馬酔木を手折らめど
魔物が地に倒れる。
その魔物は無数の傷を負っていた。
剣の斬り傷、刺し傷、魔の火による焼き跡、そして血と土埃にまみれた胴に突き刺さる幾つもの矢。
そのどれもが致命傷とはならず、しかしその全てをもって魔物は死に至った。
どうと倒れる。
その地響きの後、昼の森は普段の静けさを取り戻した。遠くでは小鳥さえ鳴いている。
しかし魔物を囲んだ騎士たちは動かなかった。
ある者は剣を手に、またある者は弓を手に、ひたと魔物を見詰める。
その内の一人の靴が砂利を踏んだ。ざりりと音がする。
だが優に三メートルを越える巨躯はもうぴくりとも動かなかった。完全な死。
それをきっかけとし、青の騎士たちは大きく一度肩で息を吐いた。安堵の溜息だった。
魔物は鋭い牙を持っていた。それは人間の四肢をいとも簡単に食いちぎる。
既にマイエラ修道院へ向かう巡礼者、宿場町の者が腕を、或いは脚を、また或いは命を奪われている。
そのような魔物と対峙した騎士たちはそれぞれに擦り傷や打撲を負っていたが、重傷ではない。
それは即ち騎士たちの強靭さを示していた。
騎士らは彼らを統率する壮年の騎士を見遣った。髭を蓄えた男だった。あとは皆、若い。
壮年の騎士は魔物の息を改めて確かめ、頷いた。
若い騎士らも呼応して頷き、各々剣に付着した血と脂を拭って腰に収める。
強力な魔物の死に彼らの表情がいくらか和らいだ、その時だった。
「まだだ!」
彼らの内から鋭い叱咤が飛んだ。
その叱咤の主が誰かと探る前に、
鍛えられた騎士たちはその意図するところに気付いて再び剣を、弓を取った。
一斉に茂みを振り返る。
茂みはそこに何かが潜んでいることを知らせるようにかさかさと揺れていた。
後衛の者たちは命令を待たず矢を番える。しかし彼らは構えたまま号令を待った。
号令を与えるべきは壮年の騎士。彼は剣の柄を握った。
第一撃は矢を撃ち込むべきか。
汗がじわりと掌ににじむ。それは皮の手袋によって吸われた。
しかし潜んでいる何かが魔物とは限らない。
だが先程の魔物の返り血が酷くぬめる。
睨み合いを長く続けることは出来ないと彼は判断していた。若い騎士らでは長くこの緊張は保てない。
どうする?
壮年の騎士は自身に問いかける。
どうする?
しかし答えはすぐに出た。否、出された。
ひゅんと何かが耳を掠める。
続けてどすっという音。それは矢が何かに突き刺さる音だった。
まだ号令は掛けてはいない。
「誰だ!?」
壮年の騎士は思わず振り返った。
最初に目に入ったのは若い騎士。
赤の衣を纏ったその騎士は壮年の騎士と目が合うと、にやりと口の端を上げて見せた。
「戦闘中の余所見は危ないんじゃないですかね」
彼の右手には弓があった。
その横では本来弓を持つべき後衛が彼と壮年の騎士を交互に見遣り、慌てている。
「ククール!」
壮年の騎士はその名を呼ぶことで彼を叱責した。
ククール。彼は若い騎士たちの中でも飛び切り若い騎士だった。命令違反も飛び切り多い。
最近ではその奔放振りからか魔物討伐の任からは外されていた。
ただ当人はけろりとしていて、それを気にしていない様子でもあったが。
「大丈夫ですよ」
ククールは弓を後衛の騎士に押し付けるようにして返した。
「ちゃんと狙いは外してますから」
茂みを作る低木の葉と葉の隙間、光がある箇所を狙って撃ったと云う。
確かにククールが放った矢の鏃、それが土に突き刺さる音を壮年の騎士の耳は拾っている。
かさりかさりと茂みは先程と変わりなく揺れていた。
但しそれを揺らす何かはククールが放った矢に驚いたのか、茂みから飛び出してきた。
それは一匹の魔物であった。鋭い牙を持つ魔物。
ただ小さい。とても小さい。小さな犬ほどの大きさ。
「さっきの奴の赤ん坊か」
騎士の一人が云った。
再び森に満ち始めていた張り詰めた空気が一気に緩む。
そのような中、魔物の赤ん坊はもう息のない母親の元へと寄った。まだ頼りない足取り。
その姿に若い騎士も壮年の騎士も、それが当然の如く、道を開けていた。
赤ん坊は母親の許に辿り着くと乳を探し、その胴に顔を埋めた。
もう死んでいるのにと誰かが呟くが、赤ん坊は、魔物は人間の言葉を解さない。
何度かちゅちゅと乳を吸う。
その内赤ん坊は母親が負った傷に気付いたのか、今度はそれを慰めるように母親の体を舐め始める。
もう死んでいるのにとは誰も云わなかった。云えなかった。
若い騎士らは互いに顔を見合わせ、やがて剣を鞘に収めた。弓を持つ者は矢からおずおずと手を離す。
壮年の騎士は剣を収めることはなかったが、構えを解いて赤ん坊と母親を見詰めた。
ちゅちゅという赤ん坊が無心に母親の傷を舐める音のみ彼らに響く。
どうする?
