Marcello*Kukule




キスとコイン



 俺たちの日常はコイン・トスで決まる。

 たとえば飯作り、たとえば洗濯、たとえば掃除、たとえば買い物、

 そろそろしなきゃなと思ったときに書斎に閉じこもりがちのマルチェロの所へ行き、

 「今日の昼飯」

 と云ってコイン・トスをする。

 コインを弾いて、手の甲に伏せ、

 「表?それとも裏?」

 当てれば勝ち、外れたら負け、そんな簡単なルール。

 だが俺たちのコイン・トスには二人だけの暗黙のルールがある。

 表は時に裏となり、裏が時には表となる。

 つまりコインのどちらが表で、どちらが裏かということは決めてないのさ。

 マルチェロは書き物の手を休めもしないで、「裏」と答えた。

 「じゃあ俺は表ね」

 そろりと被せていた左手を外せば、この国の偉大な王の横顔が彫られたコイン。

 「ちぇ、裏だ」

 俺はコインを宙に投げながらマルチェロの書斎を後にする。

 だが王さまの横顔は時には表にだってなる。

 もしマルチェロが暇そうに、退屈そうに、分厚い本を時間潰しのために読んでいたなら、

 王さまは表になった。

 だから厳密にはこれはコイン・トスじゃない。

 俺がマルチェロの様子を見て、飯作ってくれるかも、若しくは、忙しそうだから無理だろうな、

 と判断することを楽しむゲームだ。

 もちろんいつもマルチェロの心の内が読めるわけじゃない。

 だから外すときだってある。

 その時は、そもそもコインの裏表を決めていないことは承知済みの彼であるから、

 文句を露骨には云ったりすることはない。

 ただ買い物を賭けたとき、マルチェロは「表」と答えたが、

 「うーーーーん、今日は…裏…?」と俺が云うと露骨に顔を歪めた。

 きっと兄貴も雨の中、食材の買出しに行くのが面倒だったんだろうな。

 俺も面倒だと思う。そのへん、同感。思うから兄貴に行ってもらったんだけどさ。

 今再び俺はその面倒さに同感している。昼飯を作るだけの食材がないからだ。

 買い物、そろそろしなきゃ。

 そういうわけで俺はコインを持ってもう一度兄貴の書斎に行くことにした。




 俺は片腕に抱いた食材を詰め込んだ袋を雨から守りながら、雨の中を歩いていた。

 マルチェロは出掛けに自分が使っている大き目の傘を貸してくれたが、

 それは俺のためではなくて昼飯のために違いない。

 なんて素晴らしい俺の現状把握能力、客観的視点、兄貴への期待のなさ。

 結局このコイン・トスは俺にはたいへん不利なゲームなんじゃないかと最近思ってきた。

 マルチェロは忙しい振りをする上に、面倒な家事が賭けの対象の時には、

 自分が答えたコインの面を当たりにしようと俺に様々なプレッシャーをかけてくる。

 苛々して見せたり、全く反対に微笑して見せたり、

 俺はわかっちゃいるけどついつい俺の答えを外れにしちまう。

 以前娼館に連泊した昼帰り、晩飯を賭けてコイン・トスしたときには、

 疲れていたのでよっぽど兄貴に晩飯作りをしてもらおうかとも思ったが、

 兄貴の財布から連泊代を抜いたのがばれていたらしく、

 俺はあまりの恐怖で一週間も負け続けてしまった。

 正確には負け続けるようにコインの裏表を云い続けた。

 やっぱり俺が不利なんじゃないだろうか、この日常。

 「ただいま」

 傘を畳み、玄関に立てかける。

 キッチンへ行くと兄貴が幾つかある樽に腰掛け、野菜の皮を剥いていた。

 金をちょろまかしたほとぼりもそろそろ冷めた頃だろうと思ったので、

 「最近俺ばっかり家事してるような気がするんだけど。アンタみたいな男が熟年離婚されるんだ」

 と買い物のコイン・トスに負けたとき、云ってやったんだ。

 「せめて野菜の皮剥きくらいやってくれてもいいだろ」

 とも云ってみたんだ。

 したら、野菜の皮を剥いてくれてるよ、この人。

 「俺と熟年離婚したくないのか、兄貴」

 俺はとりあえずテーブルに食材袋を置きながら、黙々と皮剥きをしているマルチェロに云った。

 「そもそも結婚していないのにどのようにして離婚するんだ」

 脚の間に置いた生ゴミ桶に薄いじゃがいもの皮がするりと落ちる。

