Marcello*Kukule
「怪我をしたって聞いた」
目覚めると彼がいたわけではない。彼が来たからマルチェロは目を覚ました。
呼吸を深くすると、矢が数本突き刺さった胸がまだ痛む。
「よく入って来られたな」
マルチェロはベッドの脇に佇む彼ではなく、天井を見詰める。だというのに、彼の表情はよく分かった。
「うまく言い包めた」
たぶん顔を作ることに長けた彼は、こういうときにどんな顔をしていいか分からず、
少し青ざめただけの無表情なのだろう。
「誰かを庇ったとも聞いた」
俺は怒ってる、と彼は言った。続けて、嫌なんだ、とも二度・三度言う。
「嫌なんだ。俺は嫌なんだ。
アンタが、俺じゃない誰かのために、傷を負うなんて、死ぬなんて、嫌なんだ」
佇んでいたはずの彼は、いつの間にか床に座り込み、マルチェロの枕元に頬を預けている。
「アンタが傷つくのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。
だけど、どうしてもそんな日が来るのなら、他の誰にもアンタを触らせたくない。
俺の手で傷つけてしまいたい」
いつものように、吐き捨てる言葉は見つからなかった。
代わりに、酷く血の繋がりを思った。
彼を一番深く傷つけるのは自分でありたい。マルチェロもそういう思いを彼に持っている。
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Kukule
「離さない。離さない。俺が離してしまったら、俺たちはきっとここで終わってしまう」
そういう想いが折れ掛ける心を十年繋ぎとめ、今、兄を、繋いでいる。
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Marcello
「救われたいと願ったことなどない。神に依って生かされたいと望んだこともない。
私は私に依って生きるのみ」
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Marcello*Kukule
そりゃそれ相応には反発心もあるので、おおっぴらにマルチェロ側には立ちたいとは思わないし、
立ってほしいなんてあいつも毛ほども思ってないだろう。
だが、だからと言って真反対に行けるかと問われれば、
あいつのことをそれほどにまで突き放しては考えられないので、行けない。
ただここは、そういうどっちつかずのおれが長く生かされる世界ではないこともよくよく知っていたので、
結局おれが選んだのは「軽薄」だった。
神に仕える騎士でありながら、不敬不真面目。祈りは適当に、勤めはさぼる。
酒に博打、朝課の刻に女のベッドで寝こけてる。
そうしてこれも血ってやつなのか、達者な口で世をこき捨て、あげく鼻歌なんぞ唄っている。
そうやって生きているんだ。
そうやって生きたいわけじゃないけれど、そうやることでここにいることができるのなら、
消去法で仕方ない。
だから、せっかく被った仮面を剥ぎ取らないで欲しい。
もう何年もつけているから、本当の面の皮のようになったそれを引き剥がされれば痛いんだ。
「あまり私の手を煩わせるな、ククール」
ああ、ちくしょう。
罵倒だとか、いっそ殴られるだとか、そういうのであればいい。
跪けだとか、従えだとか、そういう支配であれば俺は俺でいられる。
だというのに、腰を抱いて、やわらかくその腕に閉じ込めて、
「ククール」
だなんていうのはいくらなんでも卑怯じゃありませんか、団長殿。
狡いんだ、あんた。
なんて残酷で、なんて人の心をとろかすのだろうね。
「アンタが言うのなら、何だってするよ」
ほら、幼いククールくんがまた嘘っぱちに縋ろうと、まだ縋ろうと顔を出す。
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Kukule
安い酒を飲む。高い酒を飲んだって、慰められる量はおんなじだから。
肌も露な女と遊ぶ。お姫さまとお遊戯をしたって、寂しさを忘れられる時は有限だから。
そうして拙い歌を聞く。賛美歌を聞いたって、ぽっかり空いた穴のせいで何も残りはしないから。
安くて、淫らで、拙いくらいが俺相応。
音程を外した自由極まりないその歌が、「思い出はやさしい」なんて言っている。
ああ本当に、思い出だけがやさしいね。
