未来への階段
世界の果てへと続く空以外何もない荒野に死にかけのククールを見つけたのは、
あれから二年の月日が経ったある平凡な晴天の日のことであった。
人は勿論魔物も通らない不毛の大地に、奴はぽつんと落ちていた。倒れていたと云うべきか。
近寄って見下ろしてみると、聖堂騎士団は辞したのか騎士服ではなく、旅人のけれど派手な服装。
腰には剣。
顔に私の影が掛かると、彼は如何にも億劫げに眸をもたげた。
「何をしている」と私は問うた。
するとククールは「死にかけてる」と答えた。
だから「どうして死にかけている」と尋ねた。
「命が終わりかけているからじゃねえの」
ククールはそう云って笑った。
それはそうだなと妙に納得した。納得したところで、踵を返す。
背に「元気そうだな」と云われた。
お前は元気そうではないなと歩きながら云い捨てた。
「だって死にそうだもん」
またククールは笑った。
ある平凡な晴天の日、私たちはそんな妙な再会を名もない荒野で果たした。
|
過去への依存
翌日もククールは荒野の真ん中に落ちていた。近寄って見下ろす。
「まだ生きていたのか」
「そうみたい」
ククールは今日は私の影が顔に落ちるとすぐに眸を開けた。空が映り込んで青い。
「いつ死ぬのだ?」
「知らねえ」
「まだ死なないのか?」
「まだ」
「まだか?」
「まだ」
「…まだか?」
「まだ」
「……まだか?」
「まだ」
「…………まだか?」
「まだ」
「……………………いつ死ぬんだ?」
「知らねえって」
ククールはアハハと笑った。
だらりと落とされたその手には指輪が見えた。私が捨てた指輪。かつての全て。
なあ、とククールがふと笑んだままの眸で私を見据える。
「今なら一突きだよ」
指輪が陽光を反射する。
私は昨日と同じように踵を返した。
「お前をこの手で刺したとしても、過去は何一つ変わらん」
「もう俺は用済みってわけだ」
明日も来てねとククールは云った。
|
正義と悪
ククールは昨日と変わらず仰向けに倒れたままであったが、眼を開いて落ちていた。
「まだ死んでないぜ」と先に云う。本当にいつ死ぬのだろうと思う。
「今何してるの?また悪いことでもしてんの?」とククールは空を見上げたまま云った。
私はククールは見下ろして問う。
「悪いこととは何だ?」
だがククールは少しも迷うことなく、あっさりと答えた。
「善いことの反対かな」
その答えの単純明快さ、バカバカしさを思わず鼻で笑ってしまう。
「ならば善いこととは何だ?」
するとククールは漸くこちらを見た。青い眼だと思った。
「知らないの?」
おかしいなあと云う。
「アンタは知ってるはずだよ」
教えてあげようか、とククールはまた空を見上げた。眩しげに眼を細める。
「アンタはいつもあっちから来てあっちに帰る」
ククールは私の背後を視線で示した。
次にその逆を頭を僅かに動かしてやはり視線で指し示す。
「偶にはあっちに行ってみなよ」
三十歩ほど真直ぐ歩いて行けば、「アンタが善いことを知ってることが解るよ」と云った。
その帰り、私がククールの云うあっちへ行こうとすると、背に声を掛けられた。
「明日アンタは水を持ってくるよ」
意味が解らず、聞かなかった振りをした。
そして三十歩真直ぐ歩いた。
そこには枯れかけの小さな花が一輪だけ咲いていた。
明日アンタは水を持ってくるよ。ククールの声がまた聞こえたような気がした。
|
止まった時間
今日こそは死んだかと思ったが、ククールはまだぽつんと荒野で生きていた。
「まだ生きてるよ」と皮肉ぽく口にする。「見ればわかる」と答えた。
ククールはそこで眼を閉じる。
「マイエラ修道院はどうなってるのかな」
「さあ、知らん」
「聖堂騎士団のみんなはどうしてるのかな」
「さあな」
それでもククールはまるで独り言のように続けた。
「なああのときのこと覚えてる?オディロ院長がガキのころ話してくれたお伽話」
「なああのときは可笑しかったよな、ほら名前は忘れたけど、バカが馬から落っこちたとき」
「なああのときはどうしようかと思ったよ、ドニのツケがアンタのところに回ってるとはね」
「なあ…」
ククールの眸が僅かに覗く。だが伏せられた睫の影が青を暗くしていた。
