Marcello*Kukule




我らを御許に4



 「俺が行くよ」

 彼は事も無げにそう云った。

 人質となった護衛騎士の奪還か、それともマルチェロ騎士団長の奪還か、

 困難であり危険な道を彼はいとも簡単に選んでしまった。

 ひらりひらりと手を振って、いつものように軽薄に、普段の通り気障ったらしくも格好をつけながら、

 そうして何もかもが退屈で窮屈で、だがそれも仕方がないことなのさと諦めた顔で、

 彼の兄であり、聖堂こ騎士団の騎士団長捕らえられている間へ単身乗り込むと云ったのだ。

 いざとなれば独断の暴挙と切り捨てられると知りながら、それを望みさえしながら、

 夜明け間近の光から遠ざかるように屋敷の在る西へ西へと静かにククールは歩んでゆく。

 ククールと共にここまでやって来た騎士は、

 その姿はまるで聖地を求めひたむきに歩む信徒のようだと思った。



 炎が在った。

 今日この日は赤々と夜が明けるのだ。

 マルチェロはゆるりと立ち上がった。

 その動作ひとつに大司教は一歩下がり、身の危険を感じたのか人を大声で呼ぶ。

 現れたのは大司教邸近くの道でマルチェロと護衛騎士二人を襲った男ら二人だった。

 簡易鎧を着け、腰には剣を帯びている。背丈はマルチェロに引けを取らない程であった。

 しかしマルチェロは動じない。口の端に笑みさえ浮かべて見せた。

 「大司教殿、あなたは事を急き過ぎた」

 マルチェロの両手は未だ縛られたままであったが、

 その存在から発せられる圧倒的な威圧感に大司教と男らは両手が利く有利を忘れる。

 加えて彼には光があった。

 だがそれは逆光のため、彼に夜をも纏わせる。

 朝の光。夜の闇。白と黒。善と悪。神と魔。

 相反する二つをマルチェロは支配しようとしているのだ。

 大司教はぞっとした。

 「騒ぎ立てなければもう少し大司教の地位にいられたものを」

 マルチェロが僅かに動く。

 その動きを敏感に察した男は次のマルチェロの動きを制そうと突進した。

 が、それこそがマルチェロの思惑だった。

 思惑の内なれば避けるのは容易い。

 男には一瞬マルチェロが消えたように見えただろう。それほどマルチェロはひらりと身をかわした。

 「!?」

 勢いを殺せぬままテラスへと続く硝子戸を突き破る男。

 暁に硝子はきらきらと散った。

 耳を痛めるほどの大音響さえなければ幻想的な光景だったのかもしれない。

 いや、とマルチェロは否定した。

 硝子戸の残骸の上に無様に倒れた男もこの夜明けには不要な存在だ。

 「かまわん!斬れ!」

 大司教は雄叫びを上げた。

 大司教に危害を加えようとしたので斬り捨てた。理由は通る。死者に口はない。

 残った男は大司教に応じて腰の剣を抜き放った。

 構えはいい。マルチェロは男と距離をとる。

 「だが教会に飼い慣らされた犬に人を斬る覚悟があるとは思えないがね」

 マルチェロが挑発すると男は憤怒に顔を歪めた。

 怒りは冷静さを奪う。するとマルチェロに振り降ろされる一手一手が単調なものになる。

 避けるだけならば造作もないことだ。

 刃が空を裂いた。ひゅんと風がマルチェロの耳元で唸る。

 一撃、二撃、三撃。

 マルチェロは振り降ろされる剣を、また横凪に襲ってくる剣を、飛び退きながら避ける。

 だが、男は途中にやりと笑った。

 マルチェロの背が壁に当たったのだ。逃げ場はない。

 マルチェロは男を見据えた。

 男もまたマルチェロを見据えた。その目に怯えを期待したのだ。

 だがそれは裏切られた。笑っていたのだ。マルチェロは。それも悠然と。

 「この…!」

 男は剣を振り被った。そのまま振り降ろす。

 それは肉を斬り骨をも砕く必殺の一撃だった。間違いなく、途中までは。

 刃はマルチェロには至らなかった。壁に切っ先が突き刺さったまま動かない。

 「!?」

 男は驚愕した。だがそれも長くは続かなかった。いや、続けられなかったのだ。

 「兄貴!」

 横からきた突然の赤い衝撃。脳天がぐらぐらと揺れ、飛ばされる。

 突進をかけられたと気付いたのは腹這いに倒れたあとだった。

 「…じゃなくて、団長殿。ご無事ですか?」

 「問題ない」

 頭上でマルチェロと誰かが短い会話を交わしている。

 それを男は隙と見た。立ち上がろうとする。

 瞬間、鼻先に剣が突き付けられた。

 聖堂騎士団の剣だ。