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Marcello*Kukule
「相変わらずの素行のようだな」
というマルチェロはククールを戒める立場ではあるが、口調はそれほど厳しくはない。
形式だけなのだろうとククールは踏んでいた。
朝課をすっぽかし、訓練はさぼり、夜には酒場へと足を運んで、
酒と女のにおいを纏ったまま祈りの場へ現れる。
騎士か、坊主か、ともかくだれかに日々の行いを戒めるようククールに言って欲しいと
泣きつかれたに違いない。
マルチェロ自身はもう随分と前にそういうククールを気にも留めなくなっている。
「堕落がそんなに楽しいか」
だから、こういう場ではククールも気軽だ。「楽しいですよ」なんて軽口だって叩ける。
けれど、落とし穴はいつどこに口を開けているか分からない。
マルチェロが腹違いの兄であることを知ったあの日のように。
「お前は不真面目に過ぎる」
と言ったマルチェロに、
「だってさ」
と思わず本音が零れた
「熱心に生きるアンタはちっとも幸せそうじゃない」
ククールにしては、しくじった言葉だった。
本音が零れてしまうのは、きっと彼が兄であるからだ。
けれど、その兄であることだけにはまだマルチェロも波立つ心を持っている。
ククールにとっては幸せではない方に。
ほら、不真面目な態度、堕落した心、本音のない言葉のほうがよっぽど穏やかで、
少なくとも不幸じゃないじゃないか。
ククールはマルチェロの本当の心を覗くのが怖くて目を逸らした。
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Marcello*Kukule
いつまでもククールは苦しげな顔をする。
もてあます熱に浮かされた目、その色づいた目元、汗に濡れた肌。
それでありながら、いつまでもククールは苦しげな顔をする。
女を抱くときもこうなのかと問えばちがうと言う。
男に抱かれるときはこうなのかと重ねればちがうと積む。
「アンタとだけが苦しい」
でもこうするときくらい、抱き合っているときくらい、心を開いていたいと、
ククールはそのために苦しげな顔をする。
愛してなきゃできない。ククールは薄い胸からこぼした。
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Marcello*Kukule
「上がらんな」
とは、雨のことではない。
確かに昼過ぎから降り始めたこの雨は、一時は雷まで鳴らして、
日付が変わる今も未だ止む気配を見せない。
けれどマルチェロが言うのは、金のことだ、とククールは分かっている。
修道院への喜捨の額が上がらないと神と聖人に仕える騎士団長殿は仰っているのだ。
しかもその喜捨の額を上げない家には、ついこの間ククールが祈祷に訪れた。
けれど、いともかんたんにその金額が書き付けられた羊皮紙を執務机に投げ捨てられれば、
ククールだって面白くはない。
「団長殿は金勘定がお好きなようで」
羊皮紙を取り上げ、目を落とす。それでも多額だ、とククールは思った。
この金で数ヶ月から一年は遊興に出かけられる、修道院を出て、この兄の元を離れて。
「金は救いですか?」
ククールが問うと、マルチェロは椅子の背を軋ませた。今夜は珍しく話をしてくれるらしい。
「神、信心、愛、これら言葉は救いか?」
「時によっては」
「その時でなければ?」
「紙くずかな」
ククールは手の中の羊皮紙をひらりと落とした。
渇いて今にも死にそうな人間に神を説いたところで救われないだろう。
金でパンと水を遣ったほうがよほど善人だ。
「だが、少なくとも金は生きようと思う者にとっては紙くずにはならん」
「上げろ、と言いたいわけだ」
そろそろ引き時かな、とククールはおどけて言う。
「恋愛でも言うでしょう?押してだめなら、引いてみろってね。
気のない素振りを見せたなら、
あいつ、ああ失礼、あの男爵は金を両手に俺のケツをすぐに追っかけてきますよ」
けれど、ククールは思う。
あの言葉はまるで賭け事のそれだ。恋愛だなんてちゃんちゃらおかしい。
きっと最初にあの言葉を言った誰かは、本当にそのまた誰かを愛してはいなかったのだ。
本当に誰かを恋しく思うのであれば、引くなんてできない。
追いかけて来てくれる、なんて保障は何処にもないのに。
