Marcello*Kukule




神さまにはなれない



 礼拝後も長く席を立たない青年をトーニオ神父は不思議に思った。

 蚕繭よりも繊細な銀髪を白い項で結んだ、

 しかしその豪奢な髪には見合わぬ簡素な衣服を纏った青年はこのサヴェッラでは見掛けない顔。

 巡礼者だろうかと考えながら祭壇から声を掛ける。

 青年は祭壇より最も離れた席に腰を下ろしていたが、

 二人きりのしんと静まり返った聖堂ではその距離で充分だった。

 「随分と熱心にお祈りをされているようですね」

 云うと青年は苦く笑んだ。

 「偶にね。女神さまに助けて欲しいだけ、祈るんだ」

 それまでは姿勢を正していたというのに、急にその長い脚を投げ出す仕草をする。

 涼しげな容貌のせいか大人びて見えるが、

 実は思うよりも歳若いのではないかと神父は考えたが、それについて言及はしなかった。

 「人が神に祈るときは、大抵そのようなときでしょう」

 「神父さんのくせにいい加減だな」

 青年は僅かに相好を崩した。先程よりも幼く見える。

 だが次に青年が見せた微笑は彼をまるで長く生きた老人のようにした。

 「なあ神父さん、神さまなんているのかな?」

 途端、混迷。

 神父が口を噤むと青年はゆるりと睫を伏せ、脚を組んだ。

 少し冗談めいて云う。

 「祈っても祈っても、全然願い事が叶わないんだ。

 公的福祉サービスの悪さは役所に云いに行けばいいんだろうけど、

 こういうときって何処に文句云いに行けばいいか、知ってるなら教えて欲しいもんだ」

 神父は苦笑した。

 しかし聖書を胸に抱く。

 「神さまはおわします」

 青年は笑むのを止めた。若しくは終えた。

 脚は組んだままであったが、その長い睫の先は神父へと何かを捧げるようだった。

 神父は青年の代わりに微笑む。

 「神は常にあなたの中に」

 青年は再び苦笑した。

 彼の苦笑の底はやさしいとも哀しいとも神父が思う内に、青年は教会から姿を消していた。




 夜が闇を引き連れやって来る。

 灯りはない。

 月の光は窓に掛かる幕によって遮られ、蝋燭の炎さえも既に部屋の主によって全て吹き消されていた。

 部屋を支配する闇に影さえ溶け込む。

 ただここに深く眠る者がいるということをトーニオ神父は知っていた。

 彼が夢を見ているのか、見ているならばどのような夢なのか、それらを知る術はない。

 息を殺し、足音を消し、心を静める。沈める。

 夜目に慣らした神父の目が寝台と掛け布に包まる者を捉えた。

 眠る者は神父に背を向けていたが、トーニオ神父には分かっていた、

 即ち彼こそが聖堂騎士団の騎士団長マルチェロ、その者であるということを。

 右手に携えていた短剣に左手を添える。

 人の体は思う以上に弾力性に富み、短剣の切先程度では両手を添え、体重を掛けて貫くより他ない。

 騎士団長という地位に裏打ちされたマルチェロの実力を考慮し、

 最初の一撃で死に至らしめるならば尚更のこと。

 神父は神に祈りはしなかった。両手に握った剣を神に捧げるようにして翳す。

 マルチェロは眠ったまま動かない。

 迷いはなかった。

 迷いは一撃目を弱らせ、二撃目の機会は必ずないのだから。

 肺に満ちていた夜の息を一気に吐き出すと同時に、

 トーニオ神父は良く研いだ刃の切先をマルチェロに振り下ろす。

 だが皮、肉、内臓、もしくは骨に刃が潜り込む鈍い感覚を覚悟していた神父の手に伝わったのは、

 手応えのない布を切り裂く感覚と、その後すぐの木に切先が嵌まり込む感覚。

 そして喉元に添えられた刃の冷たさだった。

 熱いと神父は思った。

 頬がちりちりと焼かれる痛みにそちらを見遣れば、燭台に三本の蝋燭。

 炎が神父の喉に背後から刃を当てる者の姿を浮かび上がらせた。

 「マルチェロ殿か」

 神父はそろりと寝台に突き刺さった短剣から両手を離した。

 炎が神父の耳元から寝台へと空を切り、ごうと音を立てる。

 寝台には見覚えのある銀髪の青年が片膝を付き、神父と神父を拘束するマルチェロを見ていた。

 今は赤い聖堂騎士団の衣を纏っている。

 青年は言葉を発しなかった。

 「トーニオ神父」

 マルチェロは燭台を傍にあった台に置いた。

 だが彼の短剣は未だ神父の喉に当てられたまま、微動だにしない。

 トーニオ神父からはマルチェロの表情を知ることは出来なかったが、

 赤い衣を纏った青年の険しい表情の眸を覗けば、この偉丈夫が静かに微笑していることが分かった。

 「この聖地サヴェッラにおいて神に仕える貴方ともあろう方が」

 マルチェロの刃が神父の薄皮のみをゆっくりと切り裂く。

 「神に祈るためのその手で剣を握り」

