キンダーガーデン・クエストV
その夜も数学の問題集に没頭していたマルチェロの自室の扉を遠慮しがちにノックする者があった。
ククールだ。
「子供は9時までに寝ろと毎日云っているというのに、
云う傍から記憶喪失しているのか、お前は。今何時だと思っている」
マルチェロは振り返りもせず参考書を捲るが、ククールも慣れたもの。
「22時半。ちゃんと覚えてるよ、9時に寝ることくらい。んな毎日毎日頭ぶつけてたら俺死ぬって」
傍へ寄ってきて、机の上に一枚の紙を背伸びして置く。
少し視線をやると、プリントには「保護者参観日」の文字があった。
「なんだこれは」
マルチェロはペンを置いてプリントを取り上げる。
「幼稚園の保護者参観日のお知らせ。オディロ院長は、他のガキもいるから来れねえだろうし」
「…で、私に来て欲しいのか?」
見れば参観日は平日午後から。
が、気付く。
「というか、明日ではないか!」
「うん。そうなんだよな。…いや、いいんだ。兄貴は学校だろうし」
「その通りだ。それ以前に授業がなくとも誰がお前の参観などに」
プリントをククールに突き返す。
「毎日飽きるほど見ているから必要ない」
「いや、兄貴それはちょっと違うような。
他の保護者だって毎日飽きるほど自分の子供見ていると思うぞ。
ほら、普段見ることのない子供の姿を見れる機会なんだよ、きっと」
云われてマルチェロは首を傾げる。
「どのような姿が見れるのだ?」
「えーと、プリントによると…、まずは保護者の似顔絵を描いているところだろう」
「それはこの前家で見た」
「あー、そうだったよな。
俺の懇親の力作・兄貴似顔絵を真っ二つに破ってくれたよな。何が気に入らなかったんだ?
髪型?M字の角度?デコの大きさか?」
「全部同じ部位ではないか!」
マルチェロはべしっとククールのデコをはたいた。
ククールは気を取り直して続ける。
「あとは、えーと、保護者と一緒にクッキー作りだって」
そう云ったククールの顔が少し曇る。
「…あーやだね、こういうの。保護者が来ない奴とか寂しがることわかってないよなあ」
「……」
「あ、あてつけじゃねーよ。俺以外にも両親共働きで親来ない奴はいっぱいいるから」
ククールはひらひらとプリントを振った。
じゃあもう寝るよ、と部屋を出て行く。
マルチェロは何事もなかったかのように再びペンを取り、参考書を捲った。
翌日の午後の授業・5限は数学の小テストだった。
マルチェロは特に苦もなくクラスの誰よりも早く問題を解き終わり、窓の外へと視線を向けていた。
窓際の席は試験となれば時間を持て余すマルチェロにとっては都合の良い席だった。
日差しはやわらかく、不意ククールの保護者参観のことが頭に浮かぶ。
そろそろ始まっている頃だろう。
ククール自身が別に来なくとも良いと云ったことには少し驚いた。
だが、と運動場にぽつりと転がったボールをなんとなく眺める。
きっと何処かのクラスが体育の後に片付け忘れたボールだろう。
わざわざ弟は保護者参観日のプリントを持って来た。
本当は来て欲しいのだろうと分かっている。
そういえばマルチェロも保護者参観日とは縁遠い学校生活だった。
別に寂しいなどとは思わなかった。
クッキー作りだって他にも保護者が来ない子がたくさんいると云っていた。
だが、マルチェロはどうしてもひとつだけ取り残されたボールが気になって仕方ない。
どうしかて苛々する。
視線を教室の前に戻す。
時刻は1時半過ぎ、おやつのクッキー作りにはまだ間に合う時間だった。
「……」
いやいやとマルチェロは考えを改め、内心首を振る。
自分も保護者参観日には誰も来なかったのだ。
ククールだけが可哀想なわけではない。
そこに思い至って、マルチェロははたと気付いた。
行こう、と思った。
幸い6・7限に小テストや試験の類はひとつもない。
ペンはペンケースへ、鞄に教科書を詰め、テスト用紙を持って立ち上がる。
ペンを動かす音だけが響いていた教室にがたりと大きな椅子の音。
生徒たちがマルチェロを振り返ったが、マルチェロは教壇の教師を真っ直ぐに見た。
「ニノ先生」
「どうした、マルチェロ」
そうニノ先生が問う間につかつかと恐ろしいまでの早足で教卓に寄り、テスト用紙を提出する。
「気分が悪いので早退させて頂きます」
そう云ってやはり猛烈な早足で出て行くマルチェロ。
「全く気分が悪いそうには見えんぞ、マルチェロ…」
ニノ先生は呆気に取られながらマルチェロを見送った。
マルチェロが幼稚園に着くとお絵描きの時間は終わっていた。