そのまま、恋しいのに、好きなのに、離れてしまうことを思えば立ち去ることなんてできない。
「なあ、団長殿」
声を潜める。体を傾げる。執務机が邪魔なので、いっそ乗り上げる。
「俺のこと、こういうのでいいからさ、押してくださいよ」
こういうのの時だって、ククールは空振りが怖くて押すことさえできない。
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Kukule
雨の夕方である。ククールは一度は押した騎士団宿舎の扉を軽いため息と共に閉じた。
ドニへ憂さ晴らしに出かけようという騎士らしくもない考えは、
女神様の涙できれいに洗い流されてしまった。
雨に降られることをククールは面倒だと思う。
折角整えた髪が濡れ、服が湿り、おまけにブーツに泥が跳ねてしまうからだ。
「ちぇ」
仕方なく踵を返す。
すると、また面倒なものが目に入った。
廊下の先、まだ幼い修道士の少年が一人、背丈ほどもある酒樽を運ぼうとしている。
ククールはすぐさま近くの角を曲がった。気怠い足取りで歩く。面倒事はごめんだ、と思う。
それに、この俺が重いものを持つだなんてとんでもない、とも思う。
あれはきっと運ばれてきたばかりのワインだろう。
修道士の、しかも見習いだろう少年の力では持ち上がるまい。
事実彼は、ずず、ずず、と酒樽を押していた。
「ちぇ」
ククールは足を止めた。折角整えた髪をがしがしと掻いてしまう。
踵をまた返した。
元の廊下に戻ると、少年は先ほどからまだ少しも進んではいなかった。
その酒樽の蓋を指でとんとんと叩く。
「あとでちょっとだけくれるなら、手伝ってやってもいいぜ」
すると少年はククールを見上げ、賢そうな額にきゅっと皺を作った。
そういうことはできません、などと生真面目に言う。
そうしてまた一人で酒樽を押そうとするのだから、ククールは少年を押しのけた。
軽々とはいかなかったが、酒樽を持ち上げるくらいはできる。
少年は批難めいた目でククールを見上げたが、ククールは口の端をくっと上げて返した。
「それじゃあ手伝うのはなしだ。
俺が持っていって、俺が勝手にもらうことにするよ。ドニに行けそうにないし、ちょうどいいさ」
どこに持っていけばいいのか、と問うと、少年は諦めたのか先導を始めた。
その背を追いながら、ククールは心中、
「あーこんなことするんじゃなかった」「重い」「だるい」「腰にくる」を繰り返す。
そうして暫く歩いてたどり着いた倉庫で、今度はククールが少年を批難めいて見遣った。
酒樽を下ろす。そこにはもうひとつ酒樽があった。
「ひとりでも運べるんじゃねーか」
ククールが言うと、少年はまた額に皺を寄せた。だが俯く。
「あれは」
「あれは?」
「その、通りかかった騎士さまに運んで頂きました」
「騎士さま、ねえ」
ククールは少年が嘘を吐いているとは思わなかった。
やはりこの酒樽は少年が一人で運ぶには大きすぎるのだ。
ただ、そういう目を持ってこの少年を見ることが出来る騎士がいる、というのがどうも疑わしい。
だが、ふと思いつく。
(いや、まさか、ね)
ククールは少年が差し出したワインを断った。少年の言う「騎士さま」もきっとそうしただろうからだ。
「ちぇ」
またあいつに酒を取り上げられた、とククールは心とは裏腹に舌打ちをする。
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Marcello*Kukule
地下である。視界は狭い。彼の肩越しのせいで開かれていないのだ。
加えて不明瞭でもある。熱を孕ませてせり上がる涙と目元のせいで、世界が揺れてしまうのだ。
彼の息遣いを耳や首筋で感じながら、見つめる扉は歪んでいる。
あれは外へと続いている。俺は扉を開くことができる。階段を駆け上がることができる。
地上に出ることができる。修道院を飛び出すことさえ、本当はできる。
外へと行けるのだ。
けれど、それは彼を押しのけ、いなくしてしまうことではじめて俺に訪れる世界だ。
射精の兆しに、俺は彼の背に縋った。
「まだ、いきたくない」
まだこの背が俺の世界の全てでいい。
彼がいない世界は、まだこうして繋がっていられるのなら、俺には選べない。
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