 痛みはなかった。

 「神の剣の長たる私をその手を掛けようとするとは」
 
 だがトーニオ神父の血が剣を辿り、

 「あなたの神はあなたに人を殺せと云う神なのか」

 絨毯へと零れ落ちる。

 次の瞬間、トーニオ神父は鋭い痛みを感じた。

 首筋が先程よりも僅かに深く切られたらしい。

 「誰に頼まれた」

 マルチェロの押し殺したような低い声がトーニオ神父の鼓膜に響く。

 彼は獣の牙をわざとちらつかせて見せているのだ。

 自身を殺めようとした者への純粋な怒りがあると見せかけて、

 それさえも彼にとっては効率の良い手段の一つでしかない。

 故、トーニオ神父は沈黙した。

 だがトーニオ神父の黙秘はマルチェロにとってはあまり意味を成さなかった。

 「まあ良い」

 すぐに自白の強要を止める。

 「大方の予測はついているのでね」

 また絨毯に血が滴った。

 神父は項垂れる。

 それに追い討ちを掛けるようにマルチェロは神父の背後で囁いた。

 「さて、トーニオ神父。貴方の今後の処遇についてだが」

 神父の死をマルチェロの唇が紡ぐ、その寸前、蝋燭が揺れた。

 銀髪の青年がいつの間にかマルチェロの剣を握る手を押し留めていた。

 「団長殿、お待ち下さい」

 青年は淡々とした口調で騎士団長に云った。

 マルチェロは興味深げに青年を見下ろし、先を促す。

 「この者は明日もサヴェッラの教会で礼拝を執り行う者です。

 行方不明の騒ぎを起こすよりも、もっと効果的な方法があるかと」

 「なるほど」

 マルチェロは頷き、短剣を鞘に収めた。

 解放され、神父は床に膝を着く。だがそれは長くは続かなかった。

 神父の前に立ったマルチェロによって喉をぐいと掴まれ、引き上げられたからだ。

 眸を移せば、騎士団長の傍に青年は立ち尽くしていた。

 冷淡な眼差しで神父を捉えながらも、罪悪感に怯える幼い子供の眸をしていた。

 「あなたの神に私は命を救われました」

 神父は青年に微笑んだ。

 マルチェロはゆるゆると神父の喉を掴む手に力を入れ始める。

 「安心されよ」

 炎が唯一の灯りの部屋にキリキリと耳を塞ぎたくなる音が低く響く。

 「礼拝を執り行うことは二度と出来はしないだろうが、

 祈りとは自らの内に在る神との対話なのだから、声など必要ないでしょう」

 声なき絶叫に青年は眸を逸らした。




 神父は見た。

 マルチェロが眸を逸らした青年を実に満足したように、愉しげに、その目に映していることを。

 青年の内にある神の絶対的な非力さを嘲っていることを。

 神父は悟った。

 最初から命だけは救われることは決まっていたのだ。

 青年の神は神父の命以外全てを救えないと決まっていたのだ。

 誰でもない、マルチェロによって全ては決められていたのだ。




 床に沈んだ神父を見下ろし、ククールは呟いた。

 「もっと早くに、神父さんの剣を止めてくれても良かったんじゃないですか?」

 治癒呪文を唱え、神父の首についた傷を治す。

 「もう少しで、俺、死んじゃうところでしたよ」

 しかしマルチェロは答えず、寝台に突き刺さったままの短剣を引き抜いた。

 蝋燭の炎が刃に灯る。

 「私の神は人を殺せという神ではないが」

 マルチェロは微笑した。

 「神の声は遠すぎて、私には聴こえぬ」

 彼の微笑は怖ろしいとも美しいともククールは思う。

 そうしてその底の底は哀しいとククールは思う。




 教会関係者たちと法王付きの近衛兵を束ねる者たちは祭壇の奥で顔を突き合わせ奥歯を噛んでいた。

 礼拝堂には既に巡礼者やサヴェッラの住民、僧たちも集まっている。

 トーニオ神父からは声が失われていた。

 何故と問う者はこの場にはいなかった。

 問わずとも、何故、誰が、彼から声を奪ったかは分かっていた。

 不意に祭壇へと通じる扉が開く。

 「おやおや、いつまで経っても礼拝が始まらないと思ったら、このような所で皆さんお集まりとは」

 現れたのは先日よりサヴェッラに視察滞在している聖堂騎士団の団長、マルチェロ。

 昨日までは見掛けなかった赤い衣を纏った銀髪の騎士を連れている。

 マルチェロはその場の者たちを見渡し、云った。

 「もしも礼拝を挙げる者が何らかの事情で不在ならば、僭越ながら私が代行しても宜しいが、如何かな?」




 「アンタの神さまに俺は命を救われました、か」

 そういうことにしておこう。

 ククールは澱みなく高らかに女神へと祈りを捧げるマルチェロを一番遠くから見つめる。






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