ククールの教室を廊下から覗けば、どうやらこれからクッキー作りらしい。
マルチェロを最初に見つけたのは、教室の後ろを陣取っているお母様方だった。
「まあまあ、ククールちゃんのお兄さんじゃないの!」
「ほらほら、そんな外にいないでこっちへお入りなさいよ」
と云われて、引っ張り込まれる。
外面がたいそう宜しいマルチェロなので、
苦笑いと愛想笑いのなんとも云えぬ混合の笑みを浮かべて、丁寧に頭を下げた。
「いつも弟がお世話になっております」
「いえいえ、こちらこそ。でもえらいわねえ、参観まで来るなんて」
「ほんと。学校はいいの?」
「ええ。先生も事情を話すと快諾してくれたので」
にっこりマルチェロ、嘘も方便が信条。
お母様方はその微笑にうっとりと目を細める。
「そうなの。ククールちゃんもきっと喜ぶわあ。
あの子、お兄さんの話になると私を口説く以上に真剣になってねえ」
瞬間マルチェロの微笑が僅かに強張った。
「…は?口説く…?」
「ええ。ねえ?貴女も口説かれたわよねえ?」
お母様方の一人が同意を求めるように他のお母様方を振り返ると、何人もがええそうよと頷いた。
「あと10年早く生まれていれば、ってねえ」
「10年でも、ククールちゃんは15才なのにね。軽く犯罪よ」
「ほほほ。せめて20年だったらばっちりだったわ」
「そうね、そうね。惜しいわあ。あ、でもお兄さんの方なら、あと5年もしたら…」
「まあ、それは名案だわ。ヨンさまじゃなくて、マルさまね!」
「マルさま!まあ素敵!ほほほほほ!」
「やだあ、ほほほほほほほ」
「じゃあこれからはマルさまと呼ぼうかしら。ほほほほほほほほほほ」
おのれククール、とマルチェロは思った。
そんなマルチェロの袖をお母様方の一人が引っ張る。
「そうそう、さっきのお絵描きでね、ククールちゃんはマルさまの絵を描いていたわよ」
マルさまが定着している。
マルチェロは戦慄したが、この話題はこれ幸いとばかり、
「その絵はどこに?」
と問うて、教室の最も端にあるということでそちらへなんとか離脱した。
クッキー作りの用意のためかざわついている教室の後ろ、
マルチェロは壁に貼られているククールが描いたという似顔絵を見ていた。
へたくそな絵だというのが最初の感想。
画用紙いっぱいに描かれたマルチェロの顔は、
この間真っ二つに裂いてやった絵よりも更に似ていない気がした。
成長が退化しているのではあるまいな、と自分の子育てを不安に思い、
じっくりと絵を鑑賞していると、
「兄貴!?」
と背後からよく知った声が掛けられた。
振り向く前に抱きつかれる。
「やっぱり来てくれたんだね…!」
「お前は聖闘士○矢の瞬か!?」
とりあえずククールを振り解き、マルチェロは改めてククールに向き直った。
先に口を開いたのはククール。
「あー絵見てくれたんだ。どうよ。へたくそなところがガキぽくて良い絵だろう?」
「素直に下手ということを認めろ。…この間の絵よりも似てないな」
「そう?あ、でも兄貴が髪型とかM字とかデコのこと気にしていたみたいだったから、
増毛して、M字角度をゆるくして、デコの広さを狭くしてみたんだけど」
そのせいで似てないのかなあとククールが口にする前に、
マルチェロはとりあえずククールを締めておいた。
「で、次はおやつのクッキー作りだったな?」
「あああ…危うく俺ったら兄貴にイ(逝)かされそうだったぜ」
ふうとククールは一息つきながらもニコ。
マルチェロはぱかんっとククールの頭を叩いた。
「クッキーだったな?」
「やだもう、兄貴ってば激しいんだから」
べしべしと兄の脚を叩くククール。
マルチェロは声を低くした。
「クぅぅぅぅッキぃぃぃぃぃーだったな!?」
これにはさすがのククールもうんうんと頷く。
「うんっ、そう!クッキー作りだよ。兄貴も俺と一緒に参加してくれるんだろう?」
「…仕方あるまい」
マルチェロはいくつかの子供たち机をくっつけてつくられた台のひとつに向かい、
用意された材料と器具を確かめつつ、腕まくりをした。
周囲を見渡せば先ほどのお母様方も子供たちに混じり、クッキー作りをはじめている。
が、ふと目に留まったのはククールの友人の、確かヤンガスという名の子供。
名は知らないが少女とふたりでクッキー作りを始めようとしている。
「あー、ヤンガスとゲルダね。あいつらの保護者は用事があって来れないんだって。
ちょっと変わった保護者なんだけどよ」
「…変わった?」
「うん。なんか上半身裸の筋肉ムキムキな人でさ、いつもへんなマスク被ってる」
「それは変質者ではないのか?