「独り言さ」とククールは云った。
「俺の独り言。どれだけ云ってもアンタは答えてくれない。アンタはもうあのときにはいないから。
もう要らないとアンタが云ったから、俺しかいないんだ」
指輪を嵌めた指が力なく握られる。
悪いことしてくれよ、とククールは冗談のように云った。
「俺に止めに行かせて」
指輪なんて要らない、指輪が欲しいわけじゃあないんだとククールははじめて叫んだ。
|
未来・過去・現在
「今日はもう来ないかと思った」とククールが皮肉げに笑ったので、「何故だ」と問うた。
「だって雨だから」
そう答えたククールの身体は雨に濡れていた。私は傘を差している。
「俺さ、空ばっか見てるから解るんだよ」
昨日の夕方、向こうのほうに雨雲が見えたから雨が降ると思っていたと云う。
「そんで、やっぱり今日雨が降った」
肌は雨粒を弾き、それは後から後からククールを伝って大地へと染み渡ってゆく。
「でも大丈夫」とククールは笑った。
「明日は晴れるよ」
傘が雨を弾いている。やわらかい雨だ。
「なあ、今日は雨が降っている。それは昨日向こうに雨雲があったからだ」
ククールがこちらを見ていた。
「明日は晴れるよ。今日雨が降ったから、みんな洗濯物を干すだろうな」
その眸は青かった。ククールの云う明日の空のように青かった。
そうしてやわい雨が紡がれる。
「昨日に雨雲があったから今日は雨降り。だからみんな明日の晴れを歓迎するのさ」
昨日の雨雲なくして今日の雨は成り立たない。彼はそう云おうとしているのだ。
|
理想と現実
ククールの予言は見事に外れた。空は雨雲を微かに残し、曇っている。
「まあ、こんなもんさ」とまだ死んでいないククールは曇り空を見上げて笑った。
そして不意にククールがこちらを見る。
「怒んねえの?」
「なにを」と私は答えた。
「晴れなかったこと」
「べつに」
「ふうん」
「なんだ」
「べつにぃ」
またククールが笑う。
「まあ、お前の云うことだ。こんなものだろう」
私は空を見上げた。
「まあね。こんなもんさ」
ククールも空を見上げた。
厚い雲の上に光を見た。そんな気がした。
|
美しいものと醜いもの
その瞼に私の影が落ち、ククールは目を覚ましたかのように眸を開いた。
私は一歩ククールより退く。
「なにしてんの」と本当に眠っていたのか、眠たげな声で問われたので、
「私の影がお前に落ちると、お前のその青が薄暗くなる」と答えた。
するとククールは微笑した。「ちがうよ」と云う。
「深みが増したと云ってくれ」
そうして手招きをした。私は「なんだ」と応じなかった。
それでも彼は手招きをする。
「いいから来てよ」
だって俺動けねえもん、と云うので私は再びククールに寄った。青に影が落ちる。
「どうしていやがるの」
ククールが云う。
「嫌がる?」
私は問い返した。
「うん、いやがってる。あとこわがってる」
「私が何を怖れていると云うのだ」
「なあ、もっと近くに来て」
ククールが両腕を私へと伸ばす。
そして「アンタはきれいだよ」と私を映した青で云った。
その青に誘われ、身を屈めた私の頬をククールの指先が撫でる。
「その底に未だ渦巻く消えない炎がとてもきれいだ。混じりけがひとつもないきれいな炎」
そのままククールの腕が身体に回され、私は彼に抱き留められた。
「剣を振るう姿も神さまに独りで挑んだ姿もきれいだった。だから嫌がらないで、怖れないで。
その哀しさも寂しさもやさしさも、とてもきれいだ。アンタのものだよ。とてもきれいなものだから」
|
損得の美学
あるところに仲の良いきょうだいがいました。羨ましい話だねえ、あ、あてつけじゃねえよ?
ともかく二人はあまり良い子ではなかったので、両親に森の中へ置き去りにされてしまいました。
けれどへいき、頭の良い兄は持っていたお菓子を少しずつ道へと落とし、目印をつけいました。
兄って生物は基本的に頭が良いのな。
そうして戻ってきたきょうだいを、両親は帰ってこられないだろう森の奥へとまた捨てたのです。ひどい。
ええと、そんでなんでかは忘れたけど、ともかくお菓子の家がありました。ゴキブリ来るって。
お菓子の家には魔女がいて、おはいりおはいりときょうだいを誘います。美人だったのか?