 「そういやそうだ。じゃあまずは籍入れるところから始めなきゃな」

 「始めなくていい」

 「…前々から思ってたんだけど、アンタけっこう包丁の扱い、うまいよな」

 包丁だけじゃない。

 捻くれ曲がってはいるが元は真面目な性格のマルチェロなので、何をやっても上手い。

 下手なことは努力して上手になる。

 まったく、楽して生きれない人だな、アンタ。

 するとマルチェロは次のじゃがいもを手に取り、云った。

 「…包丁だけではない」

 「へ?」

 以心伝心ですか?なんて考えていると、

 「刃物は一通りそれなりに扱える」

 そういう不穏な発言は止しましょう。

 そこで俺は買い物代として兄貴からもらった金が少し多く、小銭のおつりがあったことを思い出す。

 ちょろまかしても良かったが、経済観念がしっかりしたこの人相手にそんな危ない橋は渡れない。

 それに前科が二週間前にあるというのはあまり宜しくない。

 「兄貴」

 俺は買い物用にしている財布をそのままマルチェロに渡そうとして、

 「なんだ?」

 とやっとじゃがいもではなく俺を見上げてくれたその翠の目に手を止めた。

 財布からコインを取り出す。

 コイン・トスはなにも家事だけが対象じゃない。

 「俺が勝ったらキスさせて」

 そう云う頃には既にマルチェロはまたじゃがいもの皮を剥き始めている。

 俺はかまわずコインを宙に弾いた。

 きらりと二人の間で一瞬煌くようなきれいでピカピカのコインじゃないから、

 そのまま何事もなく俺の手の甲に着地。

 同時に左手を被せる。

 「…表」

 「それじゃ俺は裏」

 そろりと左手を外す。王さまの横顔が現れた。

 「兄貴、裏が出たぜ」

 腰を屈めて樽に腰掛ける兄貴の目線に合わせる。

 そのままキスさせてもらおうと顔を近づけたが、

 「どぅわ!?」

 俺が危うくキスしそうになったのは包丁。しかもスパスパとよく切れそうな刃ですこと!

 「あああああぶねえじゃねえか!」

 俺は慌てて身を引いた。

 もしかして読み違えた?キスしたら不機嫌になっちまう日?それとも俺より皮剥きのほうが大事なのか?

 「せめて包丁やめろよ。じゃがいもとかあるだろ」

 俺はふんと鼻を鳴らす。

 しかしマルチェロは包丁とじゃがいもを樽に置いて、ゆっくりと立ち上がった。

 「なんだ。じゃがいもとキスしたかったのか?」

 俺より一回りも大きいこの人は俺を見下ろし、鼻で笑う。

 俺はやれやれ、肩を竦めた。

 「そんなはずねえだろ」

 「ククール」

 「なに、なんですか?」

 俺が不機嫌を気取ってマルチェロをじろりと見上げると、

 しかしこの人はそんなのおかまいなしに「外れだ」と云い出した。

 きっと俺が「なにが?」という顔をしたのだろう、

 マルチェロの視線がテーブルの上に置いた財布と幾つか散らばったコインを示す。

 なるほど、外れだから拒んだ、実に理論的。

 しかし包丁は間違ってないか?

 もし俺が寸前で引かなかったら、鼻の頭を切ってたぞ。

 うーん、それは顔が取り得の俺の価値に重大な影響を与えるんじゃないか?

 そんなことをぼけっと考えていた、その隙にマルチェロが俺の顎を痛いほど掴んだ。

 「いでででで!」

 素直に口から漏れる悲鳴。

 マルチェロはいつの間にか近づけていたその顔に呆れの色を濃くして、

 「…お前には雰囲気というものが欠如しているな」

 なんだよ、それ。

 と問う間もなく俺はマルチェロにキスされていた。

 なんだ、兄貴の顔が近付いていたんじゃなくて、

 キスしやすいように俺の顔と体を力ずくで持ち上げていたのか、この人。

 めちゃくちゃ自分勝手だな。

 なんてキスを繰り返しながら考えているから、雰囲気がないとか云われるのかも。

 そしてやがて離れたマルチェロはこう云ってふふんと微笑した。

 「私からしたい気分だったので、私の勝ちとさせてもらった。問題はあるかね?」

 返事をしなかったのはこの人のあまりの自分勝手さに呆れ、

 おまけに掴まれた顎が痛かったからであって、断じてアホみたいにぽーっと赤くなってたからじゃない。






             back or next