…まあいい。おい、ククール。あのふたりも呼んで来い」
マルチェロは教室の隅にある洗面所に手を洗いに向かいながら云った。
ククールは一瞬不思議そうにしたが、何も云わずヤンガスたちのもとへ声を掛けに行った。
マルチェロが手洗いから帰って来ると、更にこの幼稚園の園長兼理事長の娘・ミーティアも加わっていた。
「トロデのおっさんは忙しくて参加できないらしいからさ。
姫さんもナンパしてきたんだ。一緒に作って良いだろう?」
そんなわけでマルチェロ、ククール、ヤンガス、ゲルダ、ミーティアのクッキー作りが始まった。
「ククール。お前はどうしてそう計量をいい加減にするのだ!真面目にやれ」
「えー。目分量でいいじゃん、めんどくせえなあ」
「ククールのお兄さん、混ぜ具合はこんなもんでがすかね?」
「まだまだだな。もう少し混ぜておいてくれ」
「なあなあ、トッピングはどうするんだい?」
「用意されているのはチョコチップだ。だがそれは最後だ」
「おにいさま、生地はどれくらい伸ばせば良いのですか?」
「これは少し分厚すぎるな、中まで焼けんだろう。もう少し伸ばして」
そんなこんなをしている内にマルチェロの周りには他にも子供たちが集まって来た。
エイトにゼシカにユッケにフォーグ、ついでにチャゴス。
「ねえねえ、オーブンの温度はどうしたら良いの?」
「何分くらい焼くの?」
「型抜き失敗した!」
ついでにお母様方も子供をだしに集まって来る始末。
「マルさまったら、料理も出来るのね。いい男だわ」
「ほんと。これからの男は料理ができなきゃねえ。ほほほ」
「5年後が愉しみだわ、ほほほほほほ」
その様子を見てククールは
ミーティアにお願いされ型にないウサギ型にクッキーの生地を作っているマルチェロの裾を引っ張った。
「なあ…マルさまってなんだ?」
「云うな…」
こねこね。
「しかもアンタ、なんか勝手に5年後を愉しみにされてるぞ」
「誰のせいだと思っているのだ…そら、ウサギ型だ。顔などは自分で作るように」
マルチェロがウサギ型の生地を渡すと、ミーティアはにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます、おにいさま」
その様子を眺めてマルチェロ。
「うーむ…お前ももう少しこの娘を見習って無邪気に可愛くなれんものか」
そう溜息をつくと、ククールは、
「今更無邪気にする時点で、おもいっきり邪気あるだろ」
また可愛くないことを云う。
おやつのクッキーの余りを頬張りながらの帰り道。
「ククール。歩きながら食うな」
マルチェロが前を行くククールに注意をすれば、
「…はあい」
と珍しく素直にククールはクッキーを鞄にしまった。
「どうした、ククール。頭の具合でも悪いのか?」
「偶にミーティアみたいに可愛く素直になってやったんだから、イヤミ云うなよ。
でさあ、素直ついでに云うけど、今日来てくれてありがとな」
「……」
「来てくれなくても平気だったけど、やっぱり来てくれたら嬉しいっていうか」
「…勘違いするな」
マルチェロはえんえんと要領の得ない言葉を続けるククールをぴしゃりと制した。
ククールが立ち止まり、振り返る。
なのでマルチェロも立ち止まった。
「お前のために参観に来たわけではない」
マルチェロ自身寂しかったのだ、参観日に誰も来なくて。たぶん、少しは。
だからといってククールにその寂しさを繰り返して欲しくない、といった想いもなかった。
可哀想だったのだ。ククールではなく、自分が。
「私はお前ではなく、お前を通して私自身を哀れんでやりたかっただけだ」