問いが騎士らの胸に渦巻いた。
どうする?
人を襲った魔物。
どうする?
その子どもが目の前にいる。
どうする?
しかし目の前にいるのは母親を恋しがる赤ん坊ではないか!
どうする!
誰もが口を噤み、言葉を失い、途方に暮れていた。
その内に在ってぬらりと鈍く光る剣があった。ただ一振り、意志が刃に通った剣があった。
抜き放たれたそれは壮年の騎士のものではない。
「ククール!」
若い騎士らは声を上げた。制止するための声。
「待て!ククール!」
壮年の騎士さえもその刃を止めようと怒鳴った。
しかしククールは誰の声にも、誰にも、囚われはしなかった。
切先をまだ母親の傷を舐める赤ん坊の背に向け、一気に赤ん坊の背から胸を貫く。
赤ん坊の皮膚や肉、他の臓器が剣を鈍くしたが、ククールの剣に容赦はなかった。迷いもなかった。
赤ん坊の胸から剣が生える。
ひくひくと痙攣を起こす魔物の赤ん坊。その回数だけぽたりぽたりと鮮血が母親の体へと滴った。
「ククール!お前!」
若い騎士の一人がぐいっとククールの肩を引く。それは非難だった。
ククールはその騎士を掴まれた肩で払い、剣を赤ん坊の体から真直ぐに引き抜いた。
赤ん坊は母親の胸へと落ちる。
既に息絶えていた。
若い騎士らの幾人か、ククールの肩を掴んだ彼を含め、彼らはククールを非難の目で見ていた。
また幾人かは非難ではなく、複雑な顔を俯かせる。
壮年の騎士は険しい顔つきでククールを見ていた。掛ける言葉が彼にはない。
ククールは剣を一度ひゅんと振って血を払った。
言葉は幾つも浮かんだ。
乳飲み子の赤ん坊は母親を失った今、いずれは死ぬより他ない。
縦しんば生き延びたとして、人間を襲う魔物だ、禍根は断たねばならない。
魔物が人を喰い殺してからでは遅過ぎる。
だがククールはそのどれをも選びはしなかった。口にはしなかった。
魔物を、その赤ん坊にまで手を掛けたのは飢えて死に逝く赤ん坊を哀れんだためではなかったからだ。
魔物の牙に掛かり命を落とす誰かのためでもない。
「こいつらと俺たちはここでしか生きられない。傷付け合って生きるしかないんだ」
己が為だとククールは重なり合った母親と小さな赤ん坊を見つめた。
長い睫が一段とその眸の影を深くする。
数日後、ククールは修道院の回廊でマルチェロと擦れ違った。珍しく彼は誰も連れていない。
ククールが僅かに頭を下げる、その擦れ違い様のこと、
「ご苦労だった」
水が流れる音さえ鮮明に響く。
魔物討伐の任から外れることが多くなったククールをいったい誰が推挙したのか。
ククールは兄のただ一言で全てを悟った。
「いえ」
ククールは立ち止まり、振り返った。鮮烈の赤が薄暗い回廊に散る。
「命令を遂行したまでです」
「そうか」
彼は振り返ることなく、去った。
ククールはその背に聖堂騎士団風の敬礼を行った。
睫が眸に落とす影を隠すように、一度だけ長く眸を閉じながら。
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