると、見慣れた銀髪が目に入った。
扉の横の壁に背中を預けているのは、ククール。
「ここはお前程度の頭の奴が来るところではないぞ」と云うと、
ククールは脚の間に降ろしていた荷物を持ち上げた。どうやら大学の帰りに直接寄ったらしい。
「アンタさ、最近夜遅いから。会いに来ちゃった」とにっこり微笑む。
「家にいたら嫌でも顔を合わせるだろう」
マルチェロは研究室に鍵を掛け、歩き出す。
「おかしいな。今ので確実に俺5人以上は女の子落としたのに」
ククールは首を傾げながらマルチェロの横に並んだ。
「俺3時間くらい待ちぼうけ。腹減った」
「お前が勝手に待っていたのだろう」
「だってアンタ帰って来ても風呂・飯・寝るだろ。俺がないじゃん、アンタの生活に」
飯くらい一緒に食おうよと云う。
「あ、別に風呂でも寝るでもいいんだけどさ。さすがにそれは体力的に悪いかな、なんて」
ククールがでへへと笑ったので、マルチェロはとりあえず頭を軽く殴っておいた。
「明日は来るなよ」
「今日一緒に飯食ったら明日は来ない。明後日また来る」
「明後日も来るな」
「明日一緒に飯食ったら明後日は来ない。でもその次の日は来る」
夜の廊下に兄弟の声。
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機能停止
マルチェロが自室でデスクトップパソコンに向かっていると、
「なあなあ、兄貴。兄貴的にはたこやきはソース派?それともネギポン…っあ!」
ドアを開けて入って来たククールが何かに足を取られて、ドテッ。
マルチェロの見ている前で液晶画面ブツィン、真っ暗。
「…あの…抜けてます…」
ククールはおそるおそるパソコンのコンセントを兄の前に差し出した。
「抜けているのではなく、お前が強制的に抜いたのだろうが!」
「あわわ、ごめん…!」
「どうしてくれるのだ、共同執筆本の原稿がパアだ」
そう云われてはククールにはどうしようもない。マルチェロは溜息を深く吐いた。
「ククール、こっちへ来い」
「な…殴る?」
「殴っている暇があれば殴るが」
立って、空いた椅子にククールを座らせる。ククールは首を傾げるばかり。
「良いか。これから私が喋ることを正確に打ち込むのだ。解ったな?」
パソコン起動。
「そんな」
「では行くぞ。現在の国際情勢について」
ぺらぺら。
「あああ、早いっ、兄貴早いって。第三時欧羅巴軍縮会議においての議事録に…」
おたおた。
「…次だ。時ではない。…で、たこやきがなんだって?」
「あ、たこやきって打っちまった」
「バカが…」
兄弟初の共同作業。
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ハッピーバースディ
知っているかい?とククールは云った。
「誕生日ってのは両親に感謝する日なんだ。
お父さん、お母さん、ありがとう。出会ってくれてありがとう、生んでくれてありがとうってな。
でもさ、きっとアンタのことだから親父には絶対感謝しないだろうし、
お袋さんにはどうかな、アンタあんまりそういうこと話さないからわかんないけど」
知っているかい?とククールは微笑んだ。
「俺はね、実はアンタが大嫌いな親父と顔も知らないけどアンタの母親に感謝してるんだ。
どんな出会いがあったかも知らないし、アンタの母親は不幸だったかもしれない。
アンタも辛かったかもしれないし、苦しかったかもしれない。
けど、俺は傲慢にも親父とアンタの母親にありがとうって思ってる。
ふたりがいなきゃ、俺に兄貴はいなかった。
神さまになんかじゃない、親父とアンタの母親に感謝します。
今このときこの瞬間に、アンタという人を俺の前にあらせてくれたこと、心から感謝します。
生まれてきてくれてありがとう、マルチェロ。
来年も、いいや明日も、俺はアンタがいることをアンタと親父とアンタの母親に感謝してるよ」
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また明日
互いの帰り道に待ち合わせをし、偶の外食。煩い街を歩いて、お小言とくだらない会話。
曰く「洗濯物取り込まなきゃ」やら「風呂沸かさなきゃ」やら。
漸く家に辿り着いて玄関の鍵をがちゃり、リビングのソファに鞄を放り出す。
衣服を乱暴に脱がし合う。指を絡め合う。くちびるを重ね合う。舌を交ぜ合う。
洗濯物もお風呂も部屋の明かりを点けるのも、また明日。ついでに小言もまた明日。
今はふたりでやらしいことがしたいの。
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英語