沈黙は訪れなかった。
すぐにククールが口を開いたからだ。
「いいんじゃねえの?でも哀れんでやるとか云うなよ。
優しくしたいんだろ。兄貴は兄貴に優しくしてやればいいよ。
俺は兄貴に優しくしてもらえて嬉しいし、
俺に優しくしてくれることが、兄貴が自分を大切にしてることに繋がって、
それは俺にとってすごく嬉しいことなんだ。人ってそういうもんだろ。難しく考えんなよ」
「……」
「でもさあ、ごめんな、兄貴」
ククールが眸に睫毛の影を落とす。
「なにがだ?」
「あと10年早く生まれてりゃ、兄貴の参観日に俺行けたのに」
なるほど。
マルチェロは合点がいった、10年とはそういう意味だったのか。
少しくらいは可愛いことを云うものだと不覚にもくちびるに笑みが零れた。
それから1ヶ月後、マルチェロの通う高校でも保護者参観が行われた。
だが高校生ともなると保護者参観に来る親は皆無といっていい。
いつも通りの穏やかな昼下がりであるはずだった。
だが。
「へえ。ククールって云うんだ!可愛いわねえ」
「保護者参観に来たの?キミが?やだ、もう可愛い!」
廊下の騒ぎから漏れ聞こえた名にマルチェロは教室を出た。
「あ、マルチェロ!」
女子生徒たちの輪の中から予想通りの声が聞こえマルチェロは顔を引き攣らせる。
輪の中からひょっこり姿を現したのはククール。
「参観日だから来たよ」
「何が来たよ、だ。何を考えているのだ、お前は。幼稚園はどうした!」
「トロデのおっさんに事情を話したら、快諾してくれて」
吐く嘘も一緒なのか。
マルチェロが微妙脱力していると女子生徒から声を掛けられる。
「マルチェロくん、この子、マルチェロくんの知り合い?」
それに答えたのはククールだった。
「俺、マルチェロの子供なんだ」
「ええ!?」
ずささささささと引いて行く生徒達。
「やだ、マルチェロくん。不潔!」
「こんな大きな子がいるなんて、相手の女は何処のどいつなの!?」
「こらこらこらこら、待て待て待て!
私の子供ではないっ!こんな大きな、しかもバカ子がいてたまるか!」
マルチェロが云うと、再び女子生徒たちはククールを振り向く。
「じゃあキミはマルチェロくんの何なの?」
「実は10年後のそういうパートナー候補として育てられてんの」
再びずささささささと女子生徒。
「やだっマルチェロくん、私の告白を断ったと思ったら、ホモだったのね!
でも安心したわ。女に負けたわけじゃないのね!私、応援するわ!」
「さすがマルチェロくんね!こんな可愛い子を自分好みに育てるなんて」
「うおおおお、マルチェロ先輩っ、俺っ俺っ、前から好きだったんッス!」
「違う!断じて違う!!そしてなにげに告白するな!」
マルチェロはびしっとククールを指差した。
「こいつは私の腹違いの弟だ」
瞬間、廊下は静かになった。
次いで落胆の溜息。
「なんだー。つまんないの」
「なんか一番真実味がないわ」
「何故」
「マルチェロ先輩っ、今夜体育館の裏手で待ってるっす」
「待つな。私は行かんぞ!」
そんなマルチェロを無視して去り行く生徒たち。
そうして残されたのは額に青筋のマルチェロとご機嫌のククール。
「やべっ、兄貴。
恋人同士って勘違いされちゃったな!もうこの際今夜にでも既成事実作っちゃおうか?」
「誰が作るか、そんなもん!!」
マルチェロは再び気分がたいへん優れないというある意味真実な嘘を吐き、
ククールを小脇に担いで早退して行った。
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