煙草
マルチェロが帰宅するとククールがカウチに転がっていた。そのくちびるは煙草を咥えている。
マルチェロの机の引き出しから取ったものだとすぐに知れた。
「最近アンタ帰りが遅いよ」
煙草が揺れる。
「俺、また悪い子になるよ」
火は付いていない。
以前マルチェロが健康面への配慮から厳しく煙草をやめるようにと云って以来、ククールは煙草をやめた。
火を点ける勇気もないくせに。マルチェロはそのくちびるから煙草を取り上げた。
「お前はただ口寂しいだけだろう」
「知らね」
ククールは子供のように両腕を伸ばす。「でも、そーかも」とも云いながら。
マルチェロはその腕を自らの背中に回してやりながら、ネクタイを緩めた。
「兄貴、明日は?」
その問いに「休みだ」と答える。それから続けた、「このままでいいか?」
「俺の答えなんて必要ないくせに」
ククールはキスをさせてと顔を傾けた。
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電波
ふたつにひとつ。電源が入っていないか、それとも電波の届かないところへ行ったのか。
ふたつにひとつ。説教か完全無視か。
ふたつにひとつ。
通話画面から待ち受け画面に早代わりした携帯電話のディスプレイは深夜一時半を教える。
マルチェロはふんと鼻を鳴らして、さっさと寝るを決め込んだ。
その五分後に着信有り。
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廃墟
俺たちは腹違いの兄弟だ。
なかなか子供が出来なかった俺の母親へのあてつけに、親父が兄貴の母親に兄貴を生ませた。
それから何年も経った後、俺が生まれて、兄貴は家から追い出された。
やはりそれから何年も経った後、両親が借金を残して死んだので、俺は兄貴の許へ身を寄せた。
兄貴はてきぱきと親父の遺産と借金を片付けて、
不本意ながらかもしれないが俺に住む場所と飯、教育を提供してくれた。
そんな兄貴は時々ふらりと姿を消す。
そこは俺たちの生家だった。一緒に暮らしたことはないけれど。
僅かに残された家具には布が掛かっていて、窓を開け放っても埃っぽさは否めない。
兄貴は布の上からソファに深く腰掛けていた。
古びた洋館は昼の今はそれなりに趣があるが、夜はお化けでも出てきそう。
兄貴はこの家だけは売らなかった。そうして時々俺に黙ってここに来る。
俺は何も云わなかったけれど、さぞ非難めいた顔をしていたのだろう、兄貴は云った。
「私はここに座っているときこそ、お前と向き合っている気がするのだ」
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着信拒否
ここ床なんだけどな、ククールはマルチェロにキスをされながら思った。
背にはカウチ。目の前にはマルチェロ。
興が乗っているのか、いつもより接吻けが激しい。しかし曲者はその手。
ククールに脚を開くように促し、閉じられないように身体を入り込ませてくる。
だが曲者はククールの携帯電話。突然クラシック曲を演奏が始まる。曲名は知らない。
マルチェロは眸をついと床に放り出されたままの携帯電話に向けた。
返した眸でククールに「良いのか?」と問う。
接吻けが緩やかになってやや不満。
かまうもんか。ククールは反転攻勢に出た。
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空メール
「兄貴、今兄貴のケータイにメール送ったから」
ククールは夕食の後片付けをしていたマルチェロの背に声をかけた。
マルチェロはテーブルを拭いていた手を休めず、返す。
「口頭で用件を云えばいいだろう」
「いや、俺メアド変えたから」
そう答えると兄は納得したらしい。
ククールはリビングのカウチに寝転がり、
メールアドレス変更メールを送信する友人を電話帳の中から選別し始める。
しかしマルチェロが家事を終えても、いつまで経っても携帯電話を取らないのでククールは首を傾げた。
「メアド、更新登録しねえの?」
「電話番号は変わっていないのだろう?」
問われて頷く、「うん、一緒」
ではかまわない、とマルチェロは夕食前に読んでいた文庫本を取り上げる。
そういえば兄はいつも用事があるときは電話を掛けてくる、ククールは納得半分不満半分。
「でもさ、もしかしたらメールする用事があるときは困るだろう?」
「受信メールの何処かにはお前の内容もないメールが必ずあるから困らない」
そういえばつい昨日「迎えに来て」メールを送ったなとククールは引き下がる。