マルチェロはククールが差し出したTOEICの成績表を一目見て、思わず呻いた。
「…なんだこれは」
「そこに書いてあるだろ。TOEICの成績表だって」
「そういう意味ではない」
べしっとククールの頭を叩く。
「この私が見たこともないような点数は、どういうことだと訊いているのだ」
「なにそれ、自慢?…っいて、いちいち叩くなよ。アホになったらどうするんだ」
「これ以上落ちぶれることが出来るなら、やってもらおうではないか」
「いや待って兄貴。それは俺の実力じゃないんだ」
「…ほう?というと?」
「うん。実はリスニングがあまりにも眠たくて爆睡してたら、試験終わってたんだ」
そこでてっきりポカっとくると思いきや、マルチェロは静かだった。
「あの…怒らないの?」
「ククール。私とて偶には時間を非有効的、つまり非効率的に使いたいときもある」
「はあ…?」
「つまり呆れて物も云う気にならん!いっそ留学でもして来るか?」
「えっ。それは勘弁!俺、兄貴と離れるのはノーグッド!サッド!アイラビューン!」
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ドロップ
教壇に立つマルチェロが発する声以外に学生がほぼ席を占める教室に響く音があった。
飴玉を咥内で転がす音。それもこれ見よがしに舐めている。
マルチェロは大学校内では見慣れない銀髪を教室の最後列に認め、講義を中断した。
「私の講義においての飲食については確かに言及していなかった」
他の学生が飴玉を転がす音がする方へと振り返る。
「それは今までそのようなことをする学生がいなかったからであるが、
その点の私の怠慢は認め、学生諸君に詫びよう。改めて云うが」
この講義において飲食は一切禁ずる、マルチェロは銀髪の学生を顎で杓った。
「見かけない学生故、名は知らぬが、君、今すぐ飴を出すか退出したまえ」
云うと、銀髪学生は肩をすくめて飴玉を舌の上に出す。但し席についたまま。
再び咥内に飴をおさめて学生、「出しましたよ、センセ。これでいいですかー?」
珍しくざわつく教室。
マルチェロが退出・研究室への呼び出しを言い渡すと、銀髪学生は漸く席を立って出て行った。
***
「舐める音出すの上手だろ、俺」
研究室の壁に背を預けたククールは睨むマルチェロの視線もなんのその。
「今日授業なくて暇だから来ちゃった。学食で昼飯奢ってくれよ、なあセンセ」
|
緊急事態発生
学会出張先のホテルでのこと。
ふとテーブルに置いたままの携帯電話に明かりが灯っていることにマルチェロは気付いた。
どうやら知らない間に着信があったようで、それを知らせるかのように点滅しているアクアブルー。
開いて着信履歴を見れば、約1時間前に見慣れない数字からの着信有り。
その11桁は見慣れはしないが、全く知らない番号でもない。ククールだ。
滅多に電話を掛けて来ないのは彼なりの意地なのかプライドなのか。
マルチェロは発信ボタンを押し、携帯電話を耳へやった。
ククールはコール9回で出た。へんな意地だとマルチェロは笑いたくなる。
「どうした。小火でも出したのか?」
開口一番そう云うと、弟は電話口で見事に拗ねた。
『俺ってそんなに信用ないのかよ』
「あるとでも思っていたのか」
手近のソファに腰掛ける。
『あるから、一人でお留守番させてんだろ』
確かに。マルチェロが珍しく内心頷いていると、『なあ、いつ帰って来るの?』と弱気な声
「三日後だ。メモに書いてあっただろう」
足を組む。その耳に届いた言葉は、
『…早く帰って来て』
甘えるようでなく、ただマルチェロを求める消え入るような声だった。
***
「で、私の仕事を1日早く切り上げさせた理由がレポートの手伝いのためとは、覚悟はいいな?」
|
身長差
ワイシャツの袖を捲り、洗い物をしているマルチェロの背に寄ってククール、
「なあマルチェロ」
そう云うと僅かに振り向く横顔。
「珍しく手伝いに来たのか?」と声が耳に降るが、そこはあえて無視。
ククールは少々高い位置にある兄の顎を指先で撫でる。
「目、瞑って」
だが兄は弟を見下ろしたまま、何故だと問う。
口許が笑っているので、からかわれていることくらいククールだって知っている。
「…こういうときは、目を閉じるものだろ?」
蛇口が捻られ、水の音が止む。
マルチェロが更にククールの方へと首を回したせいか、顎に沿えた指が外れる。
代わりにマルチェロの指がククールの顎を取った。濡れた親指でくちびるを撫でられる。
息がくちびるから漏れた。
「目を瞑れ」とマルチェロが云う。なんでだよとククールが返す。
「こういう時は目を閉じるものだろう?」