そしてよくわからないけれど兄はピンチの弟…いや妹だったような、を救い、
魔女を煮込んで…鬼だ…きょうだいはしあわせに暮らしましたとさ。おしまい。
というのがククールの語った話であるが、「わからん」
「え、どこが?」
「まず根本的解決がお前の話にはない」
「しあわせに暮らしたって云っただろー」
「何故幸せに暮らせたのかが全くわからん」
「まあ俺もわかんないけど」
「唐突にお菓子の家が出てくるわ、いきなり危機に陥っているわ、全くわからん話だな」
「えー。じゃあ兄貴ならどんな話にするのさ」
云われてしばし考える。
「まず菓子を目印にはせんな。貴重な食料を落としてどうする。木に印を付ければ良い。
あと魔女は煮込まない。どうせなら生かして利用する」
「まずは新しい家を出して欲しいね」
「お菓子の家はいらん」
「うん、俺も普通の家でいいよ。そこでしあわせに暮らすんだ」
|
消えない傷跡
世界の果てまで続くような荒野にぽつんと一人落ちていたククールは、
その日私の影が空の青を翳らそうとも、目を覚まさなかった、眼を開かなかった。
「ククール」
眸を伏せたままの動かぬ身体に呼びかける。
「ククール」
ククール。
「ククール」
ククール。
「おい、ククール」
ククール。
ククール。
「ククール!」
光があった。
「やっと名前を呼んでくれたね」
青い瞳に。
まるで何千年もの眠りから覚めたような、晴れやかな青い眸には光があった。
「マルチェロ」
ククールがはじめて私の名を呼ぶ。ククールが私を見つめる。
「でもね、本当はアンタをもう一つの名前で呼びたいんだ。俺とアンタを結ぶ名で呼びたいよ」
指輪があった。ククールの指には指輪があった。あれは私。
晴天だった。青には光があった。
けれど先日は雨が降っていた。その前には雨雲があった。
雨雲がなくては雨が降らず、雨が降らねば晴れることはない。
ククールが微笑む。
「あにき」
それは空の果てから遥かまでを貫く。
私たちは結ばれているのだ。過去、未来、歓喜、悲嘆を超えた、永遠において結ばれているのだ。
再生の痛みと生まれ出る熱の中、私は目覚めた。
|
死の螺旋
その日も雨が降っていた。私は左手に傘を差している。
そしていつも通りの会話を交わすのだ。
「そろそろ死んだか?」
「まだみたい」
「いつ死ぬのだ?」
「あともうちょっと」
「…まだか」
「まだ」
「……まだか」
「んーまだ」
「………そろそろか」
「まだまださ」
そう云ったククールを私は右肩に担ぎ上げた。
「どわわわわ」
「煩い。黙れ。落っことすぞ」
そして歩き出す。
「ククール」
「なんだよ」
「その指輪、返してもらうぞ」
それは私のものだ。
「お前が持つべきものではない」
するとククールは、私からは見えなかったが微かに頷いたようだった。
「うん。これはアンタが持つべきものだ。これもアンタだから。これなくしてアンタはないんだから」
が、そこでククールは不満げに口を尖らせた。勿論私からは見えないが尖らせているのだろう。
「てことは指輪拾うついでに俺を拾ったってことかよ」
「落ちていたから拾ったまでだ」
「うわ。貧乏性」
「……」
どさん。
「いてぇ!ほんとに落とすことないだろ!」
抗議の声は無視、もう一度担ぎ上げて歩む。
「毎日死んだかを見に来るのが面倒になった」
「死なないしな、俺」
「私が毎日足を運ばずに済むところで死んでくれ」
「わあお。お菓子の家?」
「普通の家だ。人の出入りは多いがな」
「魔女は?」
「これから来る」
「…俺?」
「さあな。ククール」
「ん。なあに、兄貴」
「あと3年だ」
「3年?」
「そう。あと3年したら、私は動くぞ」
歩む先、雨の続きに青の空が見える。
「なあ兄貴」
同じ色を持つククールは云った。
「明日は晴れるな」
私はそうだなと頷いた。
|
|