もちろん返信された形跡はひとつもない。
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自販機
あまりの暑さにククールが自販機の前に立ち止まり、
良く冷えたスポーツドリンクのボタンに指を伸ばしたときのことだった。
後ろから唐突に伸びてきた指が冷たいコーヒーのボタンを押す。途端、がたん・ごろごろ。
取り出し口には冷たい缶コーヒーが現れる。
ククールは振り返って大いに憤慨した。
「あーーーにーーーきぃ!」
その兄は素知らぬ顔して取り出し口から缶コーヒーを取り上げる。
プルトップをぷしゅ、喉がごくごく。
マルチェロはそこで漸くククールに缶コーヒーを手渡した。
「私はコーヒーの方が好きだ」
「じゃあ、自分で買えよ」
ククールはぶつぶつ。
「その半分くらいが丁度良い量なんだ」
マルチェロの云う通り、コーヒーは半分だけ残されていた。
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電子音
深夜に帰宅し、リビングの戸を開けると明かりはあったが、あいつはいなかった。
もう眠っているのだろうと思いながら、ネクタイを緩める。
すると唐突に電子音。すぐに電子レンジの音だと気付いた。
開けてみればグラタンが食欲をそそる匂いを纏って私を待っていた。
寝室へと足を運ぶ、何故か私の寝室だ、眠っているのはあいつだというのに。
「寝た振りか?」
私が問うと、「寝てた方が、キスしてくれるから」
ククールはくちびるの端を上げて笑った。
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排気ガス
マルチェロが煙草の煙をククールに吹き付ける。けぶる世界でククールは不満顔。
「体に悪いにおいがする」
そもそも歳が離れた兄弟だ。
「わざわざ寿命縮めんなよ」
云われてマルチェロはククールのグラスを煙草で示す。アルコール度数だけは高い酒。
「わざわざそれ以上脳みそを溶かすな」
お前が腑抜けなればなるほど煙草の量が増えるのだとマルチェロ。
「兄貴が早死にするんじゃないかと思えば思うほど、酒の量が増えるんだ」
そう云ったククールの顔に再び煙草の煙。
「泥沼だな」
マルチェロは灰皿に灰を落とす。
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近い空
待ち合わせ。
予定時刻の10分前、マルチェロは地下鉄の3番出口へと続く階段を上がる。
だが不意に空から降って来た声に顔を上げた。
「あにき。おせーよ」
陽光がその髪に弾む。
マルチェロは階段を登りきったところで、漸く口を開いた。
「そんなに私に会いたかったのか?」
「…兄貴だって約束の10分前に来るくらいには俺に会いたかったくせに」
少し負け惜しみにも聴こえるのは尖らせたくちびるのせい。
マルチェロはそのくちびるにキスをしたいと思った。
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廃棄物
酒をたらふくかっ食らったククールはついに路上へと座り込んでしまった。
丁度明日は可燃ごみの日だとマルチェロはククールを捨てるに決め込んだ。
「待ってくれよ兄貴」
星が幾つか灯る空を仰ぎながら、
「俺を捨てないでくれよ兄貴」
けれど顔は掌で覆いながら、
「兄貴に捨てられたら俺は生きていけないんだ」
時に込み上げる嘔吐感をやり過ごし、
「具体的には兄貴がいないと金もねえ、寝床もねえ、飯もねえし、好き勝手に遊べねえ」
時に鼻の奥がつんとする感覚を我慢する。
「だから俺を捨てないでくれよ」
そういえばこの大きさからして粗大ごみかもしれない。
マルチェロがククールを見下ろすと、
ククールは顔を覆うとは反対側の手を伸ばし、ぎゅっとマルチェロの服の裾を掴んだ。
「兄貴に捨てられたら、俺はひとりぼっちだ」
とりあえず家まで持ち帰り、捨てるのはサイズを測ってからにしよう。情状酌量・執行猶予。
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虚言癖
携帯電話でメールを打ちながら、
「あーもー兄貴なんて大っきらいだ」
そんなククールの向かいで新聞を読みながら、
「そうかそうか、ならば今日からでも出て行ってくれてかまわんぞ」
互いに聴き慣れた嘘。
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