マルチェロの息がククールの濡れたくちびるを刺激した。
「あーあ、ほんとは俺がしたかったのに」
キスの合間のブレス。
「大きくなったらさせてやっても良い」
マルチェロの漏らした小さな笑いがくちびるを介してククールに伝わる。
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ビデオ鑑賞
深夜に目を覚ましたマルチェロは水を飲もうとベッドを立った。
そのキッチンへ行く途中、明かりを落としたリビングに発光体。テレビだった。
見ればククールがソファに寝そべりながら気怠げに視線をやっている。
マルチェロに気付いてククールは見る?と目で云った。
マルチェロは何を見ている?とまた目で返す。5秒にも満たないやりとり。
ククールはテーブルに置いてあったパッケージを取り上げて、口端を悪戯っぽく挙げた。
「エロビデオ」
その答えにマルチェロは溜息。
「低俗な」
「いやいや、健康な若い成人男子としては偶にはこういうものを見ないと」
ククールはそう云って上体を起こした。その隣には人一人分の空間。解いた髪がさらりと零れる。
「一緒に見ねえ?兄貴も健康な若い成人男子だろ」
そこがマルチェロを誘っている。なので素直に腰を下ろしてみた。
すぐにククールの両腕が首へ絡みついてくる。
「あん。ダメ。俺、エロビ見てるから今イケナイ気分なんだよなあ」
「このビデオ見るのではなかったのか?」
マルチェロの体重がククールへと傾く。
「俺の方が鑑賞し甲斐あるよ。知ってるくせに」
ククールの小さな笑いはマルチェロの舌に掠め取られた。
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パーティー
いつものようなある夜のこと、
仕事から帰って来たマルチェロは無遠慮に舐めるようにして俺を見て云った。
「今週の日曜日に服を買いに行くから空けておけ」
いやまず普通は空いてるか聞けよ。俺は首を傾げた。
「買うって俺の服?アンタが買ってくれるの?」
そう云うと兄はそうだと頷いた。珍しい、金は持っているのにケチな兄貴が。
俺はわざとらしく兄の腕に手を絡めてやった。
「それってデエトのお誘い?」
必殺上目遣い、けれど腕はあっけなく払われる。なんなんだよ、アンタ。
そんな俺に構わず、マルチェロはソファにどっかり脚を組み、見上げてくる。
「その誘いは来週の日曜日にしてやる」
はあ、よくわかんね。という顔をすると兄は続けた。
「まあ少し集まりがあってな。お前はそういう場くらいには役立ちそうだ」
それは誉めてるのか、役立たずと云いたいのか、せめて華があるとか云えこの野郎。
「そんで、そういう場に相応しい服を買ってくれるんだ?」
「そういうことだ」
云って、マルチェロはまた俺を爪先から顔、髪の先までじっくりと見詰めてきた。
そして眼がすいっと細まる。それはお気に入りの本の表紙を開くときの眼とすごく似ていた。
「そうだな。お前には黒が似合うだろう。ごてごてしたアクセサリーは不要だ」
ああくそダメだ、俺の負けです。今週の子と来週の子に断りの電話を入れるに天秤は傾いた。
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かくれんぼ
ちょっと出て来ると云って兄が外出して時計の長針が一回転と少し。
部屋着だったし、ちょっとと云っていたし、きっと近所の本屋かコンビニか、
たぶんそんなところだろうと思っていたククールはそわそわと上着を羽織った。
俺もコンビニ行こうなんて言い訳を部屋に残しても聞く者はいない。
まずは予定通りぶらぶらと行きつけのコンビニへ。
特に欲しくもないホットの缶コーヒーを買って、レジの女の子にウインクひとつ。
さりげに兄が来たかを問うても色好い返事はなし。缶コーヒー代を無駄にした。
次に近所の小さな本屋を覗き見偵察。顔見知りの店員のおねえさんに笑顔を振り撒く。
けれどお兄さんが予約していた本を丁度いいから持って帰ってと云われて、ここも無駄足。
ふたりで外出した帰りによく寄る喫茶店にも姿なし。
仕方なく帰途について、もやもや気分。なんでこんな重い本持っちゃってんだよ、俺。
そうしてふと視線を右にして、こちらへやってくる人物の姿を認め、ククールはくちびるを尖らせた。
「アンタ、何処行ってたんだよ」
「図書館だが?」
兄は急ぐでもなくゆっくりとした足取り。ククールの前で止まる。
「私を探していたのか?」
「探してない」
そう云ってぷいと横を向いたククールをマルチェロは口の端を上げて笑った。
ククールが持っていた本を取り、もう片方の手の中の缶コーヒーに指で触れる。
「その割には、その缶コーヒーが随分と冷めているようだが」
うるせーと云ってみてもきっと誤魔化しきれない。
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手を挙げろ
ソファで新聞を読んでいると、「手を挙げろ」という声が頭上から降ってきて、私は顔を上げた。
目の前にはクラッカー。紐の先にはククールの手。
「何の真似だ?」と問うても、今日は妙に強気の「うるさい。黙れ。撃つぞ」
「新聞を置け」と云われたので、とりあえず最後の頁まで読み切ってから置く。
これで良いだろうと視線を上げるが、「手、挙げて」を繰り返す。
そういうわけで私は仕方なく手を軽く挙げてやった。
ククールがクラッカーを放る、暴発したらどうしてくれるこの阿呆が。そうして膝の上。
腰には脚を、首には腕を絡められ、「まだ手は下ろすな」とククールは私の首筋に噛みついた。
されるがまま、体を傾けられるままに私はソファの背凭れに体重を掛ける。
「マルチェロ」
ククールの鼻先が鼻先に触れる。
「なあ、今俺すげえしたいの」
くちびるが傾く。
「邪魔したら怒るからな」
熱い吐息が私の乾いたくちびるを濡らした。
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受付
兄のノートパソコンをこれまた兄のベッドの上に引っ張り出し、旅行案内サイトをサーフィン。
風呂から上がって来た兄が溜息を吐いたようだったが、そのへんはいつものようにスルー。
なにせパソコンを無断借用していることについてなのか、それともベッドのことについてなのか、
判断がいまいちつけ難い。
「なー、旅行行かね?」
「云うと思った」
兄の重みがベッドに加わる。
「じゃあ話は早いな。何処にする?」
「まだ行くとは云ってない」
「じゃあ行くとしたら、兄貴は仕事だし俺は学校だから、一泊二日くらいがいいよなあ」
「行くとしたら、だ」
電気スタンドの明かりが消える。部屋の明かりはパソコンだけ。
「電車の旅ってなんかいいよなあ」
「一泊二日しかないのに?」
「じゃあ車にしよう。兄貴の横、乗っけてもらいたいけど、俺が運転しても良いし」
「お前の運転なんぞ怖くて乗れん」
「えー、女の子とかけっこう乗せてるから大丈夫だぜ」
そういうわけで車で行こうということになり、マルチェロは止めた。
「待て、まだ行くとは云っていないぞ」
「でもさ、今週末のこの宿空いてるし丁度良いじゃん」
「私の予定はどうなる?」
「別に今週末予定入ってないだろ。俺知ってるもんねー」
画面が宿の予約受け付け画面に切り変わる。
「お前、私の手帳見たな?」
「浮気チェックにね。って、頭叩くなよなーってあー!」
「煩いな、いったい何だ」
「…今兄貴が叩いたせいで予約完了ボタンクリックしちゃった」
「イカサマはもっと上手くやるものだ」
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ゴールイン
車を割り振られたマンションの駐車場に止め、マルチェロはエントランスへ続く扉へと向かう。
腕時計にちらりと目を落とせば、21時少し前。鞄には学生たちが提出した読書レポート。
夕食・入浴の後に少し目を通しておこうと考えながら、自動扉を潜りエレベーターへ。
△を押し、しばらくして降りてきたエレベーターにはマンション住人と飼い犬。
これから散歩に行くのだろうと思いながら軽く会釈。
エレベーターに乗り込んだならI、
けれど扉が閉まる寸前にOL風の女性が走ってくるのが見え、扉を開けて待つ。
ありがとうございますの一言に、愛想笑い。彼女が降りる際には「開」を押すのは忘れずに。
そうして十階。エレベーターを降りて、廊下を歩く。直進の後、右。
そこには一枚の扉。何の変哲もないこのマンションに溢れる扉の一枚。
マルチェロは鞄を持たない右手を伸ばし、ノブを回した。扉を開けば、少し空気が暖かい。
廊下の明かりは落としてある。そのせいか廊下の先に続くリビングが明るく見える。
靴を脱いで、奥へ。もう一枚ガラス戸を潜ればキッチンとリビング。そして夕食を作るククール。
「おかえりー」
ククールがシチューを盛りながら振り返る。
マルチェロは完成しかけの夕食が並ぶテーブルに鞄を置き、ネクタイを緩めた。
そこでククールが悪戯ぽく小首を傾げる。
「先に夕食にする?風呂?それとも俺?」
マルチェロは少し笑んだそのくちびるのままククールに接吻けを落とした。
「お前にしよう」
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