 刃に沿って見上げるとマルチェロを背後にし、赤い騎士が冷徹な瞳でこちらを見据えていた。

 「やめておけ」

 マルチェロが云った。

 「このククールは君と同じく飼われた犬だが、どうも躾がなっていなくてね。

 気に入らぬものには噛み付くぞ」

 マルチェロと新たに現れた騎士ククール。剣は手から離れている。戦意を喪失するには充分だった。

 大司教が怒声で叱咤したが、もう二人の男は動かなかった。

 「この…!」

 思わず男らを罵ろうとしたのだろう、その大司教の喉元にククールの剣が向けられる。

 「大司教サマのために殉死するつもりはないってさ。

 ついでに云うともう一人のアンタの部下もケチな物盗りに成り下がっちまったよ」

 大司教は肩を落とした。

 崩れ落ちる。

 「何故」

 「何故?」

 束縛より解き放たれたマルチェロが大司教を見下ろす。

 大司教は呻いた。

 「何故、裏切った」

 マルチェロ、部下、そしてこれから己を断罪するだろう教会の神の代理人たち。

 「何故、わたしを裏切った」

 ふ、とマルチェロは笑った。

 これは異な事を仰ると静かに笑う。

 「先に裏切ったのはあなたではありませんか」

 マルチェロは頬に手をやった。

 打たれたところは僅かにだが腫れ、唇の端が切れて血が出ていた。

 ぞんざいに親指でぐいと拭う。

 「まあ、あなたの裏切りを持って、あなたが大司教の座を失うというのなら、

 こちらが痛みを被るものなど何もない。

 父のように、友のように、思っていた大司教殿との夕食ゆえに、

 常日頃の警戒を忘れてしまった軽挙な私と、

 そこに付け込んだ裏切り者のあなたと、教会、神の御心は果たしてどちらに傾くか」

 くっとマルチェロが今日はじめて愉快げに笑った。

 大司教はぞっとする。冷たいものが背筋を走った。

 「貴様、最初からそのつもりで」

 「おやおや。申し上げませんでしたか?あなたはもう少し大司教の地位にいられたのに、と。

 父のように、友のように、思っていたあなたには出来れば静かにご退場頂きたかったが、

 あなたのほうから裏切ったのではそうもいきません。実に残念なことだ」

 マルチェロを捕らえた手は実のところ自らの首を絞めていたに過ぎない。

 そのように仕向けられたのだ。

 恐ろしい。怖ろしい。この男はおそろしいのだと大司教は思った。

 そのおそろしい男を背にして立つ赤い騎士を大司教は見遣った。

 彼を知っている。彼はマルチェロに疎まれる異母弟のククールだ。

 「何故、そのような男を、マルチェロをお前は助ける」

 妾腹から生まれた卑しい血の男。

 十の頃には孤児にまで落ちた。

 そうして悪に手を染め、朝の光、夜の闇、善と悪、神と魔さえ喰らおうとする思い上がった男。

 何故、そのような男を、マルチェロを、お前を苦しめ苛む兄を助ける。

 「愚問だね」

 赤い騎士ククールはふんと笑った。

 かつて孤独に怯えたククールに差し伸べられたその手には確かにやさしさがあった。

 底のない寂しさから引き上げてくれる裏切らない強さがあった。

 そうして弱きを決して見捨てはしない勇ましさがあの手に、この人にはあったのだ。

 「俺が先に助けてもらったからさ」



 ああかみさま、我等を御許に。



 いいえ。

 いいえ、かみさま。

 ククールは転がるように崖へと走った。がむしゃらに走った。

 やさしさ。強さ。勇ましさ。

 そして裏切らないこと、決して見捨てはしないことがあなたの真の御姿とこの人に教えてもらって以来、

 出会ったそのときから信仰を捨てた日などなかった。忘れた日などなかった。

 この人が騎士団長でなくとも、法王でなくとも、兄でなくなったとしても、そんなことはかまわない。

 かまわないんだ!

 ククールはありったけの思いで叫んで手を伸ばす。

 どんなにこの世界から憎まれてしまっても見捨てはしない勇ましさを。

 底のない憎悪という寂しさから引き上げるだけの強い力を。

 夜の闇に呑み込まれそうなこの人に、この兄に、やさしい手を。

 手を。

 手を。

 手を繋げる勇ましさ、強さ、やさしさを、それらをかみさまと呼ぶのであれば、

 どうか再び我等の許に。







 